ジョージ・オーウェル 『一杯のおいしい紅茶』

小野寺健編訳、朔北社1995)

オーウェルのイギリス人気質

 こういうブログでも、あるいは新聞や雑誌とか、どのような機会でもいいのだが、もしあなたがエッセイストだったとして、何でもいいから好きなことを書いてくださいと頼まれたら、どんなことを書くだろうか。英語で言うgeneral readerのような、不特定多数に向けての発信で、本当に何を書いてもかまわないという場合。こんなときは、みんな自分の好きなこと、自分にとって興味のあることテーマとして選ぶのが自然だろう。果物のみかんが好きな僕としては、今時分の季節柄もあり、「一個のおいしいみかん」というタイトルで、なんだか長々と書けそうな気がする。

 だから、ロンドンの代表的な夕刊紙『イヴニング・スタンダード』の1946年1月12日号に「一杯のおいしい紅茶」という記事を寄せたジョージ・オーウェルが、おそらく紅茶大好き人間だったのだろうという推測は、その内容を読まなくても間違ってはいまい。そして実際に読んでみれば、彼の十一項目にも及ぶ「紅茶はかくあるべき」というこだわりようを知ることになる。不思議なことに、この記事を読むと本当においしい紅茶が飲みたくなってしまうのだが、この記事が書かれた当時、つまり、終戦直後の窮乏時代の寒い冬に、人々がおいしい紅茶に焦がれていた世相が伝わってくるせいかもしれない。もちろん、オーウェルの書き方が素晴らしいせいもあるのだろう。ということで、なんだか紅茶が飲みたくなってきた。余談になってしまうけど、僕にとってのおいしい紅茶は、ダージリンのファーストフラッシュとかセカンドフラッシュで、草というか、葉っぱというか、そういう植物の香りがしっかり残るものをやや濃い目に入れて飲みたい。別に砂糖やミルクはいらない。おいしい紅茶は、おいしい緑茶の感覚に近いと僕は思う。

 紅茶についての他に、「水月」という名前のパブについて書いた記事も同紙に寄せていて、これもこの本に収録されている。パブ「水月」は実は存在していなくて、オーウェルの想像上のものなのだが、この「水月」の描写を通して今度は「パブはかくあるべし」という持論を展開している。ヴィクトリア朝の雰囲気、本物の暖炉、騒がしくないお客、感じの良いウェイトレス、おいしい食事、陶器のマグカップで供されるうまいビール(とくにこれは同感。ビアジョッキは陶器のほうが良い)、中庭があって家族全員で楽しめる環境…など。「水月」は想像上のパブだから、実際にはこんな素敵なところはないのだけれども、少なくともオーウェルがパブ嫌いではなく、そしてビール嫌いでもないということは、十分に察することができる。パブが好きでビールが好きだからこそ、こんなパブがあったらいいだろうなと期待するのだ。

 「ガラクタ屋」という記事も「イヴニング・スタンダード」に掲載され、この本に収録された。ガラクタ屋、つまり現地で言う「ジャンク・ショップ」のことなのだが、つまり「骨董品店」というようなこじゃれたお店ではなくて、汚くて、ごちゃごちゃ雑然と多種多様な古物が並べられ、値段もいい加減、お店の人もまったく商売っ気なし、こんなお店を続けていて食べていけるのか…みたいな、そういうお店のこと。今の日本でいえば、何でも扱うリサイクルショップを、うっすら埃をかぶせて、薄汚く散らかしたようなイメージ、といったところだろうか。オーウェルはこういうジャンク・ショップが好きで、近くを通りかかると、ついつい立ち寄って中をのぞいてしまうという。こういう気持ちは、誰しもあるものだろう。つんとすまして「僕の身近にはリサイクルショップなんてないから、こんな経験ないよ」と書きたいところだが、よくよく考えてみると、ブックオフの近くを通りかかると、別に買うつもりはなくても、何か掘り出し物がないかなという気分で、ついぶらりと立ち寄ってしまう自分がいることに気がつく。「ジャンク・ショップを楽しむには、何かを買うどころか、買いたいと思う必要さえもない」とオーウェルは書いているが、「ジャンク・ショップ」のところを「ブックオフ」に書き換えれば、これはまったく同じ心境ではないかと思う。

 また、このエッセイ集を読むと、オーウェルが細やかな自然観察をする人物だったこともわかる。天候、植物の成長の様子、鳥たちの鳴き声、動物たちのふるまい(とくに、ヒキガエルについての「ヒキガエル頌」というエッセイはおもしろい)、こういった自然の様子に細かく眼が行き届く人だったのだなということがわかる。となると、紅茶も好き、パブも好き、本物の暖炉も好き、イギリス料理も好き、自然観察や庭仕事も好き…ということで、なんとも典型的なイギリス人像が浮かび上がってくる。一般読者が読む新聞・雑誌に寄稿した記事だから、あんまり極端な主張はしづらいという制約はあったろうが、ジョージ・オーウェルという人が、左翼知識人というレッテルを張られているものの、実際にはかなりイギリス人気質で、伝統的・保守的な面があったことに改めて気がつかされる。

『一九八四年』への道

 上で紹介したエッセイ「ガラクタ屋」で、ジャンク・ショップにはあんなものもあるし、こんなものもあるよ、とオーウェルは紹介していくのだが、その中にこんな一文がある。

そのほかにもガラスの中に珊瑚を封じこめたものもあるが、これは例外なくべらぼうに高い。(p.92)

この「ガラスの中に珊瑚を封じこめたもの」で、あなたはピンと来るだろうか。そう、小説『一九八四年』で主人公のウィンストン・スミスが、チャリントン氏が経営するジャンク・ショップで買ったのも、珊瑚が入っているガラス玉だった。その場面はこんな具合:

「なにかね?」ウィンストンはすっかり心を奪われてしまった。
「珊瑚なんですよ。インド洋からきたものに違いありません。昔はこうして珊瑚をガラスの中にはめこんだものでしょう。出来てから少なくとも百年くらいはたっていますね。いや、もっとたっているかも知れませんね、見かけたところでは」
「美しい品だね」
「美しい品ですよ」老人〔チャンリントン氏〕はほれぼれと言った。「なんですか、近ごろはそうおっしゃる方がたいそう少なくなりました」彼は咳払いをした。「さて、もしあなたさまが欲しいとおっしゃるのでしたら、四ドルにしておきましょう。あのような品々で、八ポンドも取られたような時代をよく覚えています。八ポンドといえば――いや、どうも、うまくドルには換算できませんが、大変な金額でしたよ。…」*1

珊瑚入りのガラス玉が、ジャンク・ショップでも八ポンドもするような高価なものだったという『一九八四年』で描かれた情報は、オーウェル自身が日頃から方々のジャンク・ショップを足しげく訪問していたことに由来するということがこれでわかる。というか、そもそも『一九八四年』で、チャリントン氏の経営するこの店が、すさんだ小説内のロンドンの中でも、なんだかウィンストンが憩える場所のように描かれていることに気がつくが(この店の二階が密会の場所として使われることを除いても)、それもそのはずだろう。ジョージ・オーウェル自身がエッセイで語るくらいジャンク・ショップ好きだったのだから。

 実は、今回のエッセイ集『一杯のおいしい紅茶』を読み、一番強く感じた僕の感想は「このエッセイ集を読まずして『一九八四年』を語ることはできない」ということだった。ちょうど『一九八四年』執筆直前くらいに書かれたエッセイが多く収録されていることもあり、上に紹介した珊瑚の例のように、この衝撃的な小説のディテールが、実はエッセイにて既に語られているという例が他にもいくつかある。ウィンストンが暮らす「勝利マンションズ」は「天井や壁から漆喰が絶えず剥げ落ち、寒気が厳しくなるたびに水道は破裂するし、雪が降ればそのつど屋根から水漏れ」がする*2、と描写されているが、これは「食器洗い」という収録エッセイを読むと納得できてしまう。

いまわたしが住んでいるアパートも一部分が居住不能になっているが、これは敵の空襲のせいではなく、雪が積もったために屋根が漏って天井のしっくいが落ちてくるからなのだ。珍しい大雪が降るたびにかならずこういう災難が起きるのは、常識ということになっている。三日間は水道管まで凍ってしまって水が出なかった。これも当然のことで、ほとんど年中行事にひとしいのだ。しかも破裂した水道管の数があまり多いために、修理には一九四五年の末までかかるだろうという(p.48)

他にも、『一九八四年』ではウィンストンの隠れ家の近くで流行歌を歌っているプロレ階級の女性が登場するが、エッセイ「懐かしい流行歌」を読むと、オーウェルが世間の流行歌とかに興味を持っていたんだなあということがわかる。そういえば、小説『動物農場』でも動物たちが歌(『イギリスのけだものたち』)を斉唱する場面があったが、オーウェルは音楽、とくに歌好きだったのかもしれない。さらに、上のほうに書いたようにオーウェルはパブについても意見があったようだが、ウィンストン・スミスも党員には禁じられたパブをわざわざ訪れて、ビールを飲むことになる。

ブレイの牧師

 今回読んだエッセイ集『一杯のおいしい紅茶』のうちで、一番僕が好きなエッセイは「ブレイの牧師のための弁明」だった。ブレイの牧師(Vicar of Bray)というのは、国王が交代するたびにキリスト教の宗旨替えをして地位を保ったという俗謡があって、そこから無節操とか、日和見主義ということを表す言葉だが、オーウェルはあるとき、このブレイの牧師が実際に植えたというイチイの木に出会った。この堂々と立派に大きく育ったイチイの木を見て、このように書く。

ブレイの牧師は『タイムズ紙』に論説を書くほどの教養はあったにしても、とうてい褒められた人物ではない。だが、長い歳月をへた今のこっている彼の形見は、戯れ歌が一つと木が一本だけで、幾世代にもわたる大勢の人の目を楽しませてきたこの木の功績が、この牧師の変節がまねいたさまざまな弊害より大きいことは、まずまちがいない。(p.112-3)

悪事を働いたり、悪名が高くなったとしても、長い年月を経て、このように大勢の人々が憩うことができる木を一本でも残すことができたのなら、社会の恩人として認められるべきではないか…こういうところに気がつくのが、いかにもオーウェルだなあと思う。そして、僕がオーウェルを愛好するのも、このようなものの見かたと出会い、共感できるからだ。

*1:新庄哲夫『一九八四年』ハヤカワ文庫、p.122

*2:『一九八四年』p.31

 D.H.ロレンス 『恋する女たち』

福田恒存訳、新潮社 1969)

〔D.H. Lawrence Women in Love 1920〕

水泳

 近頃、頻繁にプールに泳ぎに行っていて、そのせいもあってこのブログの更新がなかなか進まなかったりするのだが、それはともかく、やっぱり水泳は気持ちがいい。個人的には水を切って進んでいく感覚が気持ちいいのだが、べつに水に浸かる快感は泳げなくたって味わうことができる。たとえば、温泉を訪れてその湯船に浸かるのは、また格別の気持ち良さだ。世の中にはお風呂が好きではないという人もいるそうだけれども、僕は家の狭い浴槽だって十分に気持ちがいいと思う。日本のお風呂場は湿気が多いので無理だけど、ロンドンにいた頃、僕の住んでいたフラットの浴室は湿気がこもらなかったので、休日は新聞や本を読みながらゆっくりお風呂を楽しんだものだ。あれは今考えると贅沢なひとときだった。熱かったお湯もやがてぬるくなる。たまに、本が手から滑り落ち、水没してしまうという事故も発生した。

 古今東西の小説で、登場人物が泳ぎだす場面というのはきっとたくさん存在するのだろうけど、戦後のイギリス文学で「水」ないしは「水泳」のイメージといえば、僕はなんといってもアイリス・マードックの小説が念頭に浮かんでくる。彼女の小説で「水」が登場しない作品はないのではないかと思う。もっと厳密にいえば、これはつまり、誰かしらの登場人物たちが、必ず水に浸るということだ。1970年の小説『A Fairly Honourable Defeat』では、フォスター夫妻の住む家の庭にプールが登場する。『The Philosopher’s Pupil』(1983)では、ストーリーの設定がエニストウン(Ennistone)という街になっているのだが、この街は実在の地方都市バースがモデルになっているらしい。バースといえば鉱泉が有名だが、小説のエニストウンでも、人々は街の中心にある温泉プールに集まり、プールは社交場と化す。マードック一番の代表作である『鐘』(1958)でも、水泳の場面は重要な役割を果たしている。トビーという若者が泳がなければ、タイトルにもなっている肝心な鐘が見つからないのだ。この鐘は池の底に半ば埋もれて沈んでいる。

 水と水泳が美しく、効果的に描かれた小説といえば、僕はE.M.フォースターの『眺めのいい部屋』(1908)も忘れることができない。主人公ルーシー・ハニーチャーチの住むタンブリッジ・ウェルズの一角には、木々の生い茂る森があって、その森に、雨が降った後にだけ泳ぐことができる大きさになる美しい池(通称「聖なる湖」という)があった。あるとき、ルーシーの弟フレディーと、最近近くに引っ越してきたジョージ・エマーソン、そして地区担当のビーブ牧師の三名が、裸になりこの池を泳ぎ始める。すると、それまでの三人のわだかまりが消え去ってしまう…「雨が清々しさを運んできたせいだろうか、それとも太陽が栄光の熱を注いでくれたせいだろうか、それともふたりが若く、もうひとりの心が若かったせいだろうか、何が原因かわからないが、何かが三人を変え、三人はイタリアのことも、生物学のことも、運命のことも忘れ去った。」*1日本には「裸の付き合い」なる言葉があるが、なんだかこういう言い回しがここでも通用しそうな感じだ。服という社会的装いを取り払い、新鮮な水によって心も体も清められ、人々の間には親近感が生じ、そして素直に、率直になっていく。

 さて、D.H.ロレンスの『恋する女たち』でも、登場人物たちが泳ぎだす場面がいくつかある。「跳びこみ」と題された第四章では、アーシュラとグドルーンの姉妹が、ウィリー・ウォーターという湖をジェラルド・クライチがすいすい泳ぐ様子をじっと眺めている。そしてロレンスの場合、泳ぐことの快感はこのような言葉となる:

突然、ジェラルドは向きを変え、横泳ぎで沖のほうへすいすい泳ぎ去った。いまやまったくひとりきりになり、湖水のまっただなかに、孤独で、なにものにも侵されることなく、新しい世界のなかに孤立していることに、男は誇りに満ちた歓喜を感じた。いちずに幸福だった。脚を伸ばし、体を投げだし、あらゆる絆や結びつきから免れて、この水の世界のなかにひたすら自分自身でいられることの幸福。(上巻p.89)

「あらゆる絆や結びつきから免れて」というところに、僕自身としては、泳ぐときの気分が伝わってくる。仕事とか、その他もろもろの瑣事を忘れて(忘れるために)、プールで泳ぐのだから。ただし、「脚を伸ばし、体を投げだし」というように、身体についての言及が律儀にもあるところが、いかにもロレンスらしい。読者の視点を、登場人物たちの体、とくに裸体に向けさせるのが、ロレンス式の水泳描写。だから、ハーマイオニ・ロッディスの邸宅ブレッダルビーをブラングウェン姉妹が訪れた際に(第八章)、そこの池で行われる水浴でも、泳ぐことよりは、どちらかといえばその場の人々の体つきを描写することのほうがメインだったりする。

 フォースターの『眺めのいい部屋』での「聖なる湖」の場面にあったように、裸になって泳ぐことによって心身ともに清められ、人と人との間のわだかまりが解消する、というような場面が、『恋する女たち』の第十四章に出てくる。アーシュラとグドルーンの姉妹は、カヌーで湖を漕ぎ出し、人気のない入江で二人きりで裸になって泳ぐ。そして泳いだあとは、裸のままその辺りを駆け回って遊び、体が乾いてから服を着て、二人きりでお茶を楽しむのだった。おそらくこの場面はこの小説の中で一番美しい情景ではないかと思う。この二人の幸福感は、このように語られる:

「あんた、幸福?」アーシュラは妹を見つめながら、嬉しそうに、はしゃいでいった。
「アーシュラ、あたし、とても幸福よ」グドルーンは沈みかかった太陽を眺めながら、まじめにそういった。
「あたしも幸福だわ」
姉妹が一緒にいるとき、そしておたがいに好きなことをやっているとき、二人はいつでも二人だけの完全な世界のうちにあって、まったく満ちたりていた。そして、いまこそ、そういう自由と歓喜とに溢れた完璧な瞬間のひとつだったのだ。(上巻p.295)

そしてこの情景は、おそらくこの小説で、アーシュラとグドルーンという二人の姉妹の関係がもっとも美しく描かれる場面でもある。「姉妹の文学」という観点でいえば、これまでにこのブログで読んできたような、ドラブルとかバイアットとか、ああいうふうな、はっきりとした愛憎関係は『恋する女たち』では描かれていない。この小説の中で、姉妹の緊張した関係を多少は読み取れなくもないが、僕が想像するに、どうもD.H.ロレンスはこの方面のことには、つまり、姉妹の愛憎関係を描くということには、あんまり興味がなかったのではないかという感じがする。むしろ、ジェラルドという一人の男を軸に、彼とグドルーンの愛憎と、そして彼とバーキンの同性愛めいた人間関係を作りあげていくことにロレンスのねらいはあるようだ。そして、大まかにみると、『恋する女たち』という作品全体は、ジェラルドという男がいかに魅力的であるか(ヴァイタリティーに溢れているか、というべきかもしれない)ということをあらゆる面から描いている小説になっている。だから、作中の水泳の場面も、そんな彼の魅力を伝えるための手段のひとつとして設定され、描かれたのだろうと思う。

 その後ストーリーは進行し、水泳ができるような温かい水の世界から、氷点下の冷たい雪の世界へと場面が大きく転換する。小説の終盤、アーシュラ、グドルーン、ジェラルド、バーキンの四人はオーストリアチロル地方の雪に包まれた山小屋へ旅行に出かける。トーマス・マンの『魔の山』のシチュエーションを彷彿とさせるような、壮絶な雪山の世界。ジェラルドの凍死という結末を迎えてこの小説は終わる。

(訂正)
 前回のブログで、E.M.フォースターの小説で自動車が初めて登場したのは『ハワーズ・エンド』からだと書きましたが、今回『眺めのいい部屋』をよく読んでみたところ、一箇所、簡潔ながら自動車が言及されているところがありました。(第十二章冒頭の一部、「サマー・ストリートを通り過ぎる自動車が巻き上げる埃もわずかで、ガソリンの匂いも風で吹き払われ、たちまち松や白樺の湿った匂いにとって代わられた。」)

*1:西崎憲・中島朋子訳、『眺めのいい部屋』(ちくま文庫、2001)よりp.229

 D.H.ロレンス 『恋する女たち』

福田恒存訳、新潮社 1969)
〔D.H. Lawrence Women in Love 1920〕

ジェラルド・クライチの放電

 昔に書かれた小説を読んでいると、当時の技術や生活についての自分の無知ぶりに気づかされることが多々ある。たとえばジェイン・オースティンの小説の時代。登場人物の移動手段は馬車がメインで、蒸気機関車は現れていない(ように思える…僕が覚えている範囲だと)。そして馬車と一口に言ってもいくつかの種類があって、これこれの馬車はかっこいいとか、おしゃれだとか、登場人物たちがあれこれ評を下す場面もあって、これはさながら、ある種のステータスシンボルともなっている、現代の自動車みたいなものだったのだなと気がつく。

 その自動車はいつから世界の舞台に登場したのだろう。テレビ版の「シャーロック・ホームズの冒険」を観ていると、ホームズ以下登場人物たちは馬車に乗ってロンドンの街を行きかう。ところが、テレビ版「ポワロ」を観ていると(この探偵小説番組は1930年代半ばに設定されている)、かつての馬車はさっぱり見当たらず、完全に自動車の世界。モータリゼーションは、このたった三十年ばかりの間に起こったらしい。ところでこの「ポワロ」では時代考証に基づき、当時の自動車、今から言えばいわゆるクラシックカーがたくさん登場してくるので、ポワロの推理に興味がなくてもこういうのが好きな人にとっては、なかなかおもしろい番組なのではと思ったりする。

 小説の中での自動車の登場に関して、個人的に一番印象に残っているのはE.M.フォースターの『ハワーズ・エンド』(1910)に自動車が登場することだろう。姪のヘレンの様子を見にロンドンから出かけたマント夫人は、最寄り駅のヒルトンからウィルコックス家の自動車に乗ってハワーズ・エンドに行く。読んでみると、赤い革張りのシートになっているらしいところと、村の道路で砂塵を思いっきり巻き上げながら走っていくところが印象的だが、とくにこの小説で自動車が記憶に残っているのは、僕がフォースターを好きだということに大きく関係している。彼の長編小説で、『天使も踏むのを恐れるところ』(1905)と『果てしなき旅』(1907)、『眺めの良い部屋』(1908)には自動車が登場しなかった(はず)。そして『ハワーズ・エンド』で自動車が現れ、次作『インドへの道』(1924)では、もはや当たり前のように自動車が描かれる。だから、僕の頭の中では、時代の分水嶺は『ハワーズ・エンド』にある。

 小説を読んでいると、登場人物のことやストーリーに気を取られてしまうので気がつかないが、こういう小道具に時代感覚が潜んでいて面白かったりする。交通手段のほかに、テレビ版の「ホームズ」と「ポワロ」を見比べていると、「ポワロ」では電話がごく普通に使われているのにも気がつく*1。そして電気。オースティンの時代は、みんなロウソクの明かりで夜を過ごしていた。そしていつの間にか部屋の照明は電気に変わっている。これはいつの頃だろう。またもや『ハワーズ・エンド』で申し訳ないが、登場人物の一人、レナード・バストの住む、ロンドンの場末の狭い半地下フラットについて、こういう描写がある…「居間には電気がつけっぱなしになっているだけで、だれもいかなかった(The sitting-room was empty, though the electric light had been left burning.)*2」ロンドンの上流階層ではない人々が住む住宅でも、この小説の書かれた1910年ごろには電気が通じていたらしいということがわかる*3。今日、電気が部屋を明るくし、電話で話し、自動車や電車で移動するのは、自分たちが生まれる前から実現していたごく当然のことなので、これらの文明の利器がいったいいつから世の中に普及したのか、正直よくわからなかったりする。本当なら歴史という教科でこういうことはお勉強すべきなのだろう。でも、小説を楽しむ副産物として、結果的にこんなことも気がついていくようになっていく。

 でも、僕が読んでいるのは歴史の教科書ではなくてやっぱり小説なので、自動車や電気が単なる情景描写以上の意義を持って、つまり「文学的に」描かれている場面に出くわす。『ハワーズ・エンド』では、自動車は単なる移動手段としてではなくて、ウィルコックス家の象徴する文明世界の権現のような意義を持たせてフォースターは書いている(そして、マーガレットはこういう自動車を嫌がる)。そして、今回『恋する女たち』を読み、この1920年に出版された小説が、電気というものを、明かりをつけたり物を動かしたりするような即物的な作用以上のものとして描いている点が、僕は気になった。具体的にはこういう箇所:

女〔ミネット〕はだるそうに瞳をいっぱいにあけて、なおも男〔ジェラルド〕の顔に見いっている。その視線が男の好奇心を強く刺戟した。男は自分自身を、そして自分の魅力を鋭く意識して、深い喜びに浸されたのだった。身うちから電力(electric power)を放射しうるのではないかと思われるほど、力の充足感を覚えたのである。(p.113)


女が自分の力のなかにあるのを感じて、ジェラルドの心は寛大になった。四肢のうちに電力(electricity)が満ち溢れ、肉感的な豊かさがあらわにうかがえる。それがひとたび放射されたならば、相手は完全に打ち砕かれたであろう。(p.113-4)


ミネットはジェラルドの隣に座っていた。すると自分の全身がいつしか柔軟になり、そのまま男の骨のなかに溶けこんでいくような隠微な陶酔感を覚えてくるのであった。あたかもわが身が暗い電気の流れ(a black electric flow)にのって、相手の体内に流れ込んでゆくような感じだ。(p.129)


ジェラルドは、女がそこに静かに控えめに坐っていても、自分とのあいだに強い結合感(原文ではelectric connection)を感取することができた。男の心理は一変していたのだ。が、女の沈黙と、変化を見せぬ外見とが、ジェラルドを困惑させた。いったいどうしたら女の心に触れることができるだろうか。ジェラルドは、事のすでに避けがたいことを直感していた。二人の間を流れる電流(current)に深く信を置いていたのだ。(p.132-3)

 ロレンスは電流のイメージをこのような場面に使っているのだが、まあ、言いたいことはどういうことかは理解できる。日本語でも「シビレる」という表現があることはある。電気の持つ、光りを放射したり、物を動かしたりする力(パワー)のイメージ、そして電線を伝わって水のように流れていくイメージ、また、感電という現象から派生する危険な痛々しいイメージ(静電気も痛い!)。こんなイメージが、ロレンスにとっては美男美女の心の交流を描くのにぴったりだったということなのだろう。

 男女の機微のようないたって人間的な事柄を、電気のような、どちらかといえば科学技術的な比喩で表現するところが面白い。当時の読者にとってはなかなか新奇な表現だったのではないかと想像する(現代の読者にとってもかも――よく考えてみれば「あなたと私の間には電気が通い合っている」なんて言うわけないし)。冷静に読むと、ジェラルドはあたかも電気をバチバチ放っているみたいなわけで、「俺に近づくとアブナイよ」みたいな、なんだか電気ウナギのようで、これは一種のユーモアとして受け取るべきなのかなと感じなくもないが、少なくとも僕が読んでいる限り『恋する女たち』にはロレンスのユーモアの表出はぜんぜん感じられないので、こういう電気的描写も謹厳に読んであげたほうが無難だろう。

 電気とイギリス文学といえば、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』で、あの不気味な人造人間が動き出すようになるのは、たしか、雷の電気を与えてからだったような気がするが、最近は読んでいないので忘れてしまった。もしそうだとしたら、あれは天然の電力を使用した一種の除細動(アメリカのテレビドラマ『ER』で救急救命士が心臓に電気ショックを与える場面が印象的。心臓がうまく動かない状態になってしまった人のための医療行為で、最近はこのための道具「AED」をあちこちで見かけるようになった)だったのだろう。まあともかく、『フランケンシュタイン』の場合は雷で命を吹き込まれたというわけで、この場合の電気は、神がかったような、なんだか神秘的、オカルト色の強いものだと思う。『恋する女たち』で見られたような、本来の電気の性質(力、流れ、痛み)に基づいた役割ではない。

 というわけで、身近に使われるようになった電気に対し、その性質を踏まえ、さらに電気に文学的な役割を与えている点では、『恋する女たち』はなかなか画期的ではないかと思ったりしている。こういう点は二十世紀の小説らしさだと思う。

*1:ちなみに、「家を出ようとしたところに、主人に電話がかかってまいりましたの。とても悲しい出来事でしてね。青年が自殺したというのです」(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』1925)…ということは、この頃には電話のある家庭があったわけだ。

*2:吉田健一訳『ハワーズ・エンド』(集英社1992)p.53

*3:他にも「ロンドンが夜に向かって明かりをつけ始めた。大通りでは電灯(electric lights)が瞬いたり、稲妻を走らせたりし、横丁ではガス灯が金色や緑に光った」(『ハワーズ・エンド』p.132)当時、主な通りには電灯が設置されていたらしい。

 D.H.ロレンス 『恋する女たち』

福田恒存訳、新潮社 1969)
〔D.H. Lawrence Women in Love 1920〕

懲りずにまた姉妹の文学

 いつの間にか今年の読書テーマのひとつに、勝手になってしまった「姉妹のイギリス文学」シリーズ。これまでにここで取り上げてきたのは、順に、ジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』、マーガレット・ドラブル『夏の鳥かご』、A.S.バイアット『ゲーム』、そしてジェイン・オースティンの『分別と多感』。どの作品でも、姉妹間の愛情や絆、また場合によっては嫉妬や憎しみが描かれていて、なかなか面白かったと思う。僕も弟がいるからわかるのだが、兄弟という、切っても切れない血のつながりを感じている一方で、お互いの成功や失敗に関してはとても敏感だったりするわけだ。そんな心の動きの機微を、小説で楽しむのもなかなか悪くない。

 今回読んでいくD.H.ロレンスの『恋する女たち』には、主役級の登場人物として、二十六歳のお姉さん、アーシュラ・ブラングウェンと、一歳年下の妹、グドルーン・ブラングウェンが現れる*1。タイトルが示すとおり、彼女たちはそれぞれ知り合いの男性たちと、まあ一種の、というか、なんというか、恋愛状態になり、そんな様子が描かれるわけだ。僕がここで「彼女たちは恋愛をする」とはっきり書かず、なんとも歯切れの悪い表現になってしまうのは、そんな単純な話ではないということを示したかったから。ともかく、お姉さんアーシュラは、町の視学をしている男ルパート・バーキンと懇意になり、妹のグドルーンはジェラルド・クライチという若い炭鉱主に接近していく。

 『恋する女たち』には、今まで読んできた「姉妹文学」とは、大きな、決定的な違いがある――それは、作者が男性であるということだ。ジョージ・エリオットもドラブルもバイアットも、そしてオースティンも、みんな作者自身が女性であるから、女性の立場から女性キャラクターを描くという、ある意味、読者に説得力もたらす有利な立場にあった。ところが、ロレンスは男性作家。年頃の姉妹の心に去来する愛憎の機微を描くことができるのだろうか。ロレンスはプロの作家、それも二十世紀イギリスを代表する大作家なのだから、異性であっても登場人物の心理描写なんてお手の物、と考えることもできる。でも、もしかしたらやっぱり何かが違うかもしれない。個人的にはこのあたりが『恋する女たち』の読書ポイントになるだろうと思っている。

鬼門ロレンス

 ところで、D.H.ロレンスは、僕にとっては長らく鬼門だった。学生の頃にいくつか読んだが、あんまりピンとこなくてそれっきり。というか、僕が言いたいのは、ロレンスは難解な作家だということ。僕が彼を敬遠し続けたのも、要するに難しいからだ。日本でこんなに人気がある(ように思われる、僕には)のが、信じられない。『チャタレイ夫人の恋人』の翻訳が裁判になるなど、そういう「刺激的」な面があるから人気や知名度が高いのだろうか。

 ここで言う「難しい」というのは、読んでも意味がわからないということではなくて、一筋縄には行かない作家だということ。ちょっと試しに読んでみるとわかるが、ロレンスという人は何か言いたいことがあるみたいだが、でも要するに何が言いたいのかということを、シンプルで明確な形で述べたりはしない。例えば作品を読み、「ロレンスは男女の性関係による心の交流を重視した」という結論を得たとして(実際にはこんな単純な結論が得られるはずがないのだけど)、では、ロレンスの諸作品に頻出する男性間の同性愛的傾向についてはどのように処理するのか。でも、こういう矛盾をはらんだ作品の重層性こそが、格好の研究材料たりうるわけで、だからこそ英文学界でロレンスが人気である理由なのだろう。あと、ロレンスの小説に込められた象徴的表現の数々も問題。象徴的に何かを表現するのではなくて、素直に明示すれば話は単純だったはず。でも、こういう点こそ文学たるゆえん、ということで、せっかく読むのだから、重層性や象徴性もじっくり味わってみるしかない。

 下の引用の表現は、どう味わえばいいのだろう。良くも悪くも、とてもロレンスらしい描き方だと思う。妹のグドルーンが初めて、「輝くごとき美しさ」を備えるジェラルド・クライチを見た場面。

すると突然、鋭い発作が、一種の恍惚状態がグドルーンを襲った。あたかも地球上の誰も知らぬ、なにか信じがたい発見をしたような気がしてきたのである。ふしぎな恍惚境が全身をとらえた。血管の一本一本が激情の発作に捲きこまれてしまった。(上巻p.20)

ジェラルドのあまりの美しさ、格好良さに、グドルーンは一目見ただけで「恍惚状態」になってしまった。うーむ。日常生活用語で言えば「くらっときた」ということか。たった20ページ目にして、早くもある種のエクスタシー。

美男美女のグループ交際

 アーシュラ・ブラングウェンもグドルーン・ブラングウェンもそれなりに美しい容貌・外見として描写されているし、ジェラルド・クライチも超美男子。ルパート・バーキンだけがちょっと地味な印象だが、上背もあって、見てくれが悪いわけではない。三十歳くらいの、親友同士である男二人と、二十五歳前後の美貌姉妹。これから、アーシュラとバーキン、グドルーンとジェラルドの組み合わせで恋物語が始まり、この四人が揃って旅行にまで出かけることになる。一種のグループ交際みたいなものか。なんだかこんなふうに説明すると、テレビドラマみたいだなと思う。これに加えて、バーキンとジェラルドの間に親友以上の「絆」みたいなものがあって、これがストーリーに薬味を添える。

 さて…今回も『ミドルマーチ』を読んだときみたいに、これから何回かかけて(一回で読んだきりでこの本を「わかった」なんて無理だ)この『恋する女たち』を読んでいきたいと思う。『ミドルマーチ』のときは、作品自体が大長編だったせいもあって三回にわけて読んだが、僕は「読みづらいなあ」と思う本については、時間と手間をかけてあげるべきだと思う。以前の旧バージョンのブログで、シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』も何回かに分けて読んでみたが、個人的にはあれはなかなかよかった。本来なら、ブログという表現形式を考えると、毎回毎回新しい本を取り上げて、目新しさや新鮮さを打ち出したほうが良いのはわかるのだけど、今回もまた悠長に――というか、『恋する女たち』はなかなか歯ごたえのある小説なので、こういうふうにじっくり味わうべき一冊ではないかと感じている。

*1:新潮文庫の翻訳では、妹の名前Gudrunはグドルーンではなくガドランとなっている。なお、後述のジェラルド・クライチ(Gerald Crich)も翻訳ではクリッチとなっている

 アントニー・バージェス 『1985年』

(中村保男訳 サンリオ文庫 1984
〔Anthony Burgess 1985  1978〕

サンリオ文庫

 SFや海外文学の古書が好きな人なら、サンリオSF文庫(あるいはサンリオ文庫)は、やはりとても気になる。「すごくメジャーというわけでもないけれど、でもやっぱり興味を満たすために一応読んでみたい」というくらいのレベルの作品が、ずらりと勢ぞろいしているからだ。つまり要するに、マニア好みということ。必ずしも万人受けする作品ばかりではない。

 このようなマニアックな編集方針がたたってか、たぶん販売成績はあまり良くなかったのだろう。なにせ僕が小学生の頃の話なので、当時の実際の状況は推測するしかない。1987年にサンリオSF文庫は終刊となり、以後は古本としてしか入手できなくなった。そして、その後の価格の異常な高騰についてはご存知のとおり。現在でも、一冊数千円もする文庫本がざらにあるが、ああいうのは結局、当時売れなくて流通数が少ない作品ということだから、内容自体はつまらない可能性が高い。他にも、サンリオSF文庫は翻訳がよろしくない(らしい)ことでも有名なので、実際に読書を楽しむという観点からは、価格がその楽しみを必ず保障しているとはいえない。

 第二次大戦後のイギリス文学に興味があるのだから、サンリオなんてべつにどうでもいいし…なんて、つれないことは言わないほうがいい。いわゆるSF系の作家(J.G.バラードブライアン・オールディスなど)がいるのは当然だけれども、一般的に正統な文学系(何が「正統」なのかについては、また別な機会に考えることとして)の作家とみなされているアントニー・バージェス、キングズリー・エイミス、ドリス・レッシングもまた、刊行リストに名を連ねている。


アントニー・バージェス:『ビアドのローマの女たち』、『アバ、アバ』、『どこまで行けばお茶の時間』、『1985年』


キングズリー・エイミス:『去勢』


ドリス・レッシング『シカスタ』、『生存者の回想』


 ちなみに、第二次大戦以前からの作家でいえば、


H.G.ウェルズ:『解放された世界』、『神々のような人々』、『ベスト・オブ・H.G.ウェルズ


オルダス・ハックスリー:『猿とエッセンス』


 まあ確かに、みんなどちらかといえばSFっぽい作品だよなあ、とは思う。現代のロンドンを舞台に人々の生活を描く…みたいな作品は皆無。ちなみに、アントニー・バージェスに関しては、さらに『地上の力』(Earthly Powers)も刊行計画があったようだが、これは実現しなかった。刊行されなかった作品として、他に、アンジェラ・カーター『ホフマン博士の欲望時限装置』(The Infernal Desire Machines of Doctor Hoffman、場合によっては別題『夢の戦争』The War of Dreamsと表記されていることもある)もあった。変わったところでは、ヴァージニア・ウルフの『オーランドー』も刊行を計画していた。こんな具合で、イギリス文学に関しても、なかなか意欲的な出版社であったと言うことができると思う。イギリス以外に目を転じても、ナボコフバロウズ、ピンチョン、ガルシア=マルケスバーセルミエリアーデ(未刊行)などがラインナップされ、エンターテイメント的なSFだけに限らない、幅広い品揃えを目指していたことが推察できる。

 というわけで、アントニー・バージェスが好きなら、早川書房から刊行されていた『アントニー・バージェス選集』と並んで、このサンリオ文庫から出版された一群も試していく必要がある。その中でも今回は『1985年』について。

ストライキの時代

 消防署がストライキに入っていたため、病院で火災が起こっても誰も消火してくれず、そのために入院していた患者が焼死してしまった――現在の日本で、このようなことが起こりうるだろうか。今の日本を舞台にした小説があったとして、このようなプロットを現実に起こりうるものとして捉える読者はどのくらいいるだろうか。

 バージェスの『1985年』はユニークな本で、半分がエッセイ、半分が中編小説となっているのだが、この半分の小説の部分は、上に書いたような消防隊のストライキの場面から始まる。主人公のベヴ・ジョーンズは、病院の火災で妻を亡くしてしまう。そして、このような無責任なストライキを実施する労働組合を絶対に許せないと感じる。

 この本が出版されたのは、1978年。小説の時代設定は1985年だから、想像上の近未来のイギリスが舞台になっている。このイギリスは「タックランド」と呼ばれている。The United Kingdomの頭文字を集めてTUKランドであったが、いつからかTUCランド(Trades Union Congress、労働組合会議、イギリスの労働組合総連合会のこと)と呼ばれるようになった。この「TUCランド」という名前が示すとおり、この近未来社会では労働組合が国家統治の実権を把握していて、国民はみんななんらかの組合に所属していなければならない。非組合員は犯罪者に等しい扱いがなされる。

 でも、この組合組織のせいで最愛の妻を失ったベヴは、自分の所属する労働組合から離脱する道を選ぶ。当然彼は失職してしまい、困難に満ちた生活が始まっていく――とまあ、こんな具合にストーリーは進んでいく。「あくまでも想像上の物語なのだから、こんな世界はありえないよ」と思ってしまうが、この『1985年』に登場するような強烈な労働組合組織は、バージェスがこの本を執筆していただろうと思われる1970年代、イギリスでは十分に想定可能な環境だった。

 イギリスでは戦後長らく大規模なストライキは起きていなかったが、1970年代に入り状況は大きく変わる。有名なところでは、1972年に炭鉱労働者がストライキを起こし、また翌年5月1日にはTUCが政府の賃金抑制策に反対する大規模なストライキを実施した。また、ちょうどその頃にオイルショックも重なったため、1975年には年率25%を超える激しいインフレーションが発生してしまう。このような悪化する経済環境のため、労働組合は賃上げを求めてさらなるストライキを実施するようになり、1977年11月には消防署員によるストライキが発生した。(そして実際に、そのストライキ中に病院で火災が起こったが、緊急時に備えていた軍隊とともに、スト中の消防隊員も駆けつけたので、『1985年』のような悲劇は免れた。)

 とにかく、このようなイギリスはこんな状況下だった。今の日本では、電車やバスがストライキで止まってしまうという可能性はなかなかありえないと思うし、ましてや、消防署がストライキなんて、想像もつかない。僕たちにはこういう感覚の乖離があることをわかった上で『1985年』を読んだほうがいいだろうと思う。この本がジョージ・オーウェルのアンチ・ユートピア小説『一九八四年』をいろいろな角度から(政治思想のみならず、言語・文化の面まで)バージェスなりに再解釈したものであることは、確かに間違いない。でも、ここで語られる中編小説は、もちろん創作であるから極端に誇張されて描写されてはいるけれども、当時のイギリスなりに、なかなか実感のこもったストーリーだったはず。この本のエッセイ部分には、バージェス自身が答えた次のような対話が収録されている。

〔実際のイギリスが〕こういうふうに〔『1985年』のように〕なるのだと本気でお考えなのですか。


 あと数年まてばその質問に答えられるでしょう。読者がチェックして確かめることのできない予言を小説の形で書くのは、いつだって莫迦げたことです。わたしはこの本である種の傾向をメロドラマ風に誇張しただけなのだとお考えください。英国では、組合がますます強力になり、ますます不寛容になりつつあることは事実です。けれど、たぶんわたしの言う組合とは、特に戦闘的な組合指導者というだけの意味なのです。わたしもまた、オーウェルがもっと派手にやったと同じに、一般労働者の良識と人間性を度外視したのです。(p.383)

 実際に、イギリスの労働組合はますます強力、かつ不寛容になり、その頂点が1978年末から1979年にかけての冬に訪れた。1979年1月22日、イギリスの公共サービスに関する労働組合は、週給60ポンドの最低賃金を求めてストライキを決行した。公共サービス関連の事業は完全に麻痺し、病院は休業状態、ゴミ回収もストップしてしまったため、道路や広場にはゴミが野ざらしになってしまった。例えば、ロンドン市内中心の繁華街、レスター広場もゴミ置き場になってしまった。給食がストップし、学校運営にも支障が起こった。そして一連のストライキでもっともショッキングだったのは、リヴァプールでは墓堀人までもがストライキを起こしたので、遺体の埋葬すらもができないという事態に至ったことだった。このような一連の事態をひっくるめて、この冬は「The Winter of Discontent」つまり「不平の冬」*1と呼ばれている。

 そして、このような事態に対処できない労働党のキャラハン内閣は見放され、この1979年の総選挙ではサッチャー率いる保守党が政権を奪うことになる。サッチャー政権は、労働組合の活動を抑制する政策を強行に実施したので、組合員の数は減少、組合の活動は沈静化していった。大規模な労働争議1984年から85年にかけての炭鉱ストライキが最後となった。良くも悪くも、バージェスの描いた『1985年』の世界は実現しなかったわけだ。オーウェルの『一九八四年』もまた実現しなかったのと同じように。

 僕は1970年代のイギリスというのは、なかなか興味深い時期だと思う。50年代のようなういういしさ、60年代のような活発さはなくなってしまう。猛烈なインフレと不況、ストライキの時代。戦後の福祉国家政策は、労働党政権の時期を中心に積極的に進められてきたが、70年代に至って、ついに行き詰まってしまう。そしてこの状態を、サッチャー政権が大きく極端に右側に引っ張り戻すことで(これにもまた弊害があったわけだが)、イギリスは経済的復活の道をたどっていく。

*1:シェイクスピアの『リチャード三世』の冒頭の台詞「Now is the winter of our discontent…」に由来する

 ジェイン・オースティン 『分別と多感』

〔Jane Austen Sense and Sensibility 1811〕
(中野康司訳 筑摩書房ちくま文庫 2007)

姉妹の文学ふたたび

 感情を抑制して、常に分別ある態度を怠らないお姉さんのエリナー。一方の妹マリアンは自分の感情のおもむくまま、言いたいことを言い、したいことをするタイプ。『分別と多感』は、こういう姉妹の対比を描いたジェイン・オースティンの言わずと知れた名作だけれども、うーん、やっぱりおもしろい。何回読んでもおもしろい。僕の読んだイギリス小説の中では最高レベルの出来栄えのもののひとつだと思う。二人の姉妹が、恋愛の紆余曲折を経て幸せな結婚に至る…ただそれだけのストーリー。もちろんそうなのだし、安易といえばとても安易な内容だ。世の中には、じっくり考えさせるような小説もあるだろうし、読者を悲しませ、泣かせるような内容の小説もある。でも、本を読むおもしろさ、ページをめくる楽しさを感じるという読書の原点として、僕は、ジェイン・オースティンはとても優れていると思う。そしてこの『分別と多感』もまた期待を裏切らない、愉快な読書経験を約束してくれる一冊。少なくとも僕にとっては。

 この本を読んだ方に質問したいのだけれども、あなたはエリナー派か、それともマリアン派か。どちらのほうがより親近感や好感を抱くだろうか。僕はだんぜんエリナーが好きだ。マリアンの自由奔放な感じもなかなか素敵だし、ああいう生き方は羨ましいと思うが、実際の自分とどちらかといえば似ていて親近感を感じてしまうのは、お姉さんエリナーのほう。こんな言葉は、僕の考えているとおりだし:

「でも、楽しいことが正しいこととは限らないわ」とエリナーは言った。
〔マリアン〕「いいえ、楽しいことは正しいことに決まっているわ。…」(p.98)

僕の「楽しい」とか「楽しむ」といった言葉に関する個人的な印象については、8月17日の日記(「英詩は読者を獲得するか」)に書いたので、そちらを見ていただくこととして、上の引用部に関しては、僕はマリアンの言葉よりもエリナーの言葉のほうが自分の気持ちに近い。*1

 それにしても、エリナーは小説内で、何回も自制心を発揮して、言いたいことや自分の感情をぐっと押し殺し、我慢する。例えば――エリナーはエドワードのことを密かに思い続けているのだが、そのエドワードが実はルーシーと婚約しているとルーシー自身から打ち明けられた場面(第二十二章)。自分の好きな人が実は婚約していると打ち明けられるなんてショック以外の何ものでもないのだが、エリナーは

打ちのめされた感じで、一瞬気が抜けたようになり、ほとんど立っていられないほどだった。でもここはなんとかして踏ん張らなくてはならない。エリナーは決然として虚脱感と戦い、すぐに立ち直って、とりあえずはいつもの自分に戻った。(p.188)

なんと、いつもの自分に戻ってしまうのだ。さすがはエリナー。

 このほかにも、エリナーは持ち前の自制心をフルに発揮している。「エリナーはルーシーの言わんとすることがすっかりわかっていたが、わからないふりをするために、ありったけの自制心を働かせなくてはならなかった。」(p.298)「エリナーはノーランド屋敷の景観が台無しになるのではないかと心配でひとこと言いたかったが、ぐっと我慢した。」(p.309)「エリナーは自分の気持ちを長々と説明したり、嘆き悲しむ姿を見せたりするつもりはなかった。ただ、エドワードの婚約を知って以来ずっと自分に課してきた自制心をさらに発揮して、マリアンにお手本を示せればいいと思った。」(p.355)とまあ、こんな具合。時間のある人は、エリナーがこの小説で何回自制心を発揮し、言いたいことを我慢するか、また逆に、話したくもない人と無理に話さなくてはならない破目に遭うか、数えてみるとおもしろいかもしれない。もちろん、自分の感情を抑制して振舞うことはつまり自分の本当の気持ちを偽って行動することでもあるので、偽善者とか、そういう非難がエリナーに当てはまるともいえる。批判的に読めば、彼女は自分の正しいと思うことを周囲の人に押し付けているように思えなくもない。でもやっぱり僕は、感情大爆発のマリアンより、冷静沈着で、ぐっと我慢するエリナーが好きだ。

 そして、こういうふうに我慢我慢で描かれたエリナーだからこそ、彼女の感情が唯一ほとばしってしまう場面がとても感動的なのだろう。(妹のマリアンはいつも泣いたり怒ったりしている。)結婚してしまったと思われたエドワードが、実は結婚していなかったとわかる場面。あまりのうれしさにエリナーは思わず泣いてしまう。彼女のこういう姿を、僕たち読者はこの本を497ページも読み進んでから初めて知ることになる。「エリナーはもうその場に座っていられなかった。走るようにして部屋を出て、ドアが閉まったとたん、うれしさがこみあげてわっと泣き出した。この涙は永遠に止まらないのではないかと思った。」よかったね、エリナー。

ユーモア満載

 ジェイン・オースティンはきっと自分でも笑いながら書いたのだろうと思えるくらい、この『分別と多感』には笑いのツボが満載になっている。この小説は明らかに喜劇なのだ。もちろん「わっはっは」と大声で笑ってしまうようなおかしさではなくて、「フフフ」と苦笑してしまうようなユーモア。原因は、かなり極端に描かれたキャラクターたちにある。そのなんといっても代表は、妹のマリアン。彼女は何につけても極端なものの言い方をするので、お姉さんのエリナーや、作者(地の文の語り手)から、ツッコミをちょくちょく入れられている。

〔マリアン〕「ああ!ノーランドでは、枯葉が落ちるのをどんなにうっとりと眺めたことでしょう!散歩中に、まわりの枯葉が吹雪のように風に舞うのを見て、どんなに楽しかったことでしょう!でも、もうノーランドには枯葉を愛でる人もいないのね。枯葉は邪魔物扱いされて、さっさと掃き寄せられて、人目につかないところへ追いやられてしまうのね」
「誰もがあなたのように枯葉を愛するわけではないわ」とエリナーが言った。(p.124)

 こういうツッコミを入れるから、僕はエリナーがますます好きだ。それと、ものすごくおかしいと思ったもう一箇所の例、ここは、マリアンが自分の感情を無理して必死に押し殺している様子がとってもおかしい。このとき、マリアンはルーシーのこともエドワードのことも大嫌いで、二人のことを褒めるジェニングズ夫人の言葉に、本当なら感情大爆発になってしまうところを「英雄的な努力」で我慢する。

慎重に振舞うという約束を、マリアンは立派に果たした。エドワードとルーシーの婚約についてジェニングズ夫人が何を言おうと、顔色ひとつ変えずに耳を傾け、何ひとつ異議を唱えず、「そうですね、奥様」と三度も相づちを打った。夫人がルーシーをほめちぎったときも、マリアンは席を移ってそれに耐えたし、夫人がエドワードの愛情を話題にしたときも、マリアンは喉をわずかにけいれんさせただけだった。マリアンのこうした英雄的な努力を見て、エリナーは自分もどんなことにも耐えられると思った。*2(p.360-1)

この「英雄的な努力」(heroism)というオースティンの言葉遣いもおかしい。でもここでマリアンはたしかにがんばっている。普段は「そうですね、奥様」なんて相づち、絶対にしないようなキャラクターなのだから。

 上の二例以外にも、細かい言葉遣いなどでもおかしいところがたくさんある。また、他のキャラクターたち――ジェニングズ夫人、ミドルトン夫妻、パーマー夫妻、ダシュウッド夫妻、スティール姉妹――などなど、みんな何だか変な人たちばかりで、おもしろおかしく描写されている。最終的にエリナーとめでたく結ばれるエドワードだが、彼もまた、内気で意味不明なつぶやきを連発するかなり挙動不審なキャラクターに僕は感じる。ブランドン大佐だけは真面目な登場人物として描かれているが、彼にもツッコミどころがちゃんとあって、「フラノのチョッキ」を身にまとっている点が笑いのポイント。

 ところで、このブランドン大佐は三十五歳なのだが、マリアン(十六歳六ヶ月)から見れば、「老いたる独身男」なのだそうだ。「男が三十五歳にもなれば、感受性の鋭さや、物事を楽しむ繊細な能力が多少衰えるのはやむを得ないだろう。大佐の高齢を考慮に入れてあげなければならないと、マリアンは思った。」(p.51)うーん、なるほど――でも、十六歳の女の子から見えれば、まあそういうものかもしれないし――と、ほどなく三十四歳になろうとする高齢の僕は、しみじみと考えるのだった。

*1:翻訳だとこのようにシンプルだが、原文では次のとおり:"I am afraid," replied Elinor, "that the pleasantness of an employment does not always evince its propriety.""On the contrary, nothing can be a stronger proof of it, Elinor;…"

*2:ここでも原文を読むと:She performed her promise of being discreet, to admiration.--She attended to all that Mrs. Jennings had to say upon the subject, with an unchanging complexion, dissented from her in nothing, and was heard three times to say, "Yes, ma'am."--She listened to her praise of Lucy with only moving from one chair to another, and when Mrs. Jennings talked of Edward's affection, it cost her only a spasm in her throat.--Such advances towards heroism in her sister, made Elinor feel equal to any thing herself. となっている。実はオースティンの英語はかなりドライなのがわかるので(というか、翻訳が親切にわかりやすくされている)、日本語の印象より、オースティンのユーモアはもっと辛辣に響くような気がする。

 マーガレット・ドラブル 『針の眼』

伊藤礼訳、新潮社 1988)
〔Margaret Drabble The Needle's Eye 1972〕

 ロンドンの北部にあるマズウェル・ヒルという小さな街を、僕は自動車で一度だけ通ったことがある。それは雨の降る暗い夕方で、こういう天気と時間帯ではありがちだけど、道路はかなり渋滞していた。初めて見るマズウェル・ヒルは、商店が立ち並び二階建てバスが行き交うような、ちょっとした街並みのところだった。でも、地下鉄や鉄道の駅が近くにはない。バスか車を利用するしかアクセスのない不便な場所でもある。そしてこの一度だけ訪れたときの印象がいまいちであるせいか、「地味な場所」というイメージが今でもなんとなく付きまとう。

 このマズウェル・ヒルからさらに東に行くと、『針の眼』の主人公ロウズ・ヴァシリオウが生活するアレクサンドラ・パレス近辺一帯に出る。アレクサンドラ・パレスというのは、エクシビジジョン・ホールというか、大展示会場というか、博覧会場というか、まあ、そういう感じの大ホールで、その手の目的のほかに、コンサート会場なんかとしても使われているところ。間違っても、現代的でクールな建物ではない。何かで調べて写真を見てもらうとわかるが、元々は19世紀半ばに建てられた古風な様式の建物で(火災で二度建て直しているが)、ロンドン市内を見渡す丘の上に位置している。『針の眼』の最後のところで、ロウズ、サイモン、エミリー、そして子供たちみんなが、この高台からロンドンを見渡す場面が出てくる。

彼らは建物の外側の高いテラスに出た。冷たい風は凪いで、太陽が照っていた。巨大な黄色い建物が背後に立っていた。気違いじみた、安普請の、朽ちかけた建物だった。子供たちが望遠鏡を覗くから二ペンスくれとせがんだ。サイモンは二ペンス貨を一枚やった。三人の大人は欄干にもたれて景色を眺め、それからパレスの建物を眺めた。奇妙なみすぼらしいコリント式の円柱、漆喰がはげかかっている女像柱、黄色い煉瓦、イタリーの醜い模倣、過度の感傷ぶり、絶望的な通俗さ。また景色を眺める。立ち並ぶ家、視野を遮る塔。空にむかってかすかに光る下水処理場の池。ガス工場、鉄道線路、目のとどくかぎりあらゆる方向に人の生活が満ちていた。(p.357-8)

 ロンドンを一望できる高台といえば僕はハムステッド・ヒースが好きだったが、このアレクサンドラ・パレスからもロンドンの中心地を見渡すことができる。ロンドンを訪れたら、個人的にはぜひとも実際にこういう場所に行って(天気の良い日に)、あの光景を体感してもらえればと思う。とはいえ、なかなかロンドンに行くという機会がすぐにあるわけでもないので、とりあえず代用の写真でも見てみよう。英語版ウィキペディアの「アレクサンドラ・パレス」*1に掲載された画像が、僕はとても良いと思った。これを見て「ああ、ロンドンだ…」と、僕はちょっと感傷に浸ってしまいそうな気もする。ちょうど記事の真ん中くらいに二つの画像が掲載されているが、一つは横長で「A close up panorama of London from Alexandra Palace」というタイトル。もう一つはその下にある「A wide angle panorama of London from Alexandra Palace」という画像。どちらもまず画像をクリックして、さらに開いたそのページから、さらに「Full resolution」をクリックして、一番大きいサイズにして見てもらいたいと思う(ただし、画像がとても大きいので注意、あと、表示するときに、全サイズがディスプレイ上に表示されるよう、勝手に画像を縮小してしまうパソコンも多いので、自分で元のサイズに戻してあげる必要があるかもしれない)。

 これらの光景があまりにも興味深いので、僕はじっくり観察してしまう。まず、横長の画像「A close up panorama」のほうから。これは今年2007年8月10日の夕方に望遠レンズで撮影されたものだそうだ。左からじっくり見ていくと、鉄道の架線が見える。画面手前には、左から中央にかけて、デタッチトハウスとか、セミ・デタッチトハウスと呼ばれる形の家々が道路の両側を敷き詰めるように並んでいる。遠くのほうに、10階建て以上の高層ビルがぽつぽつと立っているが、こういうのはだいたい公営住宅のビル。『針の眼』の346ページでシャーキー夫人が引っ越したのは、おそらくこういう高層アパート。小説でもエレベーターが故障してしまうことが言及されているが、この手の建物は60年代や70年代、低所得者向きにたくさん建てられ、中流階級の人々にはあまり人気がない。昨今の日本では高層マンションがたくさん建てられているが、ああいう住宅を見ると、僕はロンドンのすさんだ高層アパートをどうしても思い出してしまう。

 左端からスタートして、全体の八分の一くらいのところまでくると、画面の中央遠くに、あのミレニアム・ドームが見える。懐かしい。ミレニアム・ドームでの体験については、またいずれの機会に。四分の一くらいのところで、カナリー・ウォーフのほうの高層ビル群が見える。これは金融関係を始めとする新しいオフィス街。手前は相変わらずのイギリスらしい住宅の並び。画面中央くらいから、昔からの金融街シティの高層ビルが姿を時折現す。セント・ポール寺院はてっぺんだけが木々の向こうに見えている。右側四分の一くらいのところで、同じく木々の向こうから大観覧車「ロンドン・アイ」が上のほうだけ姿を見せている。右側八分の一くらいで、いったん画面が全部木々に隠れるが、そのさらに右側に、もう一度住宅の風景が見える。こういう木々に囲まれた雰囲気はどちらかといえば高級住宅地のイメージ。左側で見た家々のように、無機質に住宅が立ち並ぶ感じとは異なっている。上のほうには塔のようなものが見えるが、これがBTタワー。画面一番右側の丘の上の建物はおそらく病院。

 なんだかロンドン名所案内みたいになってしまったが、ウィキペディアの画像のもう一枚(「A wide angle panorama」)のほうも見る価値あり。これまた先月に撮影されたばかりのアレクサンドラ・パレスからのパノラマだが、イギリスの夏の夕方の雰囲気がとても伝わってくる。アレクサンドラ・パレスの建物が立つ高台から撮影されていて、最初に見た写真と同じ方角に向かっている。ただし、こちらは望遠レンズではなくて、人間の目で見える光景にほぼ等しい。画像をクリックして、画像を元のサイズで見てみると、そこに写された人々の姿が鮮明になってくる。みんな何をしているのか…そう、芝生の上で、夏の夕方を思い思いにくつろいでいるのだ。ちなみに、サマータイムが実施されているせいもあって、このくらいの明るさでも夕方六時とかくらいではないかと思う。いいなあ、こういうの。僕もこういうところに住んでいたんだよなあ。記憶は日々ますます薄らいでいくけれども。

 ということで、『針の眼』とはだいぶ関係ない流れになってしまったけど、この二枚の画像をじっくり見たあとで、もう一度、上の引用を読み返してもらえたら、と思っている。とても重要な違いだが、画像は夏なのに、『針の眼』で引用される部分の季節は冬だ。だから、冷たい風が吹いたりやんだりしている。でも、太陽が照りだして、三人の大人と子供たちが見下ろしている光景は、この画像の光景ときっとそんなに変わらないだろうと想像する。引用で語られるように、アレクサンドラ・パレスは必ずしも美しい建物ではない。そしてこの丘の上から見下ろす光景も、必ずしも美しいものとはいえない。鉄道の線路や架線、立ち並ぶ家々、遠くにランダムに立つ高層ビル。引用にあったように、まさに、目のとどくかぎりあらゆる方向に人の生活、俗っぽくて醜悪な人間の生活が満ちている。でも、実際に登場人物たちと同じように、アレクサンドラ・パレスからのこの光景を見れば、なんだかこんなロンドンでも「いとおしさ」みたいなものが伝わってこないだろうか。豊かな人も貧しい人も、上品な人も通俗的な人も、あらゆる人々を抱擁して、眼下に広がるロンドン。

 貧しく生活する人々がいる一方で、豊かなミドルクラスの人々の生活はこれでよいのだろうか…『針の眼』は、このロンドンを舞台に、大まかにはこんなテーマを抱えている小説だと思う。小説のもう一人の主人公である弁護士のサイモンは、マズウェル・ヒルから少し南西に行ったところにあるハムステッドに住んでいるが、ここは名高い高級住宅地。ちなみに、さらにもう少し南西に行くとキルバーンという地域に出るが、ここは治安があまり良くないことで知られているところ(最近は良くなってきたのだろうか)。でも、キルバーンのすぐ南のほうは、セント・ジョンズウッドの高級住宅街。ロンドンはこんなふうに、ちょっと位置の違いで、住む人々の階層、安全などが大きく違ってくる。作者ドラブルは、基本的にミドルクラスに属する登場人物たち、とくにロウズとサイモンを、あえて貧しい階層の生活と接点を持たせることで、ミドルクラスの生活自体を見つめなおそうとしているようだ。

 小説はとても地味で、淡々と読み進んでいくような感じに終始する。ロウズ・ヴァシリオウ、サイモン・カミッシュをはじめとするキャラクターたちの生い立ち、経歴、結婚の経緯などが、丁寧に、つぶさに語られる。ロウズの三人の子供たちが、離婚した夫に奪い取られてしまうのではないかという点が、一応この小説のストーリーを進めていくサスペンスになっているが、劇的なことは何も起こらない。ロウズが最終的に前夫とよりを戻し、サイモンが不仲の妻との関係を改善させるという展開はちょっと安易で説得力に欠け、きっとこの辺りがこの小説の弱点かもしれない。ロウズとサイモンの恋心は、いったいどうなってしまったのだろうと思う。サイモンはロウズに「私が独身だったら、あなたに結婚を申し込んだでしょうね」とまで語ったのに。とはいえ、なかなか良い本を読んだという感想。今まで読んできたマーガレット・ドラブルの作品とは、だいぶ印象が異なり、新鮮だった。