ジェイン・オースティン 『分別と多感』

〔Jane Austen Sense and Sensibility 1811〕
(中野康司訳 筑摩書房ちくま文庫 2007)

姉妹の文学ふたたび

 感情を抑制して、常に分別ある態度を怠らないお姉さんのエリナー。一方の妹マリアンは自分の感情のおもむくまま、言いたいことを言い、したいことをするタイプ。『分別と多感』は、こういう姉妹の対比を描いたジェイン・オースティンの言わずと知れた名作だけれども、うーん、やっぱりおもしろい。何回読んでもおもしろい。僕の読んだイギリス小説の中では最高レベルの出来栄えのもののひとつだと思う。二人の姉妹が、恋愛の紆余曲折を経て幸せな結婚に至る…ただそれだけのストーリー。もちろんそうなのだし、安易といえばとても安易な内容だ。世の中には、じっくり考えさせるような小説もあるだろうし、読者を悲しませ、泣かせるような内容の小説もある。でも、本を読むおもしろさ、ページをめくる楽しさを感じるという読書の原点として、僕は、ジェイン・オースティンはとても優れていると思う。そしてこの『分別と多感』もまた期待を裏切らない、愉快な読書経験を約束してくれる一冊。少なくとも僕にとっては。

 この本を読んだ方に質問したいのだけれども、あなたはエリナー派か、それともマリアン派か。どちらのほうがより親近感や好感を抱くだろうか。僕はだんぜんエリナーが好きだ。マリアンの自由奔放な感じもなかなか素敵だし、ああいう生き方は羨ましいと思うが、実際の自分とどちらかといえば似ていて親近感を感じてしまうのは、お姉さんエリナーのほう。こんな言葉は、僕の考えているとおりだし:

「でも、楽しいことが正しいこととは限らないわ」とエリナーは言った。
〔マリアン〕「いいえ、楽しいことは正しいことに決まっているわ。…」(p.98)

僕の「楽しい」とか「楽しむ」といった言葉に関する個人的な印象については、8月17日の日記(「英詩は読者を獲得するか」)に書いたので、そちらを見ていただくこととして、上の引用部に関しては、僕はマリアンの言葉よりもエリナーの言葉のほうが自分の気持ちに近い。*1

 それにしても、エリナーは小説内で、何回も自制心を発揮して、言いたいことや自分の感情をぐっと押し殺し、我慢する。例えば――エリナーはエドワードのことを密かに思い続けているのだが、そのエドワードが実はルーシーと婚約しているとルーシー自身から打ち明けられた場面(第二十二章)。自分の好きな人が実は婚約していると打ち明けられるなんてショック以外の何ものでもないのだが、エリナーは

打ちのめされた感じで、一瞬気が抜けたようになり、ほとんど立っていられないほどだった。でもここはなんとかして踏ん張らなくてはならない。エリナーは決然として虚脱感と戦い、すぐに立ち直って、とりあえずはいつもの自分に戻った。(p.188)

なんと、いつもの自分に戻ってしまうのだ。さすがはエリナー。

 このほかにも、エリナーは持ち前の自制心をフルに発揮している。「エリナーはルーシーの言わんとすることがすっかりわかっていたが、わからないふりをするために、ありったけの自制心を働かせなくてはならなかった。」(p.298)「エリナーはノーランド屋敷の景観が台無しになるのではないかと心配でひとこと言いたかったが、ぐっと我慢した。」(p.309)「エリナーは自分の気持ちを長々と説明したり、嘆き悲しむ姿を見せたりするつもりはなかった。ただ、エドワードの婚約を知って以来ずっと自分に課してきた自制心をさらに発揮して、マリアンにお手本を示せればいいと思った。」(p.355)とまあ、こんな具合。時間のある人は、エリナーがこの小説で何回自制心を発揮し、言いたいことを我慢するか、また逆に、話したくもない人と無理に話さなくてはならない破目に遭うか、数えてみるとおもしろいかもしれない。もちろん、自分の感情を抑制して振舞うことはつまり自分の本当の気持ちを偽って行動することでもあるので、偽善者とか、そういう非難がエリナーに当てはまるともいえる。批判的に読めば、彼女は自分の正しいと思うことを周囲の人に押し付けているように思えなくもない。でもやっぱり僕は、感情大爆発のマリアンより、冷静沈着で、ぐっと我慢するエリナーが好きだ。

 そして、こういうふうに我慢我慢で描かれたエリナーだからこそ、彼女の感情が唯一ほとばしってしまう場面がとても感動的なのだろう。(妹のマリアンはいつも泣いたり怒ったりしている。)結婚してしまったと思われたエドワードが、実は結婚していなかったとわかる場面。あまりのうれしさにエリナーは思わず泣いてしまう。彼女のこういう姿を、僕たち読者はこの本を497ページも読み進んでから初めて知ることになる。「エリナーはもうその場に座っていられなかった。走るようにして部屋を出て、ドアが閉まったとたん、うれしさがこみあげてわっと泣き出した。この涙は永遠に止まらないのではないかと思った。」よかったね、エリナー。

ユーモア満載

 ジェイン・オースティンはきっと自分でも笑いながら書いたのだろうと思えるくらい、この『分別と多感』には笑いのツボが満載になっている。この小説は明らかに喜劇なのだ。もちろん「わっはっは」と大声で笑ってしまうようなおかしさではなくて、「フフフ」と苦笑してしまうようなユーモア。原因は、かなり極端に描かれたキャラクターたちにある。そのなんといっても代表は、妹のマリアン。彼女は何につけても極端なものの言い方をするので、お姉さんのエリナーや、作者(地の文の語り手)から、ツッコミをちょくちょく入れられている。

〔マリアン〕「ああ!ノーランドでは、枯葉が落ちるのをどんなにうっとりと眺めたことでしょう!散歩中に、まわりの枯葉が吹雪のように風に舞うのを見て、どんなに楽しかったことでしょう!でも、もうノーランドには枯葉を愛でる人もいないのね。枯葉は邪魔物扱いされて、さっさと掃き寄せられて、人目につかないところへ追いやられてしまうのね」
「誰もがあなたのように枯葉を愛するわけではないわ」とエリナーが言った。(p.124)

 こういうツッコミを入れるから、僕はエリナーがますます好きだ。それと、ものすごくおかしいと思ったもう一箇所の例、ここは、マリアンが自分の感情を無理して必死に押し殺している様子がとってもおかしい。このとき、マリアンはルーシーのこともエドワードのことも大嫌いで、二人のことを褒めるジェニングズ夫人の言葉に、本当なら感情大爆発になってしまうところを「英雄的な努力」で我慢する。

慎重に振舞うという約束を、マリアンは立派に果たした。エドワードとルーシーの婚約についてジェニングズ夫人が何を言おうと、顔色ひとつ変えずに耳を傾け、何ひとつ異議を唱えず、「そうですね、奥様」と三度も相づちを打った。夫人がルーシーをほめちぎったときも、マリアンは席を移ってそれに耐えたし、夫人がエドワードの愛情を話題にしたときも、マリアンは喉をわずかにけいれんさせただけだった。マリアンのこうした英雄的な努力を見て、エリナーは自分もどんなことにも耐えられると思った。*2(p.360-1)

この「英雄的な努力」(heroism)というオースティンの言葉遣いもおかしい。でもここでマリアンはたしかにがんばっている。普段は「そうですね、奥様」なんて相づち、絶対にしないようなキャラクターなのだから。

 上の二例以外にも、細かい言葉遣いなどでもおかしいところがたくさんある。また、他のキャラクターたち――ジェニングズ夫人、ミドルトン夫妻、パーマー夫妻、ダシュウッド夫妻、スティール姉妹――などなど、みんな何だか変な人たちばかりで、おもしろおかしく描写されている。最終的にエリナーとめでたく結ばれるエドワードだが、彼もまた、内気で意味不明なつぶやきを連発するかなり挙動不審なキャラクターに僕は感じる。ブランドン大佐だけは真面目な登場人物として描かれているが、彼にもツッコミどころがちゃんとあって、「フラノのチョッキ」を身にまとっている点が笑いのポイント。

 ところで、このブランドン大佐は三十五歳なのだが、マリアン(十六歳六ヶ月)から見れば、「老いたる独身男」なのだそうだ。「男が三十五歳にもなれば、感受性の鋭さや、物事を楽しむ繊細な能力が多少衰えるのはやむを得ないだろう。大佐の高齢を考慮に入れてあげなければならないと、マリアンは思った。」(p.51)うーん、なるほど――でも、十六歳の女の子から見えれば、まあそういうものかもしれないし――と、ほどなく三十四歳になろうとする高齢の僕は、しみじみと考えるのだった。

*1:翻訳だとこのようにシンプルだが、原文では次のとおり:"I am afraid," replied Elinor, "that the pleasantness of an employment does not always evince its propriety.""On the contrary, nothing can be a stronger proof of it, Elinor;…"

*2:ここでも原文を読むと:She performed her promise of being discreet, to admiration.--She attended to all that Mrs. Jennings had to say upon the subject, with an unchanging complexion, dissented from her in nothing, and was heard three times to say, "Yes, ma'am."--She listened to her praise of Lucy with only moving from one chair to another, and when Mrs. Jennings talked of Edward's affection, it cost her only a spasm in her throat.--Such advances towards heroism in her sister, made Elinor feel equal to any thing herself. となっている。実はオースティンの英語はかなりドライなのがわかるので(というか、翻訳が親切にわかりやすくされている)、日本語の印象より、オースティンのユーモアはもっと辛辣に響くような気がする。