リック・ゲコスキー 『トールキンのガウン』

(高宮利行訳、早川書房2008)

 現在、僕の本棚には何冊の本があるのだろう。数えてみたことがないからわからない。たぶん、「本好き」を称する人間としてはあまり多くないのではないかと思う。興味のない本は買わないし、買ったとしてもやがてブックオフに持っていってしまうから。だから、手許に残しているものは容易に手放したいとは思わない大切に感じられるものばかり。

 部屋の中で山積みになっている本の中には、少し貴重と思われるものも混ざっている。ところで、僕が集めているのは「20世紀」の「イギリス」の「小説」で、日本語に翻訳され出版されたもの、という規準。もちろん、小説ならなんでもいいというわけではなくて、僕なりに読む価値があると思う作家・作品に限られる。だから、「貴重」とはいっても僕と同じような嗜好の人にとってしか価値はない。それでも、アマゾンの古書部門にも、各種古本サイトにもまったく在庫が表示されないような本をいくつか持っているのが、僕のささやかな自慢ではある。(もちろん中身もちゃんと読んでいます。)

 逆に、確かに翻訳されて出版されてはいるけど、どうしても入手できない本もある。あの作家のあの本とか…どうすれば手に入るのだろう。具体的な例を挙げると、今年になって復刊してしまったので古書としての価値はなくなったが、それまではドリス・レッシングの『黄金のノート』はどこを探してもずっと見つからなかったものだ。(一度だけ、わずかな期間だけ在庫が表示されていたが、まもなく売り切れになってしまったということがあった。)こんふうにインターネットで調べても全く在庫なしの本が、もし一冊だけ自分の手に入ることになったら、いくらまでお金を出すだろうか。何万円と言われても、バカらしいと思わず真剣に考えてみたくなってしまうとしたら、僕同様あなたもまた十分にコレクターの資質があるということになる。

 おかげさまで僕の蒐集している分野はあくまでも翻訳本なので、原著者のサイン入りなどというものは(たぶん、ほとんど)存在しない。そもそも内容を読むことが購入する狙いなので、本の美的状態にもあまり考慮したことがない。同じ値段ならばきれいなもののほうがいいけど、高い金を払ってまで極美品を買う必要はないと感じている。どんなものでも読めば一緒なのだから。しかし、世の中には初版本や有名な作者のサイン入り献辞の入った本をこの上なく貴重なものとして取り扱う人もいる。ましてや、献辞の送り先がこれまたこんな著名人だったりしたら:

グレアム・グリーン様、ウラジーミル・ナボコフより、1959年11月18日」

 このような献辞とナボコフが自分で描いた蝶の付けられた『ロリータ』は(ナボコフは蝶集めが趣味)、2002年のクリスティーズのオークションで26万4千ドル(約2700万円)の値がついたのだ。リック・ゲコスキーの『トールキンのガウン』は、20世紀英米文学のこのような稀覯本の四方山話をディーラーたる著者が書いたもの。この『ロリータ』についての経緯も本書に紹介されている。

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 しかし、どういう本がいくらくらいの金額で売れたかという点よりも、この作者ゲコスキーが著名な作家たちと接するエピソードがとても興味深いし面白い。グレアム・グリーンから手に入れたイーヴリン・ウォーの献辞付き『ブライズヘッドふたたび』が、グリーンから買い入れた値段よりも大幅に高く売れそうになってしまったときのこと。ゲコスキーは本が売れたら追加した金額の入った小切手を送りますと電話でグリーンに申し出た。以下はその場面の引用:

「心配御無用」と彼〔グリーン〕は言った。「あの価格で折り合ったのは、自分が得る金額で満足したからだ。君がそれ以上の金額で売れるというのなら、それは君にとって大変結構なことじゃないか」
 なんて世才にたけて、寛大で、賢明なことか。(p.164)

 こんなふうにして、グレアム・グリーンの実際の人柄の一端に読者もまた触れることができる。また、ウィリアム・ゴールディングの人柄もまたとても興味深い。『蝿の王』で有名なこの作家も、ノーベル賞を受賞したからといって君子のような人物ではなく、ゲコスキーからすれば「横柄な」とか「反抗的で辛辣な」といった形容詞で表現されるわけだ。ところで、このゴールディングの章にはE.M.フォースターが『蝿の王』について語った言葉が引用されているが、個人的にはこれがとても印象的だった(僕自身がフォースター賛美者であるせいでもあるけど)。気に入ったので、思わず引用してしまう:

 「ラルフを支持し、ピギーを敬い、ジャックを制御し、人の心の闇を少し照らすことで、大人が独りよがりにならず、もっと情け深くなるのに役立つだろう。現時点で、個人的な見解を述べるとすれば、最も必要なのはピギーへの尊敬だ。我々の指導者にはそれが見られないから」(p.56)

 このコメントは1962年に出されたそうだが、1954年に『蝿の王』が出版された際、その年の自薦ベスト小説としてフォースターが『蝿の王』を選んだことが、この小説の大ブレイクのきっかけとなったそうだ。

 また、ちょっとメロドラマチックな内容をお好みのかたにも、この本は満足させられる内容がある。ジョン・ケネディ・トゥールの『劣等生の共同謀議』(A Confederacy of Dunces)についての一章だ。現在ではアメリカ南部文学の代表的作品の一つとされるこの本も、出版に至るまで長いストーリーがある。ゲコスキーの言葉をそのまま使えば、「二十世紀出版史上で最も興味深く、悲劇的で(後になって)心温まる物語」なのだが、まったくその通りで、後に傑作と評されることになるこの本の原稿が出版されないことに意気消沈した作者トゥールは、1969年、三十一歳で自殺してしまったのだった。(そして僕たちにとってさらに悲劇的なことには、このとても興味深い本に翻訳がない。たぶん。)

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 個々のエピソード自体も大変興味深くて面白いが、この本を魅力的にしているのは、間違いなくディーラーであり著者であるゲコスキーの文学的センスの良さ、目の確かさだと思う。この本を読むだけで、20世紀英米文学への理解が深まる――という書き方よりは、感性が磨かれる、というべきか。『ユリシーズ』や『動物農場』、『ライ麦畑でつかまえて』といった有名な本がどのように出版されたのか、その経緯を知るだけでもおもしろい。そして詩の分野に関しても、シルヴィア・プラスやT.S.エリオット、フィリップ・ラーキンが紹介されていて、「20世紀の文学」として語られるのにあたり、遜色のない内容だと思う。

 さらに、最近の大現象J.K.ローリングの「ハリー・ポッター」シリーズにも一章が割かれている。「高尚なレベルで人を嘲る女流小説家」(と、ゲコスキーは紹介する)A.S.バイアットのコメントはなかなか手厳しいが、この意見に賛成か反対かと言われたら僕は賛成だと言うだろう。また、ゲコスキーは彼の元に持ち込まれた「ハリー・ポッター」の校正刷りを当然のように購入しなかったが、これも彼の「ハリポタ」シリーズへの態度をよく表している。彼は言う――「もしローリングのほうがトールキンより優れた作家だと思うなら、あなたはきわめてうぶな子供か、大ばか者のいずれかだ」

 僕が思うに、この本は今年出版された書籍の中で、今のところ一番評価できる本だが、残念なことにひとつ欠点がある。それはタイトル。僕はトールキンの「指輪物語」とか、彼のファンタジー作品にはほとんど興味がない。だから、タイトルに騙されてしまい、この本をすっかり見逃してしまうところだった。イギリス文学とアメリカ文学の知識を広げられるせっかくの良書なのに、タイトルにも副題にもそのような言及に乏しいのはどうかと思う(副題の「稀な本、稀な人びと」ではあまりピンとこない。古書流通業界の単なる裏話かと思ってしまう)。まあ、逆にこのせいで、全く期待せず本を手に取って、目次を見た時の嬉しい衝撃は今でも忘れられないものとなったけれど。