ウィンストンの飲むワイン

 お正月とか親戚の結婚式とか、お酒が供される機会に子供も同席することがある。あるいは父親が風呂上りにテレビを観ているときかもしれない。いずれにしてもそんなとき、大人たちはビールをいかにもおいしそうに飲むので、子供は誰でも一回は試したくなるわけだ――ビールとはいったい、どういうふうにおいしい飲み物なんだろうか。好奇心から「ひと口ちょうだい!」とせがんで試飲する(まずは泡をペロリと舐める)。するともちろん「まずい!」だ。あの苦みに驚いてしまう。大人はどうしてあんなに苦くてまずいものを飲むのだろう!――こんなふうに期待して落胆することは子供にとっては一種の通過儀礼と言ってもよさそうだ。しかし、不思議かつ興味深いことに、それから十年余りの時間が経過すると(少なくとも現在の僕にとっては)、喉が渇いているときのビールほどおいしい飲み物はないと思うようになってしまう。

 では、ワインはどうだろう。ワインではなく「ぶどう酒」という名前で考えると、ぶどうという果物自体のみずみずしくて甘い味わいが思い浮かぶ。それにアルコールが加わったような、つまり、スーパーとかで売っているぶどうジュースがお酒になったものかな、なんて想像する。そういえば、中学生か高校生のときにこんな漢詩を習った:

葡萄美酒夜光杯 (葡萄の美酒 夜光の杯)
欲飲琵琶馬上催 (飲まんと欲すれば、琵琶 馬上に催す)
酔臥沙上君莫笑 (酔うて沙上に臥すとも 君 笑うことなかれ)
古来征戦幾人回 (古来 征戦 幾人か還る)
(王翰「涼州詞」)

 このときも、「葡萄の美酒」がなんともエキゾチックでいかにもおいしそうではないか。「昔からこの僻地へ戦いに出かけた兵士のうち、いったい何人が帰還できたというのですか」という、命が保障されない環境の下、砂漠にゴロンと寝転んでしまうくらいゴクゴク飲みたくなるような、きっとそんな、いかにも甘美な味わいなのだろうと。

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 ジョージ・オーウェルの『一九八四年』の中に、一箇所、登場人物たちがワインを飲む場面が出てくる。ウィンストンとジュリアがオブライエンの住む高級マンションを訪れたところだ。ウィンストンやジュリアのような「党外局(Outer Party)」のメンバーには全く手に入れることができない飲み物で、その名前を聞いたことはあっても飲んだことはなかったのだった。そして、ついにウィンストンはこの禁断の飲み物を口にする:

ウィンストンはある種の熱っぽさに駆られてグラスを持ち上げた。葡萄酒は彼が今まで本で読み、一度は飲んでみたいと夢に見たものであった。ガラスの文鎮やチャリントン氏のうろ覚えの歌詞と同じように、それは消え去ったロマンチックな過去、彼が心ひそやかに好んで呼んでいた古き良き時代に属していた。ある理由から彼はずっと、葡萄酒が黒イチゴのジャムのようにひどく甘い味がして、すぐに酔いが回ると考えて来た。ところが実際に飲み干してみると、その中身にはまぎれもなく落胆させられてしまった。 (ハヤカワ文庫版、p.225)

 子供にとってのビールがおいしい飲み物ではなかったように、ワインもまたぶどうジュースのような飲み物ではなかったのだ。ウィンストンが感じたこの期待と落胆の場面が、僕にとってはとても印象的だ。それに、人が初めて飲むワインをこんな具合に描写したオーウェルもさすがだ。ワインを生まれて初めて飲んだ人が最初の一口から「なんておいしいんだろう」と思ったりしたら、それこそ変だと思う。あの若干の苦味を伴う芳醇さは、ぶどうジュースと違って、ちょっと飲んだだけでは理解できないだろうから。

 ところでこの場面のワインだが、ウィンストンとジュリアにはオブライエン宅を直接訪れた「おもてなし」であることは間違いない。でも、ワインがキリスト教の聖餐――信者という立場を確認する儀式――で使われることを考えると、このワインにも「兄弟同盟」という地下組織のメンバーに加入する「聖餐」的な意味合いが感じられる。ウィンストンとジュリアはオブライエンが勧めたワインを飲むことで、兄弟同盟のメンバーとして認められたと読むことが可能。

 さらに言えば、そのワインの味が落胆するようであったという点が、その地下組織自体にいずれ落胆させられてしまうことの密かな象徴になっていると思う。ウィンストンが逮捕されてから明らかになることだが、兄弟同盟なるものは存在せず、オブライエンもまた純粋に体制派の人間だったわけだから。ワインが期待はずれだったウィンストンは、兄弟同盟もまた期待はずれだったことをいずれ知る。

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 『一九八四年』にはビールも登場して、これまたなかなか印象的だが、それはまたいずれ書いてみたい。それともちろん、有名な(悪名高い?)「勝利ジン」についても。