メルヴィン・ブラッグ『英語の冒険』

(三川基好訳、講談社学術文庫2008)
Melvyn Bragg The Adventure of English: The Biography of a Language (2003)

退屈な文学史

 どの大学に入学したとしても、イギリス文学を専攻すると、イギリス文学史が必修科目になるのだろうと想像する。これは、最終的に個別の作家や特定の作品を研究することになるにしても、せめて全体を俯瞰する視野くらいは最低限身につけてほしいという教育サイドの意図なのだろう。これはこれでよい。

 問題は、その「イギリス文学史」の授業が往々にしてつまらない、刺激に欠ける内容になってしまっていないか、という点だ。自分の母校を悪く言うつもりはないのだけれど、僕の学んだ英文学史の授業は、残念ながら、かなり退屈だったと思う。ベオウルフ、チョーサー、シェイクスピア、ミルトン、スウィフト…何回も耳にする名前だから、きっと重要なのだろう。でも、なんだか興味が沸いてこない。朝の一限という、夜型学生にはつらい時間割に加えて、出席のチェックがあった。さらに、日本語の「イギリス文学史」なる教科書に加えて5冊組のアンソロジー(これまた1冊ごとがやたらに分厚くて重い)まで持参することが求められていたから、こういう環境的な要因からも、授業に対してやる気まんまんという気分にはなれなかった。

 でも、やっぱり授業の中身に問題があったと思う。理想的な文学史の授業というのは紹介された作品を「ぜひとも読んでみたい」と思わせるようなものだろう。ところが、『ベオウルフ』なんてちっとも読みたいと思わなかったし(これが本当に英語か!?という綴りや語彙の問題)、『カンタベリー物語』もなんだか少々エッチな話らしい、くらいの認識で通過(こういう面が読書の積極的な動機になる人も、いることはいる)。シェイクスピアについては、事前に入手した「過去問」によると、「英語で作品名を5個記せ」とか戯曲を「書かれた順に分類せよ」とか、そういう愚問対策ができればOKのようなので、だったらべつに授業に参加するまでもない。

 実際のところ、ある本を読んでみたいと感じられるようになる理由は様々にあると思う。これを読めばあなたは間違いなく大金持ちになれますと宣言されれば、じゃあ読んでみよう、と思うかもしれない。好きな人が愛読している本があると知れば、それなら僕もぜひ、と思うかもしれない。でも一番反応が良いのは、実は単純なことで、その本を心から褒めてくれることではないだろうか。

ティンダルの文章はいくらほめたたえても十分ではないほどだ。すばらしいリズム感、簡潔な表現、その水晶のように透明な言葉は、今日世界のどこで使われている英語であろうと、その土台に深く浸透している。(p.167)

 こんなふうに褒めてあったら、思わず、「どんな言葉で書かれているだろう」と確かめたくなってしまうではないか。実際のところティンダル英訳の聖書を読むのは僕にとってはかなり大変だとしても。ということで、理想的なイギリス文学史の授業は、極端に言えば、作品を歴史順にひたすら絶賛していけばよいわけだ。もちろん、効果的な褒め言葉というのは連発せず、出し惜しみしなくてはならないのだが、それはまた別の問題。

命懸けの冒険

 メルヴィン・ブラッグのこの本は、そのタイトルの語るとおり『英語の冒険』であって、『イギリス文学の冒険』ではない。だから、この本が取り扱うのは、正確には「文学史」ではなくて「英語史」なのだけど、でも英米文学史のテキストとして十分に使えると思う。まあ確かに現実的には、これを教科書にしましょうというのは難しいかもしれないが、せめて副読本くらいに使ったほうがよい。もし僕がこの本を一度読み、その上で母校の「英文学史」の授業を受けていたら(もちろん「英語史」の授業でも)、きっと参加意欲は全く違っていただろうと思う。そのくらい興味深く、面白く読める一冊だ。例の、問題のチョーサーだって、こういうふうにわかりやすく褒められている。

チョーサーがしたことでもっともすばらしいのは、それぞれの物語とその語り手に合わせて言葉を選び、形作ったことだ。どんな言葉を使うかによって人物の持つ雰囲気を表わし、人物に肉付けするのは、現代の作家なら当然のことだ。だからチョーサーのしたことがどれほど驚嘆すべきものであったかを理解するのはむずかしいかもしれない。(p.119)

 メルヴィン・ブラッグによるこの本のすぐれた点のひとつに、この引用でも見られるが、現代人から見たときの視点を忘れていないということがある。僕たちのような普通の読者からすればどう感じられるかという立場を忘れずに書いている。上の場合、イギリス文学史に精通している専門家ならば、「チョーサーのしたこと」は素直に驚嘆できるのだろう。でもあえて、ブラッグは「むずかしいかもしれない」と率直に認めている点が僕はいいと思う。

 ところで、『英語の冒険』の中で一番読み応えのある部分は、聖書の英訳に多くの人の生命が失われたという経緯なのだけれど、これもまた現代からの視点をふまえて考えないと、英訳ということの重大さが理解できない。聖書をラテン語から英語にするだけのことなのに、これがいかに命懸けで、大変に無謀な企て(「みずから銃口の前に進み出たのと同じこと」p.135)であったのか。聖書を英訳した有名な二人、ウィクリフとティンダルの例を挙げれば、当時の教会はウィクリフ憎しの一念で、既に埋葬されていた彼の墓をあばき、骨を取り出し、それを焼いて灰は川にまいたのだった。ティンダルもまた合法的な英訳聖書が前年に完成していたにもかかわらず、絞首刑に処され、その遺体は火刑柱で焼かれたのだった。

 この本の中では他にも、英語の方言やバリエーションがいつから「上流階級」や「下層階級」なるものを示すようになったのかという点もおもしろい。また、アメリカ大陸をはじめ、西インド諸島、インド、オーストラリアなど、世界中に広がった英語の経緯も興味深い(西インド諸島の英語について説明された一章でジャマイカの女流詩人、ミス・ルウによる詩「規則は殺す」が紹介されるが、これがまた素晴らしい)。

 最後に、この本とは関係ないがついでに言えば、メルヴィン・ブラッグは小説家なのだから、彼の小説のほうもいずれは翻訳されればいいと思う。The Soldier's Return(1999)とか、ちょっと読んでみたい。