アントニー・バージェス 『1985年』

(中村保男訳 サンリオ文庫 1984
〔Anthony Burgess 1985  1978〕

サンリオ文庫

 SFや海外文学の古書が好きな人なら、サンリオSF文庫(あるいはサンリオ文庫)は、やはりとても気になる。「すごくメジャーというわけでもないけれど、でもやっぱり興味を満たすために一応読んでみたい」というくらいのレベルの作品が、ずらりと勢ぞろいしているからだ。つまり要するに、マニア好みということ。必ずしも万人受けする作品ばかりではない。

 このようなマニアックな編集方針がたたってか、たぶん販売成績はあまり良くなかったのだろう。なにせ僕が小学生の頃の話なので、当時の実際の状況は推測するしかない。1987年にサンリオSF文庫は終刊となり、以後は古本としてしか入手できなくなった。そして、その後の価格の異常な高騰についてはご存知のとおり。現在でも、一冊数千円もする文庫本がざらにあるが、ああいうのは結局、当時売れなくて流通数が少ない作品ということだから、内容自体はつまらない可能性が高い。他にも、サンリオSF文庫は翻訳がよろしくない(らしい)ことでも有名なので、実際に読書を楽しむという観点からは、価格がその楽しみを必ず保障しているとはいえない。

 第二次大戦後のイギリス文学に興味があるのだから、サンリオなんてべつにどうでもいいし…なんて、つれないことは言わないほうがいい。いわゆるSF系の作家(J.G.バラードブライアン・オールディスなど)がいるのは当然だけれども、一般的に正統な文学系(何が「正統」なのかについては、また別な機会に考えることとして)の作家とみなされているアントニー・バージェス、キングズリー・エイミス、ドリス・レッシングもまた、刊行リストに名を連ねている。


アントニー・バージェス:『ビアドのローマの女たち』、『アバ、アバ』、『どこまで行けばお茶の時間』、『1985年』


キングズリー・エイミス:『去勢』


ドリス・レッシング『シカスタ』、『生存者の回想』


 ちなみに、第二次大戦以前からの作家でいえば、


H.G.ウェルズ:『解放された世界』、『神々のような人々』、『ベスト・オブ・H.G.ウェルズ


オルダス・ハックスリー:『猿とエッセンス』


 まあ確かに、みんなどちらかといえばSFっぽい作品だよなあ、とは思う。現代のロンドンを舞台に人々の生活を描く…みたいな作品は皆無。ちなみに、アントニー・バージェスに関しては、さらに『地上の力』(Earthly Powers)も刊行計画があったようだが、これは実現しなかった。刊行されなかった作品として、他に、アンジェラ・カーター『ホフマン博士の欲望時限装置』(The Infernal Desire Machines of Doctor Hoffman、場合によっては別題『夢の戦争』The War of Dreamsと表記されていることもある)もあった。変わったところでは、ヴァージニア・ウルフの『オーランドー』も刊行を計画していた。こんな具合で、イギリス文学に関しても、なかなか意欲的な出版社であったと言うことができると思う。イギリス以外に目を転じても、ナボコフバロウズ、ピンチョン、ガルシア=マルケスバーセルミエリアーデ(未刊行)などがラインナップされ、エンターテイメント的なSFだけに限らない、幅広い品揃えを目指していたことが推察できる。

 というわけで、アントニー・バージェスが好きなら、早川書房から刊行されていた『アントニー・バージェス選集』と並んで、このサンリオ文庫から出版された一群も試していく必要がある。その中でも今回は『1985年』について。

ストライキの時代

 消防署がストライキに入っていたため、病院で火災が起こっても誰も消火してくれず、そのために入院していた患者が焼死してしまった――現在の日本で、このようなことが起こりうるだろうか。今の日本を舞台にした小説があったとして、このようなプロットを現実に起こりうるものとして捉える読者はどのくらいいるだろうか。

 バージェスの『1985年』はユニークな本で、半分がエッセイ、半分が中編小説となっているのだが、この半分の小説の部分は、上に書いたような消防隊のストライキの場面から始まる。主人公のベヴ・ジョーンズは、病院の火災で妻を亡くしてしまう。そして、このような無責任なストライキを実施する労働組合を絶対に許せないと感じる。

 この本が出版されたのは、1978年。小説の時代設定は1985年だから、想像上の近未来のイギリスが舞台になっている。このイギリスは「タックランド」と呼ばれている。The United Kingdomの頭文字を集めてTUKランドであったが、いつからかTUCランド(Trades Union Congress、労働組合会議、イギリスの労働組合総連合会のこと)と呼ばれるようになった。この「TUCランド」という名前が示すとおり、この近未来社会では労働組合が国家統治の実権を把握していて、国民はみんななんらかの組合に所属していなければならない。非組合員は犯罪者に等しい扱いがなされる。

 でも、この組合組織のせいで最愛の妻を失ったベヴは、自分の所属する労働組合から離脱する道を選ぶ。当然彼は失職してしまい、困難に満ちた生活が始まっていく――とまあ、こんな具合にストーリーは進んでいく。「あくまでも想像上の物語なのだから、こんな世界はありえないよ」と思ってしまうが、この『1985年』に登場するような強烈な労働組合組織は、バージェスがこの本を執筆していただろうと思われる1970年代、イギリスでは十分に想定可能な環境だった。

 イギリスでは戦後長らく大規模なストライキは起きていなかったが、1970年代に入り状況は大きく変わる。有名なところでは、1972年に炭鉱労働者がストライキを起こし、また翌年5月1日にはTUCが政府の賃金抑制策に反対する大規模なストライキを実施した。また、ちょうどその頃にオイルショックも重なったため、1975年には年率25%を超える激しいインフレーションが発生してしまう。このような悪化する経済環境のため、労働組合は賃上げを求めてさらなるストライキを実施するようになり、1977年11月には消防署員によるストライキが発生した。(そして実際に、そのストライキ中に病院で火災が起こったが、緊急時に備えていた軍隊とともに、スト中の消防隊員も駆けつけたので、『1985年』のような悲劇は免れた。)

 とにかく、このようなイギリスはこんな状況下だった。今の日本では、電車やバスがストライキで止まってしまうという可能性はなかなかありえないと思うし、ましてや、消防署がストライキなんて、想像もつかない。僕たちにはこういう感覚の乖離があることをわかった上で『1985年』を読んだほうがいいだろうと思う。この本がジョージ・オーウェルのアンチ・ユートピア小説『一九八四年』をいろいろな角度から(政治思想のみならず、言語・文化の面まで)バージェスなりに再解釈したものであることは、確かに間違いない。でも、ここで語られる中編小説は、もちろん創作であるから極端に誇張されて描写されてはいるけれども、当時のイギリスなりに、なかなか実感のこもったストーリーだったはず。この本のエッセイ部分には、バージェス自身が答えた次のような対話が収録されている。

〔実際のイギリスが〕こういうふうに〔『1985年』のように〕なるのだと本気でお考えなのですか。


 あと数年まてばその質問に答えられるでしょう。読者がチェックして確かめることのできない予言を小説の形で書くのは、いつだって莫迦げたことです。わたしはこの本である種の傾向をメロドラマ風に誇張しただけなのだとお考えください。英国では、組合がますます強力になり、ますます不寛容になりつつあることは事実です。けれど、たぶんわたしの言う組合とは、特に戦闘的な組合指導者というだけの意味なのです。わたしもまた、オーウェルがもっと派手にやったと同じに、一般労働者の良識と人間性を度外視したのです。(p.383)

 実際に、イギリスの労働組合はますます強力、かつ不寛容になり、その頂点が1978年末から1979年にかけての冬に訪れた。1979年1月22日、イギリスの公共サービスに関する労働組合は、週給60ポンドの最低賃金を求めてストライキを決行した。公共サービス関連の事業は完全に麻痺し、病院は休業状態、ゴミ回収もストップしてしまったため、道路や広場にはゴミが野ざらしになってしまった。例えば、ロンドン市内中心の繁華街、レスター広場もゴミ置き場になってしまった。給食がストップし、学校運営にも支障が起こった。そして一連のストライキでもっともショッキングだったのは、リヴァプールでは墓堀人までもがストライキを起こしたので、遺体の埋葬すらもができないという事態に至ったことだった。このような一連の事態をひっくるめて、この冬は「The Winter of Discontent」つまり「不平の冬」*1と呼ばれている。

 そして、このような事態に対処できない労働党のキャラハン内閣は見放され、この1979年の総選挙ではサッチャー率いる保守党が政権を奪うことになる。サッチャー政権は、労働組合の活動を抑制する政策を強行に実施したので、組合員の数は減少、組合の活動は沈静化していった。大規模な労働争議1984年から85年にかけての炭鉱ストライキが最後となった。良くも悪くも、バージェスの描いた『1985年』の世界は実現しなかったわけだ。オーウェルの『一九八四年』もまた実現しなかったのと同じように。

 僕は1970年代のイギリスというのは、なかなか興味深い時期だと思う。50年代のようなういういしさ、60年代のような活発さはなくなってしまう。猛烈なインフレと不況、ストライキの時代。戦後の福祉国家政策は、労働党政権の時期を中心に積極的に進められてきたが、70年代に至って、ついに行き詰まってしまう。そしてこの状態を、サッチャー政権が大きく極端に右側に引っ張り戻すことで(これにもまた弊害があったわけだが)、イギリスは経済的復活の道をたどっていく。

*1:シェイクスピアの『リチャード三世』の冒頭の台詞「Now is the winter of our discontent…」に由来する