D.H.ロレンス 『恋する女たち』

福田恒存訳、新潮社 1969)
〔D.H. Lawrence Women in Love 1920〕

懲りずにまた姉妹の文学

 いつの間にか今年の読書テーマのひとつに、勝手になってしまった「姉妹のイギリス文学」シリーズ。これまでにここで取り上げてきたのは、順に、ジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』、マーガレット・ドラブル『夏の鳥かご』、A.S.バイアット『ゲーム』、そしてジェイン・オースティンの『分別と多感』。どの作品でも、姉妹間の愛情や絆、また場合によっては嫉妬や憎しみが描かれていて、なかなか面白かったと思う。僕も弟がいるからわかるのだが、兄弟という、切っても切れない血のつながりを感じている一方で、お互いの成功や失敗に関してはとても敏感だったりするわけだ。そんな心の動きの機微を、小説で楽しむのもなかなか悪くない。

 今回読んでいくD.H.ロレンスの『恋する女たち』には、主役級の登場人物として、二十六歳のお姉さん、アーシュラ・ブラングウェンと、一歳年下の妹、グドルーン・ブラングウェンが現れる*1。タイトルが示すとおり、彼女たちはそれぞれ知り合いの男性たちと、まあ一種の、というか、なんというか、恋愛状態になり、そんな様子が描かれるわけだ。僕がここで「彼女たちは恋愛をする」とはっきり書かず、なんとも歯切れの悪い表現になってしまうのは、そんな単純な話ではないということを示したかったから。ともかく、お姉さんアーシュラは、町の視学をしている男ルパート・バーキンと懇意になり、妹のグドルーンはジェラルド・クライチという若い炭鉱主に接近していく。

 『恋する女たち』には、今まで読んできた「姉妹文学」とは、大きな、決定的な違いがある――それは、作者が男性であるということだ。ジョージ・エリオットもドラブルもバイアットも、そしてオースティンも、みんな作者自身が女性であるから、女性の立場から女性キャラクターを描くという、ある意味、読者に説得力もたらす有利な立場にあった。ところが、ロレンスは男性作家。年頃の姉妹の心に去来する愛憎の機微を描くことができるのだろうか。ロレンスはプロの作家、それも二十世紀イギリスを代表する大作家なのだから、異性であっても登場人物の心理描写なんてお手の物、と考えることもできる。でも、もしかしたらやっぱり何かが違うかもしれない。個人的にはこのあたりが『恋する女たち』の読書ポイントになるだろうと思っている。

鬼門ロレンス

 ところで、D.H.ロレンスは、僕にとっては長らく鬼門だった。学生の頃にいくつか読んだが、あんまりピンとこなくてそれっきり。というか、僕が言いたいのは、ロレンスは難解な作家だということ。僕が彼を敬遠し続けたのも、要するに難しいからだ。日本でこんなに人気がある(ように思われる、僕には)のが、信じられない。『チャタレイ夫人の恋人』の翻訳が裁判になるなど、そういう「刺激的」な面があるから人気や知名度が高いのだろうか。

 ここで言う「難しい」というのは、読んでも意味がわからないということではなくて、一筋縄には行かない作家だということ。ちょっと試しに読んでみるとわかるが、ロレンスという人は何か言いたいことがあるみたいだが、でも要するに何が言いたいのかということを、シンプルで明確な形で述べたりはしない。例えば作品を読み、「ロレンスは男女の性関係による心の交流を重視した」という結論を得たとして(実際にはこんな単純な結論が得られるはずがないのだけど)、では、ロレンスの諸作品に頻出する男性間の同性愛的傾向についてはどのように処理するのか。でも、こういう矛盾をはらんだ作品の重層性こそが、格好の研究材料たりうるわけで、だからこそ英文学界でロレンスが人気である理由なのだろう。あと、ロレンスの小説に込められた象徴的表現の数々も問題。象徴的に何かを表現するのではなくて、素直に明示すれば話は単純だったはず。でも、こういう点こそ文学たるゆえん、ということで、せっかく読むのだから、重層性や象徴性もじっくり味わってみるしかない。

 下の引用の表現は、どう味わえばいいのだろう。良くも悪くも、とてもロレンスらしい描き方だと思う。妹のグドルーンが初めて、「輝くごとき美しさ」を備えるジェラルド・クライチを見た場面。

すると突然、鋭い発作が、一種の恍惚状態がグドルーンを襲った。あたかも地球上の誰も知らぬ、なにか信じがたい発見をしたような気がしてきたのである。ふしぎな恍惚境が全身をとらえた。血管の一本一本が激情の発作に捲きこまれてしまった。(上巻p.20)

ジェラルドのあまりの美しさ、格好良さに、グドルーンは一目見ただけで「恍惚状態」になってしまった。うーむ。日常生活用語で言えば「くらっときた」ということか。たった20ページ目にして、早くもある種のエクスタシー。

美男美女のグループ交際

 アーシュラ・ブラングウェンもグドルーン・ブラングウェンもそれなりに美しい容貌・外見として描写されているし、ジェラルド・クライチも超美男子。ルパート・バーキンだけがちょっと地味な印象だが、上背もあって、見てくれが悪いわけではない。三十歳くらいの、親友同士である男二人と、二十五歳前後の美貌姉妹。これから、アーシュラとバーキン、グドルーンとジェラルドの組み合わせで恋物語が始まり、この四人が揃って旅行にまで出かけることになる。一種のグループ交際みたいなものか。なんだかこんなふうに説明すると、テレビドラマみたいだなと思う。これに加えて、バーキンとジェラルドの間に親友以上の「絆」みたいなものがあって、これがストーリーに薬味を添える。

 さて…今回も『ミドルマーチ』を読んだときみたいに、これから何回かかけて(一回で読んだきりでこの本を「わかった」なんて無理だ)この『恋する女たち』を読んでいきたいと思う。『ミドルマーチ』のときは、作品自体が大長編だったせいもあって三回にわけて読んだが、僕は「読みづらいなあ」と思う本については、時間と手間をかけてあげるべきだと思う。以前の旧バージョンのブログで、シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』も何回かに分けて読んでみたが、個人的にはあれはなかなかよかった。本来なら、ブログという表現形式を考えると、毎回毎回新しい本を取り上げて、目新しさや新鮮さを打ち出したほうが良いのはわかるのだけど、今回もまた悠長に――というか、『恋する女たち』はなかなか歯ごたえのある小説なので、こういうふうにじっくり味わうべき一冊ではないかと感じている。

*1:新潮文庫の翻訳では、妹の名前Gudrunはグドルーンではなくガドランとなっている。なお、後述のジェラルド・クライチ(Gerald Crich)も翻訳ではクリッチとなっている