D.H.ロレンス 『恋する女たち』

福田恒存訳、新潮社 1969)
〔D.H. Lawrence Women in Love 1920〕

ジェラルド・クライチの放電

 昔に書かれた小説を読んでいると、当時の技術や生活についての自分の無知ぶりに気づかされることが多々ある。たとえばジェイン・オースティンの小説の時代。登場人物の移動手段は馬車がメインで、蒸気機関車は現れていない(ように思える…僕が覚えている範囲だと)。そして馬車と一口に言ってもいくつかの種類があって、これこれの馬車はかっこいいとか、おしゃれだとか、登場人物たちがあれこれ評を下す場面もあって、これはさながら、ある種のステータスシンボルともなっている、現代の自動車みたいなものだったのだなと気がつく。

 その自動車はいつから世界の舞台に登場したのだろう。テレビ版の「シャーロック・ホームズの冒険」を観ていると、ホームズ以下登場人物たちは馬車に乗ってロンドンの街を行きかう。ところが、テレビ版「ポワロ」を観ていると(この探偵小説番組は1930年代半ばに設定されている)、かつての馬車はさっぱり見当たらず、完全に自動車の世界。モータリゼーションは、このたった三十年ばかりの間に起こったらしい。ところでこの「ポワロ」では時代考証に基づき、当時の自動車、今から言えばいわゆるクラシックカーがたくさん登場してくるので、ポワロの推理に興味がなくてもこういうのが好きな人にとっては、なかなかおもしろい番組なのではと思ったりする。

 小説の中での自動車の登場に関して、個人的に一番印象に残っているのはE.M.フォースターの『ハワーズ・エンド』(1910)に自動車が登場することだろう。姪のヘレンの様子を見にロンドンから出かけたマント夫人は、最寄り駅のヒルトンからウィルコックス家の自動車に乗ってハワーズ・エンドに行く。読んでみると、赤い革張りのシートになっているらしいところと、村の道路で砂塵を思いっきり巻き上げながら走っていくところが印象的だが、とくにこの小説で自動車が記憶に残っているのは、僕がフォースターを好きだということに大きく関係している。彼の長編小説で、『天使も踏むのを恐れるところ』(1905)と『果てしなき旅』(1907)、『眺めの良い部屋』(1908)には自動車が登場しなかった(はず)。そして『ハワーズ・エンド』で自動車が現れ、次作『インドへの道』(1924)では、もはや当たり前のように自動車が描かれる。だから、僕の頭の中では、時代の分水嶺は『ハワーズ・エンド』にある。

 小説を読んでいると、登場人物のことやストーリーに気を取られてしまうので気がつかないが、こういう小道具に時代感覚が潜んでいて面白かったりする。交通手段のほかに、テレビ版の「ホームズ」と「ポワロ」を見比べていると、「ポワロ」では電話がごく普通に使われているのにも気がつく*1。そして電気。オースティンの時代は、みんなロウソクの明かりで夜を過ごしていた。そしていつの間にか部屋の照明は電気に変わっている。これはいつの頃だろう。またもや『ハワーズ・エンド』で申し訳ないが、登場人物の一人、レナード・バストの住む、ロンドンの場末の狭い半地下フラットについて、こういう描写がある…「居間には電気がつけっぱなしになっているだけで、だれもいかなかった(The sitting-room was empty, though the electric light had been left burning.)*2」ロンドンの上流階層ではない人々が住む住宅でも、この小説の書かれた1910年ごろには電気が通じていたらしいということがわかる*3。今日、電気が部屋を明るくし、電話で話し、自動車や電車で移動するのは、自分たちが生まれる前から実現していたごく当然のことなので、これらの文明の利器がいったいいつから世の中に普及したのか、正直よくわからなかったりする。本当なら歴史という教科でこういうことはお勉強すべきなのだろう。でも、小説を楽しむ副産物として、結果的にこんなことも気がついていくようになっていく。

 でも、僕が読んでいるのは歴史の教科書ではなくてやっぱり小説なので、自動車や電気が単なる情景描写以上の意義を持って、つまり「文学的に」描かれている場面に出くわす。『ハワーズ・エンド』では、自動車は単なる移動手段としてではなくて、ウィルコックス家の象徴する文明世界の権現のような意義を持たせてフォースターは書いている(そして、マーガレットはこういう自動車を嫌がる)。そして、今回『恋する女たち』を読み、この1920年に出版された小説が、電気というものを、明かりをつけたり物を動かしたりするような即物的な作用以上のものとして描いている点が、僕は気になった。具体的にはこういう箇所:

女〔ミネット〕はだるそうに瞳をいっぱいにあけて、なおも男〔ジェラルド〕の顔に見いっている。その視線が男の好奇心を強く刺戟した。男は自分自身を、そして自分の魅力を鋭く意識して、深い喜びに浸されたのだった。身うちから電力(electric power)を放射しうるのではないかと思われるほど、力の充足感を覚えたのである。(p.113)


女が自分の力のなかにあるのを感じて、ジェラルドの心は寛大になった。四肢のうちに電力(electricity)が満ち溢れ、肉感的な豊かさがあらわにうかがえる。それがひとたび放射されたならば、相手は完全に打ち砕かれたであろう。(p.113-4)


ミネットはジェラルドの隣に座っていた。すると自分の全身がいつしか柔軟になり、そのまま男の骨のなかに溶けこんでいくような隠微な陶酔感を覚えてくるのであった。あたかもわが身が暗い電気の流れ(a black electric flow)にのって、相手の体内に流れ込んでゆくような感じだ。(p.129)


ジェラルドは、女がそこに静かに控えめに坐っていても、自分とのあいだに強い結合感(原文ではelectric connection)を感取することができた。男の心理は一変していたのだ。が、女の沈黙と、変化を見せぬ外見とが、ジェラルドを困惑させた。いったいどうしたら女の心に触れることができるだろうか。ジェラルドは、事のすでに避けがたいことを直感していた。二人の間を流れる電流(current)に深く信を置いていたのだ。(p.132-3)

 ロレンスは電流のイメージをこのような場面に使っているのだが、まあ、言いたいことはどういうことかは理解できる。日本語でも「シビレる」という表現があることはある。電気の持つ、光りを放射したり、物を動かしたりする力(パワー)のイメージ、そして電線を伝わって水のように流れていくイメージ、また、感電という現象から派生する危険な痛々しいイメージ(静電気も痛い!)。こんなイメージが、ロレンスにとっては美男美女の心の交流を描くのにぴったりだったということなのだろう。

 男女の機微のようないたって人間的な事柄を、電気のような、どちらかといえば科学技術的な比喩で表現するところが面白い。当時の読者にとってはなかなか新奇な表現だったのではないかと想像する(現代の読者にとってもかも――よく考えてみれば「あなたと私の間には電気が通い合っている」なんて言うわけないし)。冷静に読むと、ジェラルドはあたかも電気をバチバチ放っているみたいなわけで、「俺に近づくとアブナイよ」みたいな、なんだか電気ウナギのようで、これは一種のユーモアとして受け取るべきなのかなと感じなくもないが、少なくとも僕が読んでいる限り『恋する女たち』にはロレンスのユーモアの表出はぜんぜん感じられないので、こういう電気的描写も謹厳に読んであげたほうが無難だろう。

 電気とイギリス文学といえば、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』で、あの不気味な人造人間が動き出すようになるのは、たしか、雷の電気を与えてからだったような気がするが、最近は読んでいないので忘れてしまった。もしそうだとしたら、あれは天然の電力を使用した一種の除細動(アメリカのテレビドラマ『ER』で救急救命士が心臓に電気ショックを与える場面が印象的。心臓がうまく動かない状態になってしまった人のための医療行為で、最近はこのための道具「AED」をあちこちで見かけるようになった)だったのだろう。まあともかく、『フランケンシュタイン』の場合は雷で命を吹き込まれたというわけで、この場合の電気は、神がかったような、なんだか神秘的、オカルト色の強いものだと思う。『恋する女たち』で見られたような、本来の電気の性質(力、流れ、痛み)に基づいた役割ではない。

 というわけで、身近に使われるようになった電気に対し、その性質を踏まえ、さらに電気に文学的な役割を与えている点では、『恋する女たち』はなかなか画期的ではないかと思ったりしている。こういう点は二十世紀の小説らしさだと思う。

*1:ちなみに、「家を出ようとしたところに、主人に電話がかかってまいりましたの。とても悲しい出来事でしてね。青年が自殺したというのです」(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』1925)…ということは、この頃には電話のある家庭があったわけだ。

*2:吉田健一訳『ハワーズ・エンド』(集英社1992)p.53

*3:他にも「ロンドンが夜に向かって明かりをつけ始めた。大通りでは電灯(electric lights)が瞬いたり、稲妻を走らせたりし、横丁ではガス灯が金色や緑に光った」(『ハワーズ・エンド』p.132)当時、主な通りには電灯が設置されていたらしい。