いったい何をしていたのか。

 すっかりご無沙汰になってしまっていた、かわいそうなこのブログ。今年はなかなか更新されず、書き手はいったい何をしていたのだろう。

 読書なしでは生きていけないので、いつも何かしらの本を読んでいるのは間違いないけど、どうもブログに書いてまとめるまでには至らなかったらしい。ということで、最近は一冊の本を長々とまとめる元気がわいてこないので、この秋以降に読んでいたものをただ羅列していってみるつもり。ちょっとなげやりだけど、これが2008年の総集編。タイセイブログ版、「今年を振り返って」の巻。

新井潤美さんの新書四部作

 実際には、ブログにまとめてみようと思って、パソコンの前に座るところまで進んだ本が何冊かあった。例えば、新井潤美さんの新書シリーズ。きっかけは自負と偏見のイギリス文化 J・オースティンの世界』岩波書店岩波新書、2008年)が発売されたので読んでみたことから始まった。新井さんは岩波文庫から『ジェイン・オースティンの手紙』を出している先生でもあるので、この新書はそうした手紙類から敷衍したオースティンについてのあれやこれやが説明されている、といったところ。だから、小説自体について述べられている部分は、別段目新しいことがあるわけではない。でも、この著者が本筋から脱線し始めるとなかなかおもしろくなってくる。つまり、オースティンの小説自体ではなくて、その小説から読み取れる当時の社会事情とか、現代におけるオースティンの受容とかが語られると、なんだか内容が「本領発揮」みたいな感じになってくる。

 このわけは、続いて読んだ『へそ曲がりの大英帝国平凡社平凡社新書、2008年)で納得した。新井さんはイギリスで育ったということもあって、やっぱり現代のイギリス文化・イギリス事情について書かかせると、俄然説得力が出て読みごたえがある。ついでだから、『階級にとりつかれた人びと 英国ミドル・クラスの生活と意見』中央公論新社中公新書、2001)と『不機嫌なメアリー・ポピンズ イギリス小説と映画から読む「階級」』平凡社平凡社新書、2005)も読んだ。案の定、おもしろかった。というのも、私たちには必ずしも判然としないこんなことを、自信を持って聞き分ける耳を持つ著者だからだ。以下は、映画版の『ブリジット・ジョーンズの日記』で俳優たちが演じる英語の微妙な違いについて述べた部分:

テキサス出身の女優レネー・ゼルウィガーは、この映画のためにイギリス英語の特訓を受けたのであるが、彼女の英語がじつにうまくブリジットの階級をあらわしている。同じミドル・クラスでも、ダーシーを演じるコリン・ファースや、悪役ダニエルを演じるヒュー・グラントがまぎれもないアッパー・クラスのアクセントを用いるのに対して、ブリジッドの英語にはロウアー・ミドル・クラス/ミドル・ミドル・クラスの微妙な訛りを聞くことができる。(『不機嫌なメアリー・ポピンズ』p.55)

 もし僕が大学のイギリス文学の先生だったら、これからイギリスの近現代文学を勉強しようとする学生には、春休みにでも、「この四冊を全部読んでこい」と宿題を出すだろう。ちょっと「階級」ということにこだわりすぎることになってしまうかもしれないけど、イギリス人の生活の一側面を知るにはとても良いイントロダクションになると思うし、すでにイギリスの小説にあれこれ親しんだ人にとっても、これらの新書はかなり示唆に富んでいる。そしてもちろん、四冊全部まとめて読んだほうが、著者の主張について体系的な理解ができる(これはつまり、同じことが何度も繰り返し述べられている、ということだけど)。

その他のイギリス文学

 今年2008年は、僕自身の中ではヘンリー・ジェイムズ・イヤーだった。読んだのは『大使たち』(青木次生訳、岩波文庫)、『黄金の盃』(青木次生訳、講談社学芸文庫)、『ある婦人の肖像』(行方昭夫訳、岩波文庫)の三篇。なんだか最近はジェイムズのような、こういうふうにとても歯ごたえのあるような小説じゃないと「ああ、満足した」という気にならない。『鳩の翼』(青木次生訳、講談社学芸文庫)も手元に用意したけど、これを読み終えてしまうと、もう読むものがなくなってしまう…そう思うと読み始められないでいる。しかし、こんなふうに文学中の文学とも言える作品を気軽な文庫本で読めるなんて幸せだなあと実感する。

 ところで、ヘンリー・ジェイムズの良さって何?と質問されたら、僕は、その「読みづらさ」だと思う。読者の興味をひきつけて、ページをめくらせるためだけに、明快にわかりやすく次々と出来事が起こっていくような、そんな小説はなんだか読む気があまりしない。もちろんジェイムズの小説だって「このあと、いったいどうなるのだろう?」という興味で読み進めていくのだけど、ジェイムズが書き表した言葉の表面をなぞるだけではなくて、あえて明確に書かないことや、暗示的に示されるだけのことを「解読」していくおもしろさがある。極端に言えば、一語一語について気を抜いて読むことができない。だから「流して読む」ということができないわけで、ある意味疲れる読書ではあるけど、読み終わったときの充足感はそこらへんの本では得られないものがある。

 こういうふうな読書の楽しみを満喫しているから、その一方でなんとも不幸なことに、その他のイギリス小説が大変軽薄に感じられてしまうという問題も生じている。最近、エリザベス・ギャスケル『女だけの町(クランフォード)』小池滋訳、岩波文庫)を読んだけど、あまりにあっさりしすぎている内容だったので、ちょっと残念だった。確かに普通におもしろい小説なので時間つぶしに読むにはいいけど、読書の醍醐味としてはちょっと該当しない。ただ、上で書いた新井さんの述べるようなイギリスの「階級」を、文学を通して実地で調べてみるという点では、この作品はおもしろい題材になるとは思う。階級がひとつのキーワードとも言える小説だったから。とはいえ、ギャスケル夫人はオースティンの後継者的な位置づけにあることもあるけど、しかしこの『クランフォード』を読む限りでは、まだまだ及びませんな、という感じ。

 あと、本来このブログの中心分野だったイギリスの戦後小説については、このところあまり読んでいないので残念ながら書くことがない。2008年一年間を通して振り返ると、1月に読んだグレアム・スウィフト『ウォーターランド』と3月に読んだイアン・マキューアン『贖罪』が一番良い読書経験だったと思う。どちらも「歴史」にかかわる小説なのが興味深いところ。これはきっと僕の好みを多分に反映している。

塩野七生ばんざい!

 ヘンリー・ジェイムズはあらかた読み終わり、近現代のイギリス小説とも最近は疎遠…じゃあ、最近の僕はいったい何を読んでいるのか。それは…そう、やっぱり「歴史」もの、とくに塩野七生さんの作品のあれやこれやについて。今年の10月くらいからは、一昨年完結したローマ人の物語シリーズ全十五巻(新潮社)を最初から最後まで読み返した。何度読んでもおもしろい。その後、イタリア遺聞新潮文庫)、ルネサンスとは何であったのか』新潮文庫)を読み、ますます塩野作品から離れられなくなった。そしてこんな具合であれこれ読みかさねるうちに、僕は気がついたのだった…ヴェネツィア共和国一千年の歴史について書かれた『海の都の物語』(中公文庫)を読まなくては、塩野七生を「読んだ」などとは全く言えないことを。今でこそ『ローマ人の物語』が彼女の代表作だが、このシリーズが発売になる前は『海の都の物語』こそが彼女の代表作だったのだ。

 しかしそれにしても、ヴェネツィアというのは、何と興味深い歴史をもっていることか! 僕はゴンドラの街としてしか知らなかったのだが、あの街の起源は、ローマ帝国末期の蛮族進入から始まるのだという。つまり、追い詰められた人びとは海の干潟に逃げこむしかなかったのだ。そして、共和国、つまり世襲君主のいない政治体制が建国以来ずっと続いていたことも注目に値する。さらに、狭い国土と人口なのに、オリエントとヨーロッパを結ぶ海運・商業で目覚しい繁栄を遂げたこともますます興味深い。商人たちが、このヴェネツィアという都市国家をあたかもひとつの企業を経営するかのように統治していたのだった。『海の都の物語』について言えば、塩野七生の作品にふさわしく、ヴェネツィアを中心に語りながらも、周辺領域への言及・配慮(たとえば、この本を読めば、ジェノバやピサといった他の海運国家の状況や、アラビア世界の動きも一緒に理解することができる)にも事欠かないし、当時の船(ガレー船)がどのようなもので、いかに航行していたのかというようなディテールもちゃんと説明が行き届いている。

 そして、2008年も年末の12月21日、塩野七生の最新刊『ローマ亡き後の地中海世界(上)』(新潮社)が発売になった。回教徒の海賊がいかに中世のヨーロッパに影響を与えたか、という内容だ。中世の地中海を語るにあたり、ヴェネツィアを語らないわけにはいかないから、そういう点でもこの本が発売される前に『海の都の物語』を読んでおいてよかったと思う。ところで『ローマ亡き…』の中で一番印象的だったのは、内容もとても良かったけれど、実は巻末のカラー写真だった。海賊の来襲を見張るための塔がいまでもイタリア各地に残っていて、その写真を集めたものなのだが、しかし、僕はそこに映し出されていたイタリアの海岸の美しさに目を奪われた。陰鬱な中世の歴史と、この写真の美しさ・鮮やかさとのコントラストがとても印象に残る。というか、イタリアにとても行きたくなった。

今後の見通し

 来年は…まあ、簡単にいえば、あまり期待しないでください、と書くしかない。きっと書きたくなったらまた一生懸命書くでしょう。「この本を読んだ印象をぜひとも書き残したい!」という衝動に近いものがないとダメなわけだ。「ぜひとも」と思わせるような本があるかどうかにもかかっているし、もちろん、パソコンの前で長々と座って、パチパチとキーボードを叩いていられるかどうか、僕の忍耐力にもかかっている。