D.H.ロレンス 『恋する女たち』

福田恒存訳、新潮社 1969)

〔D.H. Lawrence Women in Love 1920〕

水泳

 近頃、頻繁にプールに泳ぎに行っていて、そのせいもあってこのブログの更新がなかなか進まなかったりするのだが、それはともかく、やっぱり水泳は気持ちがいい。個人的には水を切って進んでいく感覚が気持ちいいのだが、べつに水に浸かる快感は泳げなくたって味わうことができる。たとえば、温泉を訪れてその湯船に浸かるのは、また格別の気持ち良さだ。世の中にはお風呂が好きではないという人もいるそうだけれども、僕は家の狭い浴槽だって十分に気持ちがいいと思う。日本のお風呂場は湿気が多いので無理だけど、ロンドンにいた頃、僕の住んでいたフラットの浴室は湿気がこもらなかったので、休日は新聞や本を読みながらゆっくりお風呂を楽しんだものだ。あれは今考えると贅沢なひとときだった。熱かったお湯もやがてぬるくなる。たまに、本が手から滑り落ち、水没してしまうという事故も発生した。

 古今東西の小説で、登場人物が泳ぎだす場面というのはきっとたくさん存在するのだろうけど、戦後のイギリス文学で「水」ないしは「水泳」のイメージといえば、僕はなんといってもアイリス・マードックの小説が念頭に浮かんでくる。彼女の小説で「水」が登場しない作品はないのではないかと思う。もっと厳密にいえば、これはつまり、誰かしらの登場人物たちが、必ず水に浸るということだ。1970年の小説『A Fairly Honourable Defeat』では、フォスター夫妻の住む家の庭にプールが登場する。『The Philosopher’s Pupil』(1983)では、ストーリーの設定がエニストウン(Ennistone)という街になっているのだが、この街は実在の地方都市バースがモデルになっているらしい。バースといえば鉱泉が有名だが、小説のエニストウンでも、人々は街の中心にある温泉プールに集まり、プールは社交場と化す。マードック一番の代表作である『鐘』(1958)でも、水泳の場面は重要な役割を果たしている。トビーという若者が泳がなければ、タイトルにもなっている肝心な鐘が見つからないのだ。この鐘は池の底に半ば埋もれて沈んでいる。

 水と水泳が美しく、効果的に描かれた小説といえば、僕はE.M.フォースターの『眺めのいい部屋』(1908)も忘れることができない。主人公ルーシー・ハニーチャーチの住むタンブリッジ・ウェルズの一角には、木々の生い茂る森があって、その森に、雨が降った後にだけ泳ぐことができる大きさになる美しい池(通称「聖なる湖」という)があった。あるとき、ルーシーの弟フレディーと、最近近くに引っ越してきたジョージ・エマーソン、そして地区担当のビーブ牧師の三名が、裸になりこの池を泳ぎ始める。すると、それまでの三人のわだかまりが消え去ってしまう…「雨が清々しさを運んできたせいだろうか、それとも太陽が栄光の熱を注いでくれたせいだろうか、それともふたりが若く、もうひとりの心が若かったせいだろうか、何が原因かわからないが、何かが三人を変え、三人はイタリアのことも、生物学のことも、運命のことも忘れ去った。」*1日本には「裸の付き合い」なる言葉があるが、なんだかこういう言い回しがここでも通用しそうな感じだ。服という社会的装いを取り払い、新鮮な水によって心も体も清められ、人々の間には親近感が生じ、そして素直に、率直になっていく。

 さて、D.H.ロレンスの『恋する女たち』でも、登場人物たちが泳ぎだす場面がいくつかある。「跳びこみ」と題された第四章では、アーシュラとグドルーンの姉妹が、ウィリー・ウォーターという湖をジェラルド・クライチがすいすい泳ぐ様子をじっと眺めている。そしてロレンスの場合、泳ぐことの快感はこのような言葉となる:

突然、ジェラルドは向きを変え、横泳ぎで沖のほうへすいすい泳ぎ去った。いまやまったくひとりきりになり、湖水のまっただなかに、孤独で、なにものにも侵されることなく、新しい世界のなかに孤立していることに、男は誇りに満ちた歓喜を感じた。いちずに幸福だった。脚を伸ばし、体を投げだし、あらゆる絆や結びつきから免れて、この水の世界のなかにひたすら自分自身でいられることの幸福。(上巻p.89)

「あらゆる絆や結びつきから免れて」というところに、僕自身としては、泳ぐときの気分が伝わってくる。仕事とか、その他もろもろの瑣事を忘れて(忘れるために)、プールで泳ぐのだから。ただし、「脚を伸ばし、体を投げだし」というように、身体についての言及が律儀にもあるところが、いかにもロレンスらしい。読者の視点を、登場人物たちの体、とくに裸体に向けさせるのが、ロレンス式の水泳描写。だから、ハーマイオニ・ロッディスの邸宅ブレッダルビーをブラングウェン姉妹が訪れた際に(第八章)、そこの池で行われる水浴でも、泳ぐことよりは、どちらかといえばその場の人々の体つきを描写することのほうがメインだったりする。

 フォースターの『眺めのいい部屋』での「聖なる湖」の場面にあったように、裸になって泳ぐことによって心身ともに清められ、人と人との間のわだかまりが解消する、というような場面が、『恋する女たち』の第十四章に出てくる。アーシュラとグドルーンの姉妹は、カヌーで湖を漕ぎ出し、人気のない入江で二人きりで裸になって泳ぐ。そして泳いだあとは、裸のままその辺りを駆け回って遊び、体が乾いてから服を着て、二人きりでお茶を楽しむのだった。おそらくこの場面はこの小説の中で一番美しい情景ではないかと思う。この二人の幸福感は、このように語られる:

「あんた、幸福?」アーシュラは妹を見つめながら、嬉しそうに、はしゃいでいった。
「アーシュラ、あたし、とても幸福よ」グドルーンは沈みかかった太陽を眺めながら、まじめにそういった。
「あたしも幸福だわ」
姉妹が一緒にいるとき、そしておたがいに好きなことをやっているとき、二人はいつでも二人だけの完全な世界のうちにあって、まったく満ちたりていた。そして、いまこそ、そういう自由と歓喜とに溢れた完璧な瞬間のひとつだったのだ。(上巻p.295)

そしてこの情景は、おそらくこの小説で、アーシュラとグドルーンという二人の姉妹の関係がもっとも美しく描かれる場面でもある。「姉妹の文学」という観点でいえば、これまでにこのブログで読んできたような、ドラブルとかバイアットとか、ああいうふうな、はっきりとした愛憎関係は『恋する女たち』では描かれていない。この小説の中で、姉妹の緊張した関係を多少は読み取れなくもないが、僕が想像するに、どうもD.H.ロレンスはこの方面のことには、つまり、姉妹の愛憎関係を描くということには、あんまり興味がなかったのではないかという感じがする。むしろ、ジェラルドという一人の男を軸に、彼とグドルーンの愛憎と、そして彼とバーキンの同性愛めいた人間関係を作りあげていくことにロレンスのねらいはあるようだ。そして、大まかにみると、『恋する女たち』という作品全体は、ジェラルドという男がいかに魅力的であるか(ヴァイタリティーに溢れているか、というべきかもしれない)ということをあらゆる面から描いている小説になっている。だから、作中の水泳の場面も、そんな彼の魅力を伝えるための手段のひとつとして設定され、描かれたのだろうと思う。

 その後ストーリーは進行し、水泳ができるような温かい水の世界から、氷点下の冷たい雪の世界へと場面が大きく転換する。小説の終盤、アーシュラ、グドルーン、ジェラルド、バーキンの四人はオーストリアチロル地方の雪に包まれた山小屋へ旅行に出かける。トーマス・マンの『魔の山』のシチュエーションを彷彿とさせるような、壮絶な雪山の世界。ジェラルドの凍死という結末を迎えてこの小説は終わる。

(訂正)
 前回のブログで、E.M.フォースターの小説で自動車が初めて登場したのは『ハワーズ・エンド』からだと書きましたが、今回『眺めのいい部屋』をよく読んでみたところ、一箇所、簡潔ながら自動車が言及されているところがありました。(第十二章冒頭の一部、「サマー・ストリートを通り過ぎる自動車が巻き上げる埃もわずかで、ガソリンの匂いも風で吹き払われ、たちまち松や白樺の湿った匂いにとって代わられた。」)

*1:西崎憲・中島朋子訳、『眺めのいい部屋』(ちくま文庫、2001)よりp.229