ヴァージニア・ウルフ 『ダロウェイ夫人』

(丹治愛訳、集英社文庫 2007)
〔Virginia Woolf Mrs Dalloway 1925〕

冒頭

 タイセイは、本は僕が買ってくるよ、と言った。
 せっかく『ダロウェイ夫人』の新しい文庫本が出たのだから。以前から単行本としては発売されていたものだし、でもこれが他の『ダロウェイ夫人』とどう違うのか気になる。それに、とタイセイは思った、なんてすてきな値段だろう――ペイパーバックだって5ポンドくらいするのに、750円で買えるなんて新鮮だ。
 やっぱりいいよね! 本屋に飛び込むこの気分! ちょっときしむ入口の扉を勢いよく開けて本屋に駆け込んでいくと、いつもこんな気持ちがしたものだ。本屋の空気はすがすがしくて、静かで、もちろんここよりずっと落ち着いた雰囲気だった。あのピカデリーにある本屋の中は、ひんやりとして清冽な雰囲気が、波のように僕に押し寄せ、僕に接吻し、しかも(当時26歳だったタイセイには)厳粛な感じがしたのだ。僕は本屋の窓辺に立つと、なにか恐ろしいことが起こるんじゃないかと思ったくらいだった。本を眺め、立ち並ぶ本棚と、階段を上り降りするお客さんを眺めていたら、しまいに店員さんが声をかけてきた。「本屋でご瞑想?」――あれ、違ったかな――「僕は本よりも人間のほうが好きだな」だったかな。

ボードゲーム版『ダロウェイ夫人』実践編

 『ダロウェイ夫人』はこんな書き方がユニークだ。ストーリーの要は、50歳代を迎えている女性、クラリッサ・ダロウェイが、かつて18歳という娘ざかりの頃、自分を好きだと言い寄ってきた二人(ピーター・ウォルシュとサリー・シートン)を思い出し、「最近の自分はパッとしないけど、あの頃はモテたよなあ、あの二人の求愛に答えていたら、どうなっていただろうなあ」などというようなことを考えてしまう小説(だと、僕は思う)。1923年6月のある水曜日、パーティーを準備していたクラリッサ・ダロウェイはこの二人のことを思い出していたが、ちょうど偶然、ウォルシュとシートンも同じ日にロンドンに到着していて、夜のパーティーで約四十年ぶりに全員集合を果たすことになる。こんなふうにたまたまその日に全員が集まるなんて、究極のツッコミどころのような感じがしなくもないが、まあ、小説の中のパーティーなんてこういうものだ。

 ここで突然だが、ボードゲームを開始しよう。準備は簡単、1.ロンドン中心部の地図、2.チェスの駒、3.『ダロウェイ夫人』、以上三点を用意する(しかし、一般家庭にロンドンの市街地図や、チェスの駒があるだろうか)。そして、それぞれの駒には「クラリッサ」「リチャード」「エリザベス」「ピーター・ウォルシュ」「ヒュー・ウィットブレッド」「セプティマス」など、キャラクターごとの名前を付けておく。キャラクターの名前は、文庫本のカバーの内側などに「登場人物の紹介」があると思うので、そこを参照する。途中でどれが誰だかわからなくならないようにメモをしたほうがいいかもしれない。ということで、準備ができたら、ボードゲーム版『ダロウェイ夫人』のスタート。

※ゲームの進め方:『ダロウェイ夫人』を読みながら、キャラクターを地図上に動かしていく。なお、駒と駒が盤上で出会っても、これは好戦的RPG系ゲームとは異なり、いたって文学的・友好的なゲームなので、キャラクター同士を勝手に戦わせてはいけない。

  1. 10時過ぎ、花を買いに行く「クラリッサ」は、偶然「ヒュー・ウィットブレッド」に出会う。これはセント・ジェイムズ公園でのことだから、二人の駒をこの公園に進める。
  2. 次に、「クラリッサ」の駒をボンド・ストリートに進める。そして彼女が花を買っているとき、自動車の破裂音が鳴り響くのだが、ちょうど「セプティマス」も偶然その場に居合わせるので、彼の駒もそこに置く。
  3. 「クラリッサ」はウェストミンスターの自宅に戻るが(駒を戻す)、そこへ11時に「ピーター・ウォルシュ」が訪れる(駒を一緒に置く)。
  4. 11時30分、「ピーター」はダロウェイ家を出る。次のように駒を移動させること。ホワイトホール→トラファルガー広場→ヘイマーケット→ピカデリー・サーカス→リージェント・ストリート→グレイト・ポートランド・ストリート→リージェント公園
  5. 11時45分、リージェント公園で「セプティマス」と彼の妻は「ピーター」と偶然すれ違う。(二人の駒が通過する。)「ピーター」はそのまま公園で昼寝。「セプティマス」の駒はハーリー・ストリートの精神医のほうへ動かす。
  6. 13時30分、ブルック・ストリートのミリセント・ブルートン宅にて、「リチャード」と上述の「ヒュー・ウィットブレッド」はその日たまたま昼食をとることになっている。(駒を動かす)
  7. 昼食は終了し、「リチャード」の駒をコンディット・ストリートの宝石店を経由して、グリーン・パークを横切り、ウェストミンスターの自宅へ戻す(15時)。その後、「リチャード」は議会の委員会に参加のためまた外出。
  8. 15時30分「エリザベス」、ミス・キルマンと近くのデパートへ外出。その後、「エリザベス」は一人でバスに乗ってセント・ポール寺院のほうまで行き、また戻ってくる。
  9. ハーリー・ストリートの精神医から戻っていた「セプティマス」は、ブルームズベリーの自宅で自殺する
  10. 自殺した「セプティマス」を運ぶ救急車の鐘の音を偶然聞きながら、「ピーター」はブルームズベリーの宿に戻る。そしてそのホテルで夕食を済ませて、ウェストミンスターのダロウェイ家のパーティーへ向かう。
  11. 死んだ「セプティマス」を除く全ての駒を、パーティーが行われているダロウェイ家に集める。

 良くも悪くも、キャラクターたちのこういう邂逅の積み重ねによってストーリーは進む。ロンドン中心地に散らばるキャラクターたち。ボードゲームの盤上を駒はあれこれ勝手に動きながら、偶然的な出会いを繰り返す(戦ってはいけない)。でも、一期一会ではない。お気付きのとおり、最後にみんなダロウェイ家に集合して、この小説&ゲームは終わる。こんな展開にはどういう意図があるのだろうか。参考までに、クラリッサはこんなことを言う:

誰それがサウス・ケンジントンにいる。べつの誰かがベイズウォーターにいる。また別の誰かがメイフェアにいる。わたしはたえずその人たちの存在を意識しつづけている。そしてなんてむだなことか、なんて残念なことかと感じる。その人たちを一緒に集められたらどんなに素晴らしいだろう。だからわたしは実行に移すのだ。(p.218

ここで僕は、ヴァージニア・ウルフの別の小説『灯台へ』を思い出す。この本の第一部では、ラムジー夫人が、別荘で思い思いに(ばらばらに)休暇を過ごす登場人物たちを一つにまとめあげる機会として、晩餐会を企画し実行する。例の「牛肉の赤ワイン煮込み」を食する夕食だ。このような晩餐会やパーティーのような「全員集合の場面」は華やかさもあり、小説の中心としてとても効果的なのは確か。でも、ウルフは、どうしてばらばらなキャラクターたちを集合させることにこだわるのだろう。

ボードゲーム解説編

 ところで、普通のボードゲーム(チェスとか将棋)だと、盤上の一番端より外側へ駒を進めることはできない。当たり前だけど、駒は盤より外へ出ることができない。そして、この『ダロウェイ夫人』ボードゲームでも、面白いことに、このロンドン中心部という盤上から外へ出て行くキャラクターが誰もいない。もちろん実際のロンドンはずっと外へと広がっているのに、これはどうしてだろう。このとき、見方を変えて、キャラクターたちがロンドン中心部に閉じ込められていると考えるのはどうだろうか。ロンドンという見えない囲いがあって、それに束縛されているという見方。そしてもし、どうしても、どうしてもロンドンから外へと出たいというのなら…唯一、ボードゲーム盤上から消え去ったキャラクターを見習うしかない…「セプティマス」のように、窓から身を投げ出さなければならない。
 また、このゲームの駒を分類すると、「ピーター・ウォルシュ」と「セプティマス」は、ロンドン在住のキャラクターではなく、最近ロンドン外からやってきた人物であることがわかる。もちろん、かつては二人ともロンドンに住んでいたりしたが、ピーターはインドから戻ってきたわけだし、そしてセプティマスはイタリアの戦地から戻ってきたところ。「リチャード」や「ヒュー・ウィットブレッド」といった純粋培養のイギリス住民・ロンドン住民とは異なる経歴を持つ。ましてや、リチャードやヒューは、ビッグ・ベンが象徴するようなイギリスという国家に関係する仕事をしているから、大英帝国の首都ロンドンが居心地悪いはずがない。一方、ピーターやセプティマスには、こういうイギリスとかロンドンとかいうものがうんざりとして、息苦しいものに感じられてしまうのだ。実際、セプティマスはホームズやブラッドショーといったイギリス的で想像力欠如の医師たちに反発する。また、ピーターは、クラリッサの家を訪ねた際、イギリス権力の象徴であるビッグ・ベンの大音量のせいで、会話を邪魔されてしまう。
 もう一人、反ロンドン的なキャラクター、サリー・シートンもいる。彼女もまたロンドンにずっと住んでいるのではなく、マンチェスターの富豪と結婚し豊かな生活を送っていて、今回たまたまロンドンに滞在していたという設定。
 かつて何十年も前のブアトン(理想郷のように描かれる)では、このサリーとピーターが、クラリッサとともに三角関係のような間柄だった。そしてリチャードがそこに登場してくると、クラリッサは極端に言えば、ピーターを取るか、サリーを取るか(結婚ではなく同性愛関係だけれども)、それともリチャードを取るか、というような選択の局面を迎える。結局クラリッサはリチャードを選び、彼は現在、国会議員としてイギリスという国家に関わる仕事に携わっている。ピーターはその後インドへと、つまり、イギリスという国家の中心とは離れたところへと去った。そしてサリーもまたマンチェスターに暮らし、ロンドンを中心とするイギリスの国家権力とは離れたところにいる。こういう結果から見てみると、リチャードを愛の対象として選択したクラリッサは、言い換えれば、イギリス、ロンドン、そしてビッグ・ベンに象徴されるようなもの選んだということだ。そして実際彼女は、ウェストミンスターという、この鐘のまさにお膝元に居を構えている。
 ところがこのクラリッサの選択の結果は、現在の彼女のベッドに暗示されている――ベッドは屋根裏部屋にあり、一人用の小さな狭いもので、いつもシーツはピンと張り、きれいなまま。(p.60)まあ、要するに、リチャードとはもはや愛を交わすような生活がなされていないということだ。もちろんこの小説にはどこを読んでみても、ピーター・ウォルシュと結婚したかったとか、サリー・シートンがうらやましいとか、書かれていない。逆に、ピーターは女性関係が駄目だとか、サリーは社会階層が下の人間と結婚してちょっとね、みたいな、非難めいたコメントが直接・間接に書いてあったりする。サリーに男の子が五人いるという豊穣さを見せつけられても、クラリッサは素直にうらやましいと思わずに、あいかわらずの自己顕示欲だな、という反応をする。でも、今でも好きな人がいて、恋をしているなんていうピーターともし結婚していたら、屋根裏部屋の狭いベッドで、シーツがきれいなまま、なんてことはなかったかもしれない。クラリッサもそれはわかっているはずだ。
 僕は『ダロウェイ夫人』は、彼女がリチャードを結婚していることを見つめなおし、ロンドン異分子であるピーターとサリーの二人の、イギリス的束縛を越えた自由な生活をどこかうらやましく感じている…そういう小説なのだと思う。イギリス的束縛からの解放というのは、まあ、端的に言えば、常にビッグ・ベンの聞こえるような生活から逃れることだろう。ロンドンという閉ざされたボードゲームの盤上から脱出すること、これがクラリッサの理想なのだと思うけど。だからこそ、クラリッサは見たことも会ったこともないセプティマスに――自殺という行為でロンドン脱出に成功したセプティマスに、妙な共感を覚えるのだ。
 でも、ロンドンという枠組みにがっちりと取り込まれているクラリッサには、実際のところピーターと生活したり、サリーのように豊穣な女性として生きていったりできる可能性がない。『ダロウェイ夫人』のクラリッサや、『灯台へ』のラムジー夫人がパーティーや晩餐会なんかの会合にこだわるのは、彼女たちの女性性が、もはや「女」という面でも「母」という面でもあまり充足されることがなく(ラムジー夫人は母性的だが、クラリッサには母親らしい面がほとんど描かれない)、こういう会合で、普段ばらばらに散ったキャラクターたちを集合させる力量があるという意味での「女主人(ホステス)」としてしか自己満足できないからではないだろう。「女」や「母」という面で充足されることがなかったという点は、ヴァージニア・ウルフの実生活に重なってくる事実でもある。

結語

 「タイセイの書くことは悪化しているね。あなたの言うとおり」と、ある読者は言った。「行って話してくる。お別れもしなくちゃ。せめて毎週書いて更新しなきゃ」と彼女は立ち上がりながら言った。「ブログなんてお話しにならないのよ。」
 「僕も行くよ」と、もう一人の読者も言ったが、ちょっとのあいだそのままディスプレイを見つめていた。このぞっとする感じはなんだろう。この恍惚感は? 彼は心の中で思った。おれを異様な興奮で満たすのはいったい何なんだ?
 更新だ、と彼は言った。
 なぜなら、今日やっと更新された。

 英詩は読者を獲得するか

阿部公彦『英詩のわかり方』(研究社、2007年3月)
小林章夫『イギリスの詩を読んでみよう』(NHK出版、2007年7月)

バッハの楽譜

 いつも昔の話ばかりで恐縮してしまうが、中学生や高校生の頃、一人で東京に出てくる機会があるとだいたい銀座に向かった。僕が十代にして銀座をぶらつくような、そんなお洒落な中高生だったとか誤解してはいけない。茨城の田舎町の楽器屋さんでは手に入らない品物、つまりいろいろな楽譜が見てみたくて、銀座のヤマハ楽器や山野楽器を機会のあるごとに訪れたのだ。当時はとくにバッハのピアノやオルガン曲の楽譜が気になった。楽譜を眺めることは、解読できない古代文字を眺めることに似ていると僕は思う。何かすごいことが書いてあるに違いない。でも、楽譜をじっと見つめていたって、僕みたいな凡才には、そうたいして音が鳴り響いてくるわけではない。では、何が楽しいのか。それは何よりもその並んだ音符の美しさだった。この美にひたるだけでも、楽譜は見る価値があると思った。

 楽譜の見てくれが美しいって、どういうこと?といぶかしく感じる方には、ぜひバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」の楽譜を手にしてほしいと思う。それも、せっかくなら、バッハの自筆譜を*1。ヴァイオリンたった一本だけで、こんな宇宙的な広がりを持つ(と言っても過言ではないと思う)音楽の世界が出来上がってしまうのだが、このものすごさが、楽譜の見た目にも歴然と現れていると思うのだけど、どうだろう。

 それと、ああいいなあと思う曲を聴くと、僕は楽譜が見たくなる。バッハには「平均律クラヴィーア曲集」というピアノ(というか、当時ピアノはまだ開発段階で、「クラヴィーア」という鍵盤楽器があった)のための楽曲があるが、僕はこれがとても気に入っている。とくに第一巻の第八番、嬰ニ短調のフーガ。このフーガの主題はとくにしんみりと心に響く。僕はこういう、ちょっとノスタルジックとでも言うのだろうか、日本古来の言い方でいう「わび」みたいな響きのある曲が好きだ。このテーマは当然幾度も繰り返されるが、時には反行形(主題の音階の上り下りがひっくり返されたもの)や、拡大形(主題の音形が倍の長さに引き伸ばされて演奏される)までもが登場するという、バッハらしい大変凝った作りにもなっている。

 このフーガは高揚感とともに幕を閉じ、僕はそのたびに、なんていい音楽なんだろうと思う。この音楽の持つ神秘的とも言える力いったいどこにあるのだろう。楽譜を見てみればその答えが書いてあるだろうか。そう思って僕は楽器屋さんに行き、楽譜を手に取ってみる。*2ところが、楽譜をじっと見つめても、この曲のしんみりとした風情と不思議な神秘的風格はよくわからない。楽譜は何も語ってこないのだ。言うまでもなく、楽譜の見た目は相変わらず美しい。バッハの楽譜は、たぶんポリフォニー(多声音楽)で書かれているせいだと思うが、とにかく見た目が、美しい複雑さを備えている。この曲は嬰ニ短調なので、楽譜にシャープが六つもついていて、弾くのがちょっと大変そうだが、三声なので僕でも練習すれば演奏できるかもしれない。それとシャープが六つもつく調声は、普段の気軽に演奏する音楽にはあんまりないから、こういう調声の希少性が、音楽の響きを美しく感じさせるのかもしれない。また、楽譜を読みながらCDを聴けば、どこが反行形でどこが拡大形かは歴然とわかる。

 しかしながら、わかるのはここまでだ。音楽は楽譜のとおりに演奏される。でも、この曲がどうしてこんなにも僕の心の琴線に触れるのか、その答えは楽譜を見てもどこにも書いていない。楽譜が相対すれば、音符がどのように配置されてこの曲ができあがっているのか、楽曲の分析はできる。でも、僕の本当に知りたいこと――どうしてこんなに「いい曲」なのか――には、どんなに楽譜の分析を重ねても、答えは出てきそうにもない。

英詩の時代?

 ところで、詩を読むことは音楽を聴いたり、絵画を鑑賞したりするのに似ている。少なくとも、僕の詩の楽しみかたはそうだ。理屈抜きに、ああ、これはいい詩、とか、これは別にふつうの詩、といった具合に、完全に自分の感性で好き嫌いを感じとっている。いわゆる芸術なるものの楽しみかたは、人によってそれぞれだろうが、詩を読んで「この詩はいい!」と思うとき、そこには面倒な理屈や説明は入り込む余地はなさそうだ。意味もとくに考えず何回か繰り返して読んでみて、ただ好きだと思うから好き、みたいな、感性の問題。

 だから、英語の詩を好きになってみたいという人がいたとき、僕ならこんなふうにアドヴァイスすると思う(助言できるほどの詩に詳しい立場ではないことは、あらかじめ断っておくけど)。まず、ただ詞華集(詩のアンソロジー)を買ってきて、ひとまずざっと読む。その中で、感性の合うものや、気になるものがあったら、それを繰り返し読んでみる。別に日本語の意味なんて完璧にわからなくたっていいじゃん、と思う。詩の英語は、通常の話し言葉ではないのだから、そもそもすっきり意味が通らないように書かれている。日本の短歌や俳句だってそうだ。それよりも、自分の好きなイメージかどうか。理屈抜きに、いいな、と思えるかどうか。そして、そういう詩が見つかったなら、もうそのとき、「英語の詩を好きになる」という目標の第一段階はとりあえず達成したと思うのだけど、どうだろう。これを繰り返せば、好きな詩は少しずつ増えていく。準備した詞華集に好きな詩が見つからなかったら、他の詞華集を当たればよい。好きな詩を見つけるためには、これは好きな音楽や絵を見つけるのと同じなのだから、CD代、コンサートチケット代、あるいは美術館の入場券を支払うように、多少の投資くらいは厭わぬようにしたい。

 今年になって、英詩の一般/初学者向けの本が二冊も発売されている。すわ、英詩の時代到来!?と驚くのは早計というもので、果たしてこれらの本がどのくらい売れるのか、老婆心ながら心配してしまう。発売順に紹介すると、まずは阿部公彦著『英詩のわかり方』。有名な先生によるこの本の、このタイトルこそが内容の傾向をよく示している。つまりこの「わかり方」という日本語。はっきり言って、僕にはとても違和感がある。こういう言い回しは普通しないだろうという理由のほかに、世の中のあれこれの事象が「わかり方」なる書物一冊で「わかって」しまうはずがない、という僕の信念上の理由からも違和感が生じる。極端なタイトルやおかしなタイトルをつけることが、最近の出版界、とくに新書や実用書での流行のようなので(『食い逃げされてもバイトは雇うな』とか)、まあ、ここはよしとしよう。でも、このタイトルが雄弁に語るとおり、ちょっと強引かつ違和感がなくもないような、あまり前例のない詩の入門書だと思ってよい。

 本のタイトルだけではなく、各章にも読者の注目をひきつけるようなユニークなタイトルがつけられている。中でもだんぜん個性的なのは、第二章の「なぜ英詩は声に出して読んではいけないのか」だ。タイトルをそのまま真に受ければ、詩を音読してはいけない、という画期的(!?)なご指導となっている。著者によれば、要するに、健康的な発声という手段によって失われてしまうもの、つまり、著者の言葉でいう「声に出してしまったら壊れてしまうくらい、弱くて、小さいもの」を味わうには、音読はよろしくないからだそうだ。これってどうだろう、本当にそうなのだろうか。この章には、音読のデメリットについての説明に続き、シルヴィア・プラスの詩二編(「レイディ・ラザルス」と「ダディ」)と、テッド・ヒューズの詩が同じく二編(「思考狐」「一撃」)が解説されている。この「レイディ・ラザルス」には印象的な一節がある:

Dying
Is an art, like everything else.

 うーん、いかにもシルヴィア・プラスという感じ。もちろんこの言葉を、エアロビクスをするかのような、わざとらしいくらい満面の笑みをたたえ、大声で読み上げてくださいとは言わない。でも、静かにそっと声を出して読んでみると、黙読するときよりも、じんわりと、ひしひしと、凄みが伝わってくると僕は思うのだけど、どうだろう。あと、同じプラスの「ダディ」で、著者は詩の中で繰り返される[u:]音に注目しているけど、これは声に出さなきゃ体感できないのでは、という点で、主張の矛盾を感じなくもない。

 でも、著者の言いたいことはよくわかる。詩は必ずしも「健康的な」内容ばかりではないということだ。「大きな声で朗読する=健康的な行為」と受け取られることが多い昨今、そのような読み方で声に出されてしまっては、ぶちこわしになってしまう詩だってあるじゃないか、という主張なのだ。声を潜め、耳元でささやくように読まれるべき詩。学校の教室でみんなに聞こえるように読み上げるのではなく、あなただけに語りかける個人的な詩。まあ、別にこういう詩だって音読してはいけないということはないだろうけど、要は読み方の問題。

 さて、もう一冊は小林章夫著『イギリスの詩を読んでみよう』だが、こちらはいたって健康的な一冊。NHK出版のCDブックということで、ラジオで放送された内容がそのままCDに収録されている。まさに音読された詩、ばかり。もちろんCDを聴かずにテキストを読むだけでも内容は理解できるようにはなっているが、せっかく詩の朗読が収録されているのだ、聴いて楽しまない手はない。これを一日約10分かけてCDを聴き、二週間続けると英詩入門コースが完了するのだそうだ。きっとそうなのだろう。僕には確かめようもないが。

 先に紹介した『英詩のわかり方』と際立って対照的な部分、これは「英詩を自分でも朗読する!」という欄に現れている。『英詩のわかり方』では音読するなと書いてあったが、こちらは音読が積極的に勧められている。

特に、CDに収録された詩の優れた朗読を味わい、その抑揚や弱強のリズムをよく聞いて、身体の中にリズムがしみこむまでまねしてくださると、きっと英語の発音やリズムが身につきますし、何よりも楽しい気分になると思います。(p.9)

まったくおっしゃるとおりだし、僕も詩というものは、耳で聴き、声に出して読むべきものだと思う。ただし、ひとつひっかかるところがあって、「楽しい気分になる」という箇所。僕は以前から「楽しむ」という言葉が気になってしまう。長くなってしまうけど、以下は僕の2002年8月4日の日記から*3

実は以前から、「楽しむ」とか「楽しい」という言葉に違和感を感じていた。「楽しく」感じながら何かをする、なんて、そんな、しょっちゅうあることだろうか。人の話すことを聞きながら、「そういうのは、『楽しい』って感じることかな?」とか、疑問を持ってしまうことが、普段からあったりした。


ところが、今日、たまたま『毎日新聞』を読んでいたら、その違和感をうまく指摘するような、同じような意見の記事に出会い、興味深く読んだ。(岩村暢子さんによる「『楽しさ』強調する学生−就職活動に見る価値の変化」)


この意見を書いた岩村さんは、「この会社なら楽しく仕事ができそう」とか、「つまらないゼミ活動を楽しくしました」などと話す就職活動の学生が多いという例を挙げたあと、「どうやらどんな辛いことや、不本意な面白くないことでも『楽しくやれる』こと、『楽しめる』ことは、いま大変価値のある事と考えられているらしい」と分析している。そして、最後に次のように述べる:


「…今は、楽しくやれる事がする価値のあることで、楽しくやる事が正しい取り組み姿勢であるように言われ始めている。反対に、無理して頑張る事は、まるで人間の本性に反する、正しくないことであるかのように言われもするのである。問題は、頑張ってやるか楽しくやるかではなく、その目的であったはずだ」

今になって読み返してみても、ここに書いた僕の気分は変わっていない。だから今回の本について言えば、詩って、楽しい気分になるためのものですか、と訊きたい。詩人は読者を楽しませるために詩を書くのか。もちろん、そういう詩もあるけど、実際にはいろいろな詩がある。『イギリスの詩を読んでみよう』に収められた詩だって、楽しいものばかりではない。もしこの本のエミリー・ブロンテ作「Spellbound」を読んで、なんだか楽しい気分になってきてしまったら、それはあなたにちょっと何かまずいことが起こっていると考えたほうがいい。ということで、世の中が「楽しい」ことを至上とする風潮はよくわかるが、この価値観は詩にはあてはまらない。

 あと、この手の本ではシェイクスピアの『ソネット集』が必ず取り上げられている。
 すると、何の予備知識もない(と想定される)一般読者に対し、男性たる作者シェイクスピアが、若き男性に語る恋愛の感情を、どのように説明したらいいかという問題が生じる。この点で『英詩のわかり方』は率直で良い。「シェイクスピアの『ソネット集』の最大の特質は、同じ恋愛でも、それが男から女に向けたものではなく、男から男に向けた感情として表現されているという点です。当然ながらこうした設定は語り手のホモセクシュアリティを連想させます。」(p.24)
 一方、『イギリスの詩を読んでみよう』では、これがなんだか逃げているような説明になっている。「恋愛詩であるソネットですが、すでに述べたようにこのソネットを捧げた相手は美しい青年であることを思い出すと、いったいそこにはどのような感情が含まれていたのか、さまざまな想像を引き起こすかもしれません。ただし、もちろん作者はシェイクスピアですが、このソネットの語り手はあくまで彼がつくりあげた人物ですので、これを作者と同一視することは避けるべきでしょう。」(p.89)そうかなあ…「さまざまな想像を引き起こす」ことこそ、詩の大切な要素だと思うのだけど。それをこのように制限してしまうのは、ちょっとどうなのだろう。まあ、何といっても出版元はNHKだから、無難にまとめざるをえないのかもしれない。

分析を超えて

 あれこれ書いたけど、『英詩のわかり方』も『イギリスの詩を読んでみよう』も親切な本だと思う。アイアンビック・ペンタミター(カタカナで書くとちょっとまぬけだ)などのリズムのことも、韻を踏むことも、ちゃんと説明されている。有名な詩を取り上げて分析を試み、どういう技法があって、どんなふうに味わうべきか、その方向性がわかりやすく記述されている。でも…やっぱり、でも、なのだ。これは、高校生の僕が、バッハの楽譜をじっと眺めて分析しても、到達できない「何か」があるのと同じ。この楽曲にはAという技法、Bという技法、そしてCという技法が使われている。分析はこれで終わり。でも、その音楽が僕の心を打つ理由は、A+B+Cという技法の総和では説明できない。さらに「何か」がある。だから、親切な本ではあるけど、こういう本を読んで詩の技法をどんなに説明されても、詩は僕たちの手からするりと逃げてしまう。理屈を超えたどこかへと。

*1:ということで、自筆譜を見てみてください。「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ第一番の冒頭「アダージョ」BWV1001→ http://www.jsbach.net/images/bwv1001-adagio.html 

*2:多くのバッハの楽譜はインターネット上で閲覧することができます。「平均律クラヴィーア曲集第一巻」の第八番のフーガの楽譜はこちら(pdfファイルです→ http://icking-music-archive.org/scores/bach/bwv846/bwv853b.pdf 

*3:この日記の全文は、http://www.geocities.jp/yoshimuralondon/diary13.htmのページの中に出てきます。昔の日記なので紹介するのが恥ずかしくはありますが。

 アンガス・ウィルソン 『悪い仲間』

工藤昭雄・鈴木寧訳、白水社、1968)
〔Angus Wilson The Wrong Set and Other Stories 1949〕

幸運なデビュー

 アンガス・ウィルソンは戦後イギリスで最も敬意を集めていた作家の一人だった。今回取り上げた彼の処女短編集『悪い仲間』が書かれた経緯は(これはウィルソンが作家になった経緯でもあるのだが)、この本の「解説」を含めいろいろなところで紹介されているが、現在三十三歳である僕にはなかなか印象的。

 ウィルソンは第二次世界大戦中、イギリス外務省に勤務していたが、おそらくそこでの仕事で精神的にマイってしまい、そして戦後は大英博物館での勤務に復帰したものの、やっぱり気分はすぐれなかった。そこであくまでも気分転換のために、仕事のない週末を利用して短編小説を書き始めたのだった。これが1946年の11月のある日曜日のことで、最初に書き上げたのが「木いちごジャム」、そしてそれから十二週連続で毎週一作ずつ書き上げた。このときウィルソンは三十三歳。これはつまり、誰かの年齢と一緒なわけだ。

 それ以前に小説を書こうなんて考えたこともなく、あくまでも趣味として始めた執筆だったが、あるときこの短編のいくつかが友人の手を経てシリル・コノリーの手に渡り、その中の二つ(「おふくろのユーモア感覚」「変わり者ぞろい」)が彼の雑誌Horizonに掲載された*1。さらに出版社に勤める友人から、もしその原稿をくれれば出版してあげるという話があって、これら十二作の作品を出版したものが、この『悪い仲間』という短編集。短編集なんて売れないからね、と出版社の友人には言われていたが、『悪い仲間』はなんとイギリスとアメリカで異例の大成功を収めてしまった。これが1949年のこと。その後、ウィルソンは四十二歳までは大英博物館に勤務しながら著作を続けた。

 ということで、今回読んだ『悪い仲間』という十二の短編を集めたこの本は、あくまでも趣味として、仕事の片手間に書いたもの。それも、それぞれ週末に一作のペースで(ということは三ヶ月だ)書き上げられたもの。何度も出版社に断られ、苦労のあげくやっと出版にこぎつける…というような作家が巷には多いが、こんなふうに幸運と、そしてもちろん才能に恵まれて出来上がった短編集。そして、この本を僕もまた手に取り、翻訳でも味わえるという幸せ。

異質な人々

 週末に一編ずつ書きためられたウィルソンの短編小説。同じような場面設定の小説はひとつとしてなくて、作家の想像力の幅の広さを感じ取ることができる一方、矛盾しているようだが、中流階級の人々が登場してあれやこれやしゃべりだす…みたいな点では、みんな同じような内容の作品のように思えなくもない。いずれにしても、趣味や気分転換のために書いたとは思えない完成度の高さ。そんなにドラマチックな内容ではないものも多いので、なんとなくざっと読んでしまうと、つまらないかもしれない(仕事帰りの電車の中で読んでいて、眠くなってしまうものもあった)。でも、僕たちもまた少々の想像力を働かして(1930年代から第二次世界大戦頃のイギリス社会という時代背景)、そして、ちょっと落ち着いた場所でじっくり読んでみる。すると、この短編集の味わい深さがじわじわとわかってくる。

 まず、ウィルソンが、異質な人々、つまり、中流階級的な価値観から逸脱してしまう人々を頻繁に登場させているところが気になった。もちろんこういう特異な人々を描かないことには、短編小説のストーリーが動き出さないという構造的な要求もあるのだろう。それに「変わり者」を描くのは、ユーモアという点でも効果がある。でもむしろ僕は、ウィルソン自身がある程度、こういう「ふつうの人々」的な価値観から外れてしまっていたのではないのか、だからこういうふうに頻繁に描き出すのではないか、と想像してしまう。彼も本来なら、他の人たちと同じように外務省や大英博物館でつつがなく仕事を続けていくはずなのだ。日本のサラリーマンだって同じ。会社にはみんな多かれ少なかれうんざりしているかもしれない。毎日毎日仕事。でも仕事ってこういうものなんだし…と理解して、別に疑いもせず通勤電車に乗り込む。というか、これを疑い出してしまうと会社に行けなくなってしまう。でもきっとウィルソンは、こういうサラリーマン的な仕事のスタイルに何か疑問を感じてしまったに違いない。みんなが当たり前と思うことに、「?」を感じたのだろう。だからこそ作品にも、ちょっとふつうではない(というか、かなりふつうではない)人々が登場してきてしまう。

 「涼風をいれろ」のミランダ・サール。彼女は「人びとから気違いだと思われていたし、彼らの中流階級的な規準から判断するなら、もちろんそのとおりだった」(p.11)というキャラクター。そして圧巻は「きいちごジャム」に登場するメアリアンとドリーのスウィンテイル姉妹。この作品で、主人公の少年ジョニーは二人の老嬢姉妹の住む家に遊びに行くのだが、最後はびっくりするような、というか、かなり残忍な結末が待っている。きいちごジャムとはつまり、ラズベリージャムのこと。真っ赤なジャム。この経験の後、ジョニーは家で出されたラズベリージャムに対しても悲鳴を上げてしまう。現代詩人シェイマス・ヒーニーに、きいちご摘みを描いたよく知られた詩があるのだけど、僕はその一節を思い出した…「Our hands were peppered / With thorn pricks, our palms sticky as Bluebeard’s.」…ただし、このきいちごはラズベリーではなくて、ブラックベリーだけど*2

 短編「変わり者ぞろい」で、アンガス・ウィルソンは登場人物の一人に「とにかく、現代の社会で人間の尊厳をつらぬく唯一の道は、気違いじみた人間と呼ばれることだと僕は思うね」(p.152)と語らせている。このコメントをウィルソンの本意として真に受ける必要はない。ただし、こういう「変わり者たち」に対する微妙な好意が匂ってくるのも否定できない。

 このほかに、仲違いしそうになってしまった夫婦やカップルが、またよりを戻す経緯を描く短編もいくつかみられる。少なくとも「底抜けパーティー」や「変わり者ぞろい」、「贈り物をされても」を読むと、そういうストーリーが描かれている。好きだとか嫌いだとかいった人間の気持ちの微妙な変化を、上手に、読者にも納得できるように描写する作家はあまり多くない。夫婦やカップルの心理描写といえば僕はマーガレット・ドラブルを思い出すが、アンガス・ウィルソンのこれらの作品はドラブルの作品と感じがよく似ていると思う。実際のところ、ドラブルは1995年にAngus Wilson: A Biographyという伝記を発表しているくらいなので、ウィルソンには相当の親近感を持っていたのだろうと思うが、この伝記も読んでみたことがないし、二人の具体的な共通点はもっと調べてみないとわからない。

 あと、「一族再会」という作品もコメントを残しておきたい。これは、食事の場面がとてもよく描かれていると思ったから。先日、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』を読んで以来、小説の中でみんなが集まってご飯を食べる場面が個人的にはとても気になっている。この「一族再会」での食事風景は、ウルフの作品のように「お上品なディナー」ではなくて、なんともくつろいだ、ちょっと下品な発言もあったりする楽しい食事会を描いている。でも、『灯台へ』のディナーと一緒で、供されるご飯はなんだかとてもおいしそうだし、食事が一段落すると歌が披露されたりして(『灯台へ』はお上品なので詩の吟詠)、人々はみな和やかにうちとけていく。まさに「饗宴の親和力」。

絶賛

 アンガス・ウィルソンという作家は、僕がいろんな本を渉猟して、彼についてのコメントに遭遇すると、だいたいいつも絶賛されている。たとえば、バーナード・バーゴンジーの『現代小説の世界』では「ウィルソンは稀に見るすぐれた知性、該博な知識、鋭い感受性をもった作家である」と述べられているし、そのあとに、あのB.S.ジョンソンもが、アンガス・ウィルソンを「非常にすぐれた作家」だと語ったことが記されている。ただしもちろんB.S.ジョンソンのことだから、ウィルソンの実際の小説手法については評価していないけれど。*3

 1960年代の人々の声では、ちょっと古いかもしれない。他の本では、ウィルソンの死後にも彼を評価する声が見つかる。丸谷才一さんが編者となった『ロンドンで本を読む』というタイトルの、イギリスの新聞・雑誌での書評をまとめた本がある(マガジンハウス、2001)。これはとてもおすすめの本で、興味深い一冊なのだけど、この中にアントニー・バージェスがアンガス・ウィルソンについて書いた評(「いつも慎重だった男」というタイトル)も収められている。このバージェスによればウィルソンの作品は「どの小説も初めて発表されたころにはまず例外なく、彼の新作なら古典なみに質の高い作品にちがいないぞと熱烈な期待をあつめていた。だのにもう今や誰も読まなくなり、彼よりずっと低級なグレアム・グリーンあたりが人気を呼んでいる」(p.85)のだそうだ。なるほど。

 ということで、今後の読書の方向が見えてくる。今回はウィルソンのデビュー作を読んでみた。これをステップに、次は長編小説を読んでみよう。戦後イギリス作家の作品は翻訳されていないものも多いが、絶版ばかりとはいえ、ウィルソンにはいくつかまだ入手可能な作品がある。

*1:これとは別に、短編「実力主義」もThe Listener誌に掲載された。それにしてもこういうThe ListenerBBCの出版していた雑誌。多くの文壇の実力者が寄稿し、またその後の有名作家や有名詩人の登竜門ともなった)とかHorizonとかいう、ちゃんとした雑誌に掲載されたのもウィルソンの幸運と実力だと思う。

*2:Seamus Heaney 「Blackberry-Picking」

*3:鈴木幸夫、紺野耕一訳、研究社(1975)のうちp.224-225

 アントニー・バージェス 『エンダビー氏の内側』

(出淵博訳、早川書房1982)
〔Anthony Burgess Inside Mr. Enderby (1963)〕

 ローマ。僕にとってのローマ。昔から古代ローマに興味があり、塩野七生さんの本も愛読したので、あの街に残された遺跡を巡って過去の追憶にひたるべく、また訪れてみたいなという気持ちもある。一方で、実際に旅した際には、二度ともかなり疲れて、とにかくうんざりしたという記憶もあって、僕のなかでは愛憎半ばするなんとも微妙な永遠の都。イギリスから向かうと、ヒースローの穏やかな日差しとはうってかわって、フィウミチーノ空港に差し込む強烈な太陽光線。とてもまぶしい。そして大きな車体のレオナルド・エクスプレスに乗り込み、何やらゴトゴトと三十分ばかし揺られていくと、やがて線路がたくさん分岐し、「ROMA −TERMINI」という表示が見えてくる。「テルミニ」という意味深い駅名を見ると、ああローマに来てしまったんだな…と実感がわく。

 地下鉄は細かく走っているわけでもないし、バスはよくわからないし…ということで、一人旅のローマ観光ではたくさん歩く羽目に陥る。テルミニ駅の空港エクスプレス到着ホームは、こういう旅行者の健脚を期待してか、あるいはローマ滞在中の健脚の必要性をあらかじめ認識させるためか、なぜか駅の一番端の遠くにある。出口まではスーツケースをガラガラいわせながら長いこと歩かなければならない。いったん市内に出ると、今度はあの日差しを浴びてとても暑いし、空気が乾いているので爽やかだけど喉がやたらに渇く。そして何よりも、ロンドンのように安全な街ではないとわかっているから、別に緊張しまくっているわけではないけど、やっぱり多少は意識して行動することになる。これも疲労の一因。

 こんな具合で、ローマというのは僕にとってもどっちつかずの印象なので、新婚旅行にこの街を訪れた二人の関係が微妙にギクシャクし始める小説を読んでも、まあ、さもありなんと思う。『ミドルマーチ』(ジョージ・エリオット)のドロシア・ブルックとエドワード・カソーボンの新婚旅行。そして『夏の鳥かご』(マーガレット・ドラブル)のルイズ・ベネットとスティーヴン・ハリファクスの新婚旅行。かつて「成田離婚」という言葉もあったように、そもそもお互いの勝手をよく知らない状態で旅に出るのだから、パートナーについて良くも悪くもいろいろ発見があるわけだ。そして今回読んでいるアントニー・バージェス作『エンダビー氏の内側』のヴェスタ・ベインブリッジとフランシス・エンダビーの新婚旅行先もローマで、案の定、二人の関係は狂い始めてしまう。

 『エンダビー氏の内側』はあえてジャンル分けするとしたら間違いなくコミックノベル。主人公のエンダビーは四十歳代半ば。とても容姿端麗とはいえないコミカルなキャラクター。胃腸の具合が悪く、いつもお腹がグルグル言っている(バージェスの表現を使えば「ブルルルブルルルプクルルルク」とか)。職業は詩人で、詩集もこれまでに少し出版しているがとても売れっ子とは言えない。ただし、エンダビーの書く詩は(つまりバージェスが作っている詩ということだが)これがなかなか絶妙に面白い。こういう部分は翻訳だと十分に楽しめないから、英語でも読んでみたいなと思ってしまう。なかでも第一章の最後で完成する詩(「プルーデンス!プルーデンス!…」)は、それ自体もなかなか面白いし、さらにその後のストーリーの内容を予感させる詩にもなっていて、たんなる小説内のおまけとか遊びではなく、プロットの構成上でも意味があるというとても凝ったもの。さすがはバージェス。

 エンダビーが友人から依頼されていた愛の詩を、間違って女性誌編集長のヴェスタ・ベインブリッジに送ってしまったことから、エンダビーはヴェスタと結婚することになってしまう。そしてその新婚旅行先がローマだった。乗車したはいいが降りる段になると、料金メーターが壊れていて、表示されるマイル数が少なすぎると不平を言う運転手。こういうローマの人々のうさんくさい遣り方にいい加減うんざりしたエンダビーは「逆らわず、記録されている料金より五百リラ多く支払い、『この下司野郎』と英語でののしった。ローマ。ああなんと愛すべき国であることか、このローマは。」(p.198)エンダビーはこんなイタリア的なやり方にうんざりする一方、新妻ヴェスタの考えるやり方に、騙されるようにしてどんどん押し込められてしまう。カトリックは嫌いなのにいやいやローマ法王の別荘での集会に連れていかれたり、カトリック教会での神前結婚式を強引に挙げさせられそうになったりする。そしてほとほと嫌気のさしたエンダビーはついに彼女から逃げ出し、一人でイギリスへ帰ってしまう。

 さらにこの結婚の結果、エンダビーから詩の才能(女神ミューズ)が消え去ってしまい、どうしても詩が思い浮かばなくないという最悪の事態に陥る。財産も失い、詩才も失ったエンダビーは絶望して睡眠薬で自殺を試みるが一命をとりとめ、新たにピギー・ホギーという名前でバーテンダーとして再起を図るという話になって、この小説は終わる。バージェスはこのエンダビーというキャラクターをどうやら気に入ったようで、さらにこの後、『エンダビーの外側(Enderby Outside)』(1968)、『時計仕掛けの遺言、あるいはエンダビーの最後(The Clockwork Testament, or Enderby’s End)』(1974)、『エンダビーのダークレディー、あるいはエンダビーの不滅(Enderby’s Dark Lady, or No End of Enderby)』(1984)と続編が並ぶ。第一作目の調子だと、続編も間違いなく面白いはずだが、残念ながら翻訳はない。今回紹介した『エンダビーの内側』は、早川書房の「バージェス選集」全九巻のうちの一冊で(「7−1」となっている)、実を言うと、この選集の予告では『外なるエンダビー』(「7−2」となるはずのもの)も発売されることが決定していたようだ。訳者あとがきにも「それでは、『外なるエンダビー』でまたお目にかかろう」と書いてあったりする。でも、結局出版されなかったみたいで、いろいろ調べても発売された形跡はない。どうなってしまったのだろう。*1

 「小説というものと、その可能性についての再発見がちょうどその頃〔1960年代〕に起こっていたのだということができる。リアリズムについてはウィルソンとファウルズが、ジェンダーユートピアに関してはレッシングが、キャラクターと美学哲学についてはマードックとスパークが、フィクションにおける言語と比喩(trope)の技法についてはバージェスが、それぞれ試みを始めていた。」*2ブラッドベリもこのように書いているが、バージェスは言葉をあれこれ操ることにとても長けていて、例えば代表作『時計仕掛けのオレンジ』でも、あのロシア語と英語スラングの入り混じった「ナッドサット」を創作して小説を展開する。今回の『エンダビー氏の内側』では、バージェスの言葉遊びという観点で読むとすれば、彼の詩の技量の豊かさが楽しみどころだろう。これにプラスして、ベタなコミック小説の要素も満載なので(パブで老人たちがすれ違いがちな会話を続ける場面や、笑えるスプーナリズムなど)、素直に楽しく読める本だと思う。エンダビー氏の運命が若干哀れに思われなくはないが、こういう展開もコミックノベルらしいといえば、まあそういうものか。

 話は戻って、ローマ。この都市のいったい何が登場人物たちを狂わしてしまうのだろうか。古代ローマから綿々と打ち続く歴史がいけないのだろうか。あるいはカトリックの総本山という宗教的な面か。『ミドルマーチ』も『夏の鳥かご』も、そして『エンダビー氏の内側』でも、ローマの持つこういう歴史と宗教が、直接・間接に登場人物に影響を与えているのは間違いない。さらにローマに限らず、範囲を広げて「イタリア」として考えてみれば、登場人物がイタリアを訪れたせいで、歯車が狂いだしてしまう小説を他にも思いつく。今すぐ思い出せるものだと、E.M.フォースターの『天使も踏むのを恐れるところ』とか、トーマス・マンの『ベニスに死す』とか。小説の登場人物をも狂わしてしまう危険な影響力こそがイタリアの魅力、なのだろうか。そして、僕もまた、たまには狂わされに訪れたい気持ちがあるような、ないような…。

*1:さらに、この選集では『熊にハチミツ(Honey for the Bears)』も刊行される予定だったが、出版されていない。

*2:Malcolm Bradbury The Modern British Novel 1878-2001 (Penguin, 2001) p .411

 アイリス・マードック 『天使たちの時』

(石田幸太郎訳、筑摩書房1968)
〔Iris Murdoch The Time of the Angels 1966〕

架空の書物

 今回取り上げるアイリス・マードックとはあまり関係ないけど、まずはスタニスワフ・レム(1921-2006)の話。彼のSF作品の中にはときどき架空の書物名が出てくるのだが、僕はレムのこういうブッキッシュなところが好きだ。有名な『ソラリス』(1961)は、主人公が不思議な惑星ソラリスを訪れ、その基地を拠点にこの惑星を調査するというSFなのだが、この基地には図書室が設けられている。そしてケルヴィンは(これが主人公の名前なのだが)この図書室を幾度か訪れて、『ソラリス研究の十年』(ギーゼ著)とか、『ソラリス学入門』(ムンティウス著)などという書物を読むことになる。ギーゼとかムンティウスという著作者はもちろんレムの創作。レムの他のSF作品にもこうした架空の書物は頻出し、そしてレムのこうしたメタフィクション的傾向は、二大大作『完全な真空』(架空の書物についての書評集)と『虚数』(架空の書物についての序文集)に結晶化される。フィクションがフィクションについて語るという、僕にはたまらないおもしろさ。

 レムや、あと有名なボルヘスホルヘ・ルイス・ボルヘス、1899-1986)などはこういう意味でのメタフィクション傾向が顕著だけれども、架空の書物が小説の中に出てくるのは、実はごくごく当たり前に見られる現象だったりする。最近このブログで取り上げた小説を振り返ってみると:

ロレンス・ダレル 『アレキサンドリア四重奏I ジュスティーヌ』
→ジャコブ・アルノーティ(Jacob Arnauti)作『風俗(ムール、Moeurs)』、他に小説家のパースウォーデンというキャラクターが登場し小説を書いていることになっている

ジョージ・エリオット 『ミドルマーチ』
エドワード・カソーボン(Edward Casaubon)による未完の『神話学大全』(the Key to all Mythologies)、他にフレッド・ヴィンシーの『緑野菜の栽培と家畜飼育の経済について』など

ヴァージニア・ウルフ 『灯台へ
→明確なタイトルは明示されなかったと思うが、ラムジー氏(Mr. Ramsay)は若い頃から最近まで、折々に哲学的著作を発表している

マーガレット・ドラブル 『夏の鳥かご』
→主人公のサラー・ベネットは「キングズリー・エイミスの『ラッキー・ジム』みたいな小説を書きたい」と思っていて、それを今まさに書いているという設定

■J.M.クッツェー 『夷狄を待ちながら』
→主人公の「私」は、民政官として暮らす辺境の町の歴史書を執筆しようと考える

■A.S.バイアット 『ゲーム』
→妹のジュリア・コーベットは小説家で、彼女の最新作『栄光の感覚』は姉のカサンドラ・コーベットを自殺に追いやってしまう

 タイトルがはっきり書かれて出版されたという体裁になっている場合もあれば、書物を著そうという意思だけだったり、書き始めたが未完に終わってしまったり、なんて場合もある。しかしそれにしても、小説の登場人物たちは、どうしてこんなに本を書きたがるのだろうと僕は不思議に思う。小説家というのは、自分の職業、つまり、本を書く仕事についてはよく知っているわけだから、他の職業よりも描写しやすいのかもしれない。また、本を書くという行為自体への作者の思い入れが強く反映して、こういう結果になるのかもしれない。でもまあ、別にこれは小説だけの現象ではないのかもしれない…というのも、マンガの『ドラえもん』を読んでいると、「クリスチーネ剛田」というペンネームでロマンチックなマンガを描こうと努力する愛らしいキャラクター、ジャイ子*1も登場するわけだし。

流線型の修辞

 こういう前置きからご推察できると思うが、今回紹介するアイリス・マードックの『天使たちの時』にもまた、書物を著そうと志すキャラクターが現れる。例によってマードックの小説は、いったい誰が「主人公」なんだかいまいちはっきりしないので、ただ単に名前で紹介するしかないのだが、学校の教師をしているマーカス・フィッシャーというこの人物は、こんな本が書きたいというのだ:

マーカスは二学期間の休暇を学校からとっていた、それは、彼が永年思索をかさねてきた書物、俗化時代における道徳に関する哲学論文を書くためであった。それは多少の感銘を与えるものではないかと彼は思っている。比較的短いが極めて明晰で、且つ信念にあふれた作品、その流線型の修辞、警句にこめられた活力は、あのニーチェの≪悲劇の誕生≫を思わせるような、そんな作品になるはずであった(p.20)

おいおいマーカスさん、ちょっと野心的すぎないかい?――こんなふうに思うのが、ここを読んだときのまっとうな反応というものだろう。えーと、確かに、世の中にはエドワード・カソーボンという人がいて(まあ、本の中だけの架空の人物ではあるが)、本人の手には負えないような野心的な宗教的著作を試みたが、案の定完成させられず、あえなく死んでしまったんだよ。その二の舞にならないようにせいぜいがんばって…という感じ。あるいは、「二十五歳の時に出版した小さな本で、哲学研究に決定的な貢献をしてみせたが、その後はむしろ、それを単に敷衍したり蒸し返したりすることに終始していた」*2ラムジー氏なる人もいる。僕は「比較的短くて」というところで、この『灯台へ』の一節を思い出した。ラムジー氏が成功できたのはごく若い頃に出版した「小さな本」のみということになっている。

 ちなみに余計なことだが、「流線型の修辞」というのは、いったいどんな修辞なのだろうと気になる。流線型、つまり空気や水の抵抗を減らしてすっきりさせた形、ということだろうから、要するに体裁もよく、抵抗なく流れるように読めるような文章、くらいの意味なのだろう。僕は読んだことがないからわからないが、ニーチェの『悲劇の誕生』は、そんなふうに読みやすい「流線型の」読書体験が可能なのだろうか。

マードックらしさ

 さて『天使たちの時』は、マーカスが書こうとする本についてあれこれ述べる小説ではなくて、アイリス・マードックらしい、いつものながらの、ややこしい恋愛感情が渦巻くストーリーが展開する。若い男女(彼らは概して容貌にすぐれ、美しいという設定)、そしてこの若さにクラッときてしまい、足を踏み外す中年のおじさん、あるいはおばさんキャラクター。この恋愛騒動に加わらず、外から眺めるような、ちょっと異質な登場人物もいたりする。そして、このような異常な、混迷した人間関係が実現されるための閉鎖的な舞台設定。今回の小説はロンドンが舞台だけれども、登場人物たちは広いロンドンのある一角のみで行動している(キャレルとエリザベスという主要な登場人物は、このロンドンの家から一歩も外に出ていかない)。さらにその地域はいつも霧に深く閉ざされているということになっている。外界への視野はゼロ。

 一方で、象徴的な意味合いでは、外界への視野は大きく広がっている。とくにロシアの方向に向けて。キャレルやエリザベスが住むロンドンの家の管理人をしている老人はロシア出身で、革命から逃れて最終的にロンドンに辿りついたわけだが、他のものは全て失ってもイコンだけは大切にしてきたのだった。このイコンが、これまたマードックらしい象徴性(とくに宗教的な象徴性、代表作『鐘』に出てくる、湖に沈んでいたあの鐘のような)を強く帯びて描かれる。

 こんな観点から、『天使たちの時』はとてもマードックらしい本だと思うが、ちょっとマードックらしさが生々しく出ているような気がするので、今まで彼女の本を一度も読んだことがないという人には、この小説はおススメできない。また哲学的な内容がときどき現れて小説の進行を良くも悪くも妨げるのだが、こういうのもマードックという作者の経歴(オクスフォードで哲学の先生をしていた)をわかっていて、逆にこの晦渋さを楽しんでしまうぞ!くらいの心意気が必要になる。『天使たちの時』というタイトルにしても、この場合の「天使」は無垢でヤワな甘いキューピッドのイメージではないことが読むとわかる。

架空の書物コレクション

 マーカスの目指した野心的な本は、いったいどうなっただろうか。ちゃんと書きあがったかな。『天使たちの時』の最後のほうを読んでみると:

著作の仕事を続けようか?それはおそらく天才にしか書けない本であろうし、彼は天才ではない。彼が愛について、人間性について語りたいと思っていることは真実であったが、理論として表現できないということかもしれなかった。(p.342)

こうして、「書こうとしたけど、完成しなかった架空の書物」という僕の架空の本棚のジャンルに、新たな一冊が加わることになった。

*1:代表作として『愛フォルテシモ』、『虹のビオレッタ』など

*2:御輿哲也訳『灯台へ』p.44

 A.S.バイアット 『ゲーム』

(鈴木建三訳、河出書房新社1977)
〔A.S.Byatt The Game 1967〕

『ミドルマーチ』の存在感

 ちょっと前にこのブログで紹介したとおり、僕はジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』を読み終えた。そして続いて、『ミドルマーチ』が作品内で言及されていたヴァージニア・ウルフの代表作『灯台へ』を取り上げた。さらにその次には、「姉妹」をテーマにした切り口で『ミドルマーチ』を明らかに意識した小説であるマーガレット・ドラブルの『夏の鳥かご』をこの場で紹介した。こんな順番で続いてきたが、今回取り上げるのはA.S.バイアット。マーガレット・ドラブルのお姉さんで、妹同様に、彼女もまた「姉妹」をテーマにした小説を書いたのだった。それがこの『ゲーム』という作品。

 ひとつの本を読むと関連する本がたくさん浮かび上がってくるのは、なにもイギリスの小説に限らないが、あるときA.S.バイアットの短編集『シュガー』(白水社1993)の訳者あとがきを読んでいたら、こんなことが書いてあった。

こうしてバイアットは、自らの小説の規範をジョージ・エリオットに求める。つまり、『ミドルマーチ』のように、プロットが複雑で、多数の登場人物たちが幾重にも絡み合う、スケールの大きな作品が理想とされるのである。加えて、語り手がしばしば作中に顔を出してコメントを加えたり、読者に直接語りかける、「物語への語り手の介入」という主張も、バイアットがエリオットから受け継いだ、メタフィクション的な遺産の一つである。*1

またもや『ミドルマーチ』。僕が好んで取り上げる戦後、あるいは二十世紀イギリス小説作家が偏っているせいかもしれないが、ジョージ・エリオットの重要性は想像以上に大きい。なんだか最近はどこに行っても『ミドルマーチ』の存在感にぶつかるような感じだ(このブログのために、関連しそうな本を選んで読んでいるせいでもあるのだけど)。僕のかなりの独断に溢れる感想だけれども、二十世紀イギリス文学をよりいっそう楽しむために、十九世紀の小説を予備知識として読むとするならば、ジェイン・オースティンとブロンテ姉妹、そしてジョージ・エリオットであるべきだ(女性作家ばかりになってしまった)。読み物としてはおもしろいし、今でも人気は健在だけど、ディケンズは後回しでいいんじゃないかと思う。

象徴の迷宮

 実際のところ『ゲーム』はかなり知的な(ということは難解な)小説だった。単純におもしろおかしく読めるという傾向のものではない。バイアットの後の代表作『抱擁』を読んだときも感じられたが、彼女の第二作目の『ゲーム』でも、小説全体が細かいところいまで本当によく考えられて書かれている。ドラブルとバイアットという血の繋がった姉妹が、二人とも同じようなテーマで(「姉妹の関係」というテーマで)小説を書いているのに、この『ゲーム』はドラブルの『夏の鳥かご』とは印象も内容も全く異なっている。以前のブログに書いたが、『夏の鳥かご』はパーティーに次ぐパーティーという内容の小説だった。一方、『ゲーム』はそんな小説ではなく、ある種のパーティーもないわけではないが、小説の冒頭がパーティーの終わったあとの場面から始まっている(つまりパーティー自体は描かれていない)ことが、この作品の性質をある意味象徴している。楽しく読書をしたいというのなら『夏の鳥かご』のほうがいい。あえて知的格闘を楽しみたいという方には『ゲーム』をどうぞ。

 とっても単純に要約してしまうと、『ゲーム』はこんな小説だ。オクスフォードで十七世紀文学の教師(彼らは「ドン」と呼ばれる)をしている姉のカサンドラと、人気作家である妹のジュリア(パーティーを描くのがうまい作家という設定になっている――バイアットの皮肉?)。二人とも三十代の後半にさしかかっている。子供時代からカサンドラはジュリアに対し冷たい態度を取ってきた。しかし妹ジュリアはしたたかにも、姉との合作の物語を自分の作品として発表して賞を得てしまう。また、カサンドラが思いを寄せるサイモンという近所の男を、逆に自分の恋人にしてしまったりする。姉カサンドラからしてみれば、妹は自分のものなんでも奪い、うまく利用してしまうという点が気に入らない。父の死に際して、二人の心の距離は少し縮まったが、今度はジュリアがカサンドラのオクスフォード生活をモデルにした小説を書き上げてしまう。カサンドラはまたもや自分自身がジュリアからこのように利用されてしまうことに憤り、そして自殺してしまう。

 ドラブルという「妹」が書いた『夏の鳥かご』の場合は、感じの悪いお姉さんが、自身の結婚の失敗を通してだんだん妹と仲が良くなっていくという単純な話だった。一方、「姉」のバイアットが書いた『ゲーム』は、「生真面目な姉」と「お気楽で要領の良い妹」という対比では、お姉さんのほうが良い人に描かれていると言えなくもない。でも、姉カサンドラも相当に意地っ張りだったりするので、どっちか一方が良い人で、もう一方が悪い人みたいに単純に割り切れるとは言いがたい。『ゲーム』の中で妹ジュリアは、「カサンドラとあたしだってもちろんある意味では一人の複合的人物で、それがいわば二人に分裂したんだわ」(p.179)と言うが、まさにそういうことだろう。つまり、カサンドラとジュリアは、二人とも作者バイアットから派生分裂したキャラクターであって、ジュリアのモデルがドラブルで、カサンドラはバイアットだ、というような作者の実生活と直接結びつける解釈はちょっと無理がある。

 読んでいて気がつくのは、どうやら登場するあれこれの事物が象徴的に扱われているらしいこと。例えばヘビ。サイモンは爬虫類研究者なのでヘビに関するコメントが頻繁に出てくる。そしてとくにヘビの脱皮、つまり古い皮をはいで新しい皮になりかわることの記述が、古い自分から新しい自分へと生まれ変わるという含意でも使われているように僕は感じる。あと、カサンドラが折々に訪れるガラスの温室。彼女が気晴らしに行く場所なのだろう…くらいのイメージで読んでいたが、やがてこれが日本語で「温室育ち」という言葉の意味合いと同じイメージが込められていることに気がつく。つまり必ずしも自分が「生存適者」だと感じられていないカサンドラが、競争の無い「自然淘汰」を避けられるからこそ、外界ではない温室の居心地がいいのだ。

 こんな感じのわかりやすい例のほかにも、網のイメージ(漁師の網、蜘蛛の網、ネットワーク)、鏡のイメージなども、小説全体を通して幾度も繰り返される(「鏡が割れ、蜘蛛の巣は飛び去った」p.249)。まさに象徴の迷宮という感じの小説だが、何が何を表しているのだろう、なんて考え始めてしまうときりがない。こういうときに、僕はアイリス・マードックの代表作『鐘』を翻訳した丸谷才一さんのあとがきをいつも思い出してしまう…「とにかく、読者はこの長篇小説の世界にひたって、人間の出会いと別れの哀れふかい物語を味わっていただきたい。鐘が何の象徴かという議論などは、そのことにくらべるならばまったくつまらぬ話にすぎない。*2」おっしゃるとおりではないか。『ゲーム』においてもまた然り。

響きあうイギリス文学

 この小説のタイトルは、カサンドラとジュリアは子供の頃、粘土の人形で駒を作り空想上のボードゲームを楽しんだことから由来する。布の上に山や川、町や城を描き、二人はストーリーを作り上げた。

しかし後になると、盤の上の駒の動きよりは、陰謀とか誤った愛、永遠の憎しみといったものを記録することに力点が移っていった。こうしてカサンドラは、クイーン・モルガンの恋愛を歌ったバラッド形式の長い詩を書き、ジュリアはアストラートのエレインの、到底かなうべくもない恋の情熱のあらゆる段階を記録したのだった(p.54-5)

子供時代、姉妹がこのようにして作り上げる空想上の壮大な物語といえば?――ヒントは、『ゲーム』での姉妹の実家もヨークシャーだし、バイアットとドラブルの実家もヨークシャーであること――そう、もちろん、ブロンテ姉妹。彼女たちがヨークシャーの孤立した世界で紡ぎあげた「アングリア物語」の世界そのもの。小説『ゲーム』には、こっちの方向での「姉妹」のイメージも広がっている。

 そしてもうひとつ。姉カサンドラが主催するオクスフォードでの晩餐会で、ジュリアは姉の姿を見ながら、「あたしたちはエリザベス朝と石器時代の中間みたいなところを時代背景にした、下手な現代的演出のゴネリルとリーガンみたいだわ。あたしたちが必要としているのは、あの純白なギリシア的なコーデリアなのだわ」(p.138)と思う。さらに、カサンドラの死後、ジュリアとカサンドラの二人の気を引いていたサイモンは「しかしエドマンドは愛されたのだ」(p.287)とつぶやく。『リア王』のこの部分は、


Yet Edmund was beloved:
The one the other poison'd for my sake,
And after slew herself.


しかしエドマンドは愛されたのだ。
おれのために一人は他方を毒殺し、
そしてもう一人も自殺してしまったが。


と続く。エドマンドをめぐる二人の姉妹。カサンドラは死に、ジュリアは生き残るが、ジュリアもまた新しい生き方を始めていくだろうと語り手が述べるところで、小説『ゲーム』は幕を閉じる。

*1:池田栄一、篠目清美訳『シュガー』白水社1993、p.318

*2:アイリス・マードック『鐘』丸谷才一訳、集英社文庫、p.422-3

ジュリアン・バーンズ 『太陽をみつめて』

(加藤光也訳、白水社 1992)
〔Julian Barnes Staring at the Sun 1986〕

ご活躍中の方々

「イギリスの最近の男性作家で…最近って言ってもいろいろあるから…そう、戦後生まれの作家で、おススメは?って、訊かれたら誰かな」
「それって、マニアックな意味で?」
「いやいや、英語じゃないと読めないようなやつじゃなくて、翻訳があって、比較的普通に本屋さんで買えるような、そういう入手しやすいおススメ作家」
カズオ・イシグロじゃん、無難に答えるなら」
「いまや世界的な売れっ子作家だしね。でも、名前はさておき、彼の作品は素晴らしいけど、それほどイギリスらしさみたいなところを感じないね。もっと、イギリスの小説を読んだ!と思わせるような人がいいな」
「『日の名残り』は超イギリス的だよ」
「そうかなあ、あれはそのフリをしているだけだと思うけど」
「じゃあ、サルマン・ラシュディ?」
「だからー、もっとイギリスっぽい本で! もちろん『真夜中の子供たち』が傑作だってことは認めるけどさ。それに、ラシュディの本ってあんまり本屋さんで見かけないよ。もっと普通に買いやすい人。そうだなあ…ピーター・アクロイドとか、イアン・マキューアンはどう?」
「アクロイドのほうはあんまりピンとこなかったけど、マキューアンはまあいいんじゃないの。『アムステルダム』は拍子抜けだったけど、『贖罪』はよかったよ。でも、僕のおススメかというと、ちょっと違うなあ」
「じゃあ、そのおススメは誰? マーティン・エイミス? グレアム・スウィフト?」
ジュリアン・バーンズが、やっぱり僕は好きなんだよね」


(ご参考)
ジュリアン・バーンズ(1946年生まれ)
サルマン・ラシュディ(1947年生まれ)
イアン・マキューアン(1948年生まれ)
マーティン・エイミス(1949年生まれ)
・ピーター・アクロイド(1949年生まれ)
・グレアム・スウィフト(1949年生まれ)
カズオ・イシグロ(1954年生まれ)

『太陽をみつめて』

 ジュリアン・バーンズ(以下「JB」)で僕がいいなあと思うのは、二つの意味での「おもしろさ」、つまり知的におもしろくて(interesting)で、かつ、読んでいて楽しいおもしろさ(funny)があるところ。頑固に真面目一徹な小説もそれはそれでいいのだけど、やっぱり多少疲れるのは否めない。僕は仕事の合間や、通勤電車の中、あるいは夜寝る前に布団のなかでゴロゴロ読書する。だから、肩の力の入らない、どちらかといえば楽しい読書がしたくなる。そういうものではないか。仕事が終わって、多少うんざりしたような気分でなんだか楽しい気分転換がしたいのに、突如ウィリアム・ゴールディングとかを読み出しちゃったりすると――とくに『後継者たち』とか『可視の闇』とか――持病の頭痛がぶり返してしまう恐れが高い。バファリンの飲みすぎは僕の健康上も財政上も(薬代もバカにならない)よろしくないので、こういうときは、程よく知的で、程よく楽しい本がいい。例えば、ディヴィッド・ロッジのような。

 JBの作品の中でも、『フロベールの鸚鵡』と『101/2章で書かれた世界の歴史』はまさに才気煥発という感じで、知的な側面が強く、ビシバシとした皮肉がきいている。以前にこのブログでも書いたけど、『フロベールの鸚鵡』には試験問題から成る一章もあったりして、「小説」という形式が、実はなんでもありなんだなと感じさせる、まさにポストモダンな作品。『101/2章で書かれた世界の歴史』もまた同様で、多彩な文体が入り混じっているのが読みどころ。今回紹介する『太陽をみつめて』は、逆に、以前紹介した『イングランドイングランド』に近い、JBの中ではどちらかといえばおっとりとした作品。『フロベール…』や『101/2章…』と比べれば、格段に読みやすい。両者とも、一人の老齢の女性が自らの人生を振り返っていくという構成は共通している。

 『太陽をみつめて』を読み始めて「やっぱりJBは上手いよなあ」と思ってしまった。彼はプロの作家なのだから、小説の書き方が上手いのは当たり前なのだということは十分にわかっているけど、それでもやっぱり彼は上手いなあとしみじみ思う。特に第一部と第二部まで、そしてここで描かれる女性主人公ジーン・サージャントのキャラクタライゼイションが素晴らしい。(第三部に入ると若干読みづらくなる。)どういうふうに素晴らしいのかというと、小説の最初のほうに描かれるあれやこれやのエピソードの扱いかたがとてもいい。このいくつかのエピソードが『太陽をみつめて』という小説全体を通して、形を変えて、折々に意義深く思い出されるようになっているのだ。このように書いて一体何が言いたいのかは、実際に読んでいただかないと伝わりづらいのだけれども、例えばこういうこと。

 小説の冒頭、まだ七歳の少女だったジーンは、おじさんのレズリーからクリスマスプレゼントとしてヒヤシンスの鉢植えをもらう。僕も小学校のときヒヤシンスを育てたけど、ヒヤシンスとかチューリップとかクロッカスとか、ああいう植物は晩秋に球根を埋めて越冬させておくわけだ。すると春になる頃芽を出し、やがてきれいな花が咲く。ジーンがもらったヒヤシンスの鉢植えは茶色い包み紙に覆われているが、ジーンはそっと中をのぞく。すると、まだ時期はクリスマスなのに四本の小さな芽がもう出ていた。でもレズリーおじさんは、ヒヤシンスの成長に悪影響があるからと言って、春になるまで包み紙の中を見ないようにとジーンに言う。そして次の年になり、ジーンが二月にのぞいて見ても、三月にのぞいて見ても、ヒヤシンスはその四本の芽のまま成長しない。しびれをきらしたジーンがついにこのヒヤシンスの鉢を掘り返してみると、なんとそれは逆さに埋められた四本のゴルフのティーだったのだ。これがエピソードの一例。

 その後ジーンは成長し、大人になり、結婚する。ずっと子供ができず、てっきり子供ができない体なのだと諦めていたのに、結婚から二十年が経ったとき、彼女は突然妊娠してしまう。この場面でJBは上記のエピソードを読者の前に持ち出してくる。素直で単純なジーンはこんなことを考えるのだ。

がっかりさせられたレズリーおじさんのヒヤシンスのことを思い出した。そうだ、ことによるとゴルフのティーからだって芽が生えるかもしれない。なんといっても木でできているのだもの(p.109)

 レズリーおじさんとジーンとの楽しいエピソードのひとつ、くらいに思って読んでいたのに、そこから百ページくらい読み進んだあとで、ヒヤシンスの挿話はこんなふうにジーンの不妊や奇跡的妊娠と結びついてしまう。上手いなあと感心してしまう。そして、この種のエピソードが随所で効果的に繰り返され、小説全体をおもしろおかしく、そしてしんみりと味わい深いものにしている(「サンドウィッチ博物館」「ミンクの生命力」などのエピソード。)ちょうど、『イングランドイングランド』で「主の祈り」が何回も繰り返され、印象的なフレーズとなっていたのと同じように。

問い続ける人生

 舞台は近未来。二十一世紀もだいぶ過ぎ、百歳を迎えようとしているジーンはいまだに「ミンクがなぜ並外れて生命力が強いのか」わからない(これはジーンが十歳になる頃から抱き続けてきた疑問という設定になっている)。社会にGPCというコンピューターが普及し、息子のグレゴリーがこのコンピューターに向かって、母に代わりこの疑問を投げかけてみたが、GPCもまたこの問いに答えることができなかった。GPCは、こういう答えられない質問を「本当の質問ではありません」と逃げてしまうのだった。グレゴリーからこの結果を聞き、ジーンは考える

でも、本当の質問ってなにかしら、と彼女は思った。本当の質問というのは、訊かれた人間がすでに答を知っているような問いにかぎられている。もし父さんやGPCが答えられれば、それは本当の質問だったことになるけど、もし答えられなければ、まちがった前提に立ったものとして無視されてしまう。なんて不公平なのだろう。なぜって、そうした、本当の質問ではない問いの答こそ、こちらにしてみれば、是が非でも知りたい答なのだ。自分は九十年もミンクのことを知りたいと思ってきた。父さんも駄目だったし、マイケルも駄目だった。そのうえ、こんどはGPCまで逃げようとしている。万事がこうなのだ。知識には本当は前進などというものはない、ただそう見えるだけだ。大切な問いには、いつも答えが出ないままなのだ(p.216-7)

 小説を教訓的に読む必要は断じてないのだけれども、JBの作品はおもしろおかしいだけではなく、読者を考えせしめる内容にも富んでいる。「大切な問いには、答えが出ない」…だからこそ「大切」なのだろうと僕は思う。