アンガス・ウィルソン 『悪い仲間』

工藤昭雄・鈴木寧訳、白水社、1968)
〔Angus Wilson The Wrong Set and Other Stories 1949〕

幸運なデビュー

 アンガス・ウィルソンは戦後イギリスで最も敬意を集めていた作家の一人だった。今回取り上げた彼の処女短編集『悪い仲間』が書かれた経緯は(これはウィルソンが作家になった経緯でもあるのだが)、この本の「解説」を含めいろいろなところで紹介されているが、現在三十三歳である僕にはなかなか印象的。

 ウィルソンは第二次世界大戦中、イギリス外務省に勤務していたが、おそらくそこでの仕事で精神的にマイってしまい、そして戦後は大英博物館での勤務に復帰したものの、やっぱり気分はすぐれなかった。そこであくまでも気分転換のために、仕事のない週末を利用して短編小説を書き始めたのだった。これが1946年の11月のある日曜日のことで、最初に書き上げたのが「木いちごジャム」、そしてそれから十二週連続で毎週一作ずつ書き上げた。このときウィルソンは三十三歳。これはつまり、誰かの年齢と一緒なわけだ。

 それ以前に小説を書こうなんて考えたこともなく、あくまでも趣味として始めた執筆だったが、あるときこの短編のいくつかが友人の手を経てシリル・コノリーの手に渡り、その中の二つ(「おふくろのユーモア感覚」「変わり者ぞろい」)が彼の雑誌Horizonに掲載された*1。さらに出版社に勤める友人から、もしその原稿をくれれば出版してあげるという話があって、これら十二作の作品を出版したものが、この『悪い仲間』という短編集。短編集なんて売れないからね、と出版社の友人には言われていたが、『悪い仲間』はなんとイギリスとアメリカで異例の大成功を収めてしまった。これが1949年のこと。その後、ウィルソンは四十二歳までは大英博物館に勤務しながら著作を続けた。

 ということで、今回読んだ『悪い仲間』という十二の短編を集めたこの本は、あくまでも趣味として、仕事の片手間に書いたもの。それも、それぞれ週末に一作のペースで(ということは三ヶ月だ)書き上げられたもの。何度も出版社に断られ、苦労のあげくやっと出版にこぎつける…というような作家が巷には多いが、こんなふうに幸運と、そしてもちろん才能に恵まれて出来上がった短編集。そして、この本を僕もまた手に取り、翻訳でも味わえるという幸せ。

異質な人々

 週末に一編ずつ書きためられたウィルソンの短編小説。同じような場面設定の小説はひとつとしてなくて、作家の想像力の幅の広さを感じ取ることができる一方、矛盾しているようだが、中流階級の人々が登場してあれやこれやしゃべりだす…みたいな点では、みんな同じような内容の作品のように思えなくもない。いずれにしても、趣味や気分転換のために書いたとは思えない完成度の高さ。そんなにドラマチックな内容ではないものも多いので、なんとなくざっと読んでしまうと、つまらないかもしれない(仕事帰りの電車の中で読んでいて、眠くなってしまうものもあった)。でも、僕たちもまた少々の想像力を働かして(1930年代から第二次世界大戦頃のイギリス社会という時代背景)、そして、ちょっと落ち着いた場所でじっくり読んでみる。すると、この短編集の味わい深さがじわじわとわかってくる。

 まず、ウィルソンが、異質な人々、つまり、中流階級的な価値観から逸脱してしまう人々を頻繁に登場させているところが気になった。もちろんこういう特異な人々を描かないことには、短編小説のストーリーが動き出さないという構造的な要求もあるのだろう。それに「変わり者」を描くのは、ユーモアという点でも効果がある。でもむしろ僕は、ウィルソン自身がある程度、こういう「ふつうの人々」的な価値観から外れてしまっていたのではないのか、だからこういうふうに頻繁に描き出すのではないか、と想像してしまう。彼も本来なら、他の人たちと同じように外務省や大英博物館でつつがなく仕事を続けていくはずなのだ。日本のサラリーマンだって同じ。会社にはみんな多かれ少なかれうんざりしているかもしれない。毎日毎日仕事。でも仕事ってこういうものなんだし…と理解して、別に疑いもせず通勤電車に乗り込む。というか、これを疑い出してしまうと会社に行けなくなってしまう。でもきっとウィルソンは、こういうサラリーマン的な仕事のスタイルに何か疑問を感じてしまったに違いない。みんなが当たり前と思うことに、「?」を感じたのだろう。だからこそ作品にも、ちょっとふつうではない(というか、かなりふつうではない)人々が登場してきてしまう。

 「涼風をいれろ」のミランダ・サール。彼女は「人びとから気違いだと思われていたし、彼らの中流階級的な規準から判断するなら、もちろんそのとおりだった」(p.11)というキャラクター。そして圧巻は「きいちごジャム」に登場するメアリアンとドリーのスウィンテイル姉妹。この作品で、主人公の少年ジョニーは二人の老嬢姉妹の住む家に遊びに行くのだが、最後はびっくりするような、というか、かなり残忍な結末が待っている。きいちごジャムとはつまり、ラズベリージャムのこと。真っ赤なジャム。この経験の後、ジョニーは家で出されたラズベリージャムに対しても悲鳴を上げてしまう。現代詩人シェイマス・ヒーニーに、きいちご摘みを描いたよく知られた詩があるのだけど、僕はその一節を思い出した…「Our hands were peppered / With thorn pricks, our palms sticky as Bluebeard’s.」…ただし、このきいちごはラズベリーではなくて、ブラックベリーだけど*2

 短編「変わり者ぞろい」で、アンガス・ウィルソンは登場人物の一人に「とにかく、現代の社会で人間の尊厳をつらぬく唯一の道は、気違いじみた人間と呼ばれることだと僕は思うね」(p.152)と語らせている。このコメントをウィルソンの本意として真に受ける必要はない。ただし、こういう「変わり者たち」に対する微妙な好意が匂ってくるのも否定できない。

 このほかに、仲違いしそうになってしまった夫婦やカップルが、またよりを戻す経緯を描く短編もいくつかみられる。少なくとも「底抜けパーティー」や「変わり者ぞろい」、「贈り物をされても」を読むと、そういうストーリーが描かれている。好きだとか嫌いだとかいった人間の気持ちの微妙な変化を、上手に、読者にも納得できるように描写する作家はあまり多くない。夫婦やカップルの心理描写といえば僕はマーガレット・ドラブルを思い出すが、アンガス・ウィルソンのこれらの作品はドラブルの作品と感じがよく似ていると思う。実際のところ、ドラブルは1995年にAngus Wilson: A Biographyという伝記を発表しているくらいなので、ウィルソンには相当の親近感を持っていたのだろうと思うが、この伝記も読んでみたことがないし、二人の具体的な共通点はもっと調べてみないとわからない。

 あと、「一族再会」という作品もコメントを残しておきたい。これは、食事の場面がとてもよく描かれていると思ったから。先日、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』を読んで以来、小説の中でみんなが集まってご飯を食べる場面が個人的にはとても気になっている。この「一族再会」での食事風景は、ウルフの作品のように「お上品なディナー」ではなくて、なんともくつろいだ、ちょっと下品な発言もあったりする楽しい食事会を描いている。でも、『灯台へ』のディナーと一緒で、供されるご飯はなんだかとてもおいしそうだし、食事が一段落すると歌が披露されたりして(『灯台へ』はお上品なので詩の吟詠)、人々はみな和やかにうちとけていく。まさに「饗宴の親和力」。

絶賛

 アンガス・ウィルソンという作家は、僕がいろんな本を渉猟して、彼についてのコメントに遭遇すると、だいたいいつも絶賛されている。たとえば、バーナード・バーゴンジーの『現代小説の世界』では「ウィルソンは稀に見るすぐれた知性、該博な知識、鋭い感受性をもった作家である」と述べられているし、そのあとに、あのB.S.ジョンソンもが、アンガス・ウィルソンを「非常にすぐれた作家」だと語ったことが記されている。ただしもちろんB.S.ジョンソンのことだから、ウィルソンの実際の小説手法については評価していないけれど。*3

 1960年代の人々の声では、ちょっと古いかもしれない。他の本では、ウィルソンの死後にも彼を評価する声が見つかる。丸谷才一さんが編者となった『ロンドンで本を読む』というタイトルの、イギリスの新聞・雑誌での書評をまとめた本がある(マガジンハウス、2001)。これはとてもおすすめの本で、興味深い一冊なのだけど、この中にアントニー・バージェスがアンガス・ウィルソンについて書いた評(「いつも慎重だった男」というタイトル)も収められている。このバージェスによればウィルソンの作品は「どの小説も初めて発表されたころにはまず例外なく、彼の新作なら古典なみに質の高い作品にちがいないぞと熱烈な期待をあつめていた。だのにもう今や誰も読まなくなり、彼よりずっと低級なグレアム・グリーンあたりが人気を呼んでいる」(p.85)のだそうだ。なるほど。

 ということで、今後の読書の方向が見えてくる。今回はウィルソンのデビュー作を読んでみた。これをステップに、次は長編小説を読んでみよう。戦後イギリス作家の作品は翻訳されていないものも多いが、絶版ばかりとはいえ、ウィルソンにはいくつかまだ入手可能な作品がある。

*1:これとは別に、短編「実力主義」もThe Listener誌に掲載された。それにしてもこういうThe ListenerBBCの出版していた雑誌。多くの文壇の実力者が寄稿し、またその後の有名作家や有名詩人の登竜門ともなった)とかHorizonとかいう、ちゃんとした雑誌に掲載されたのもウィルソンの幸運と実力だと思う。

*2:Seamus Heaney 「Blackberry-Picking」

*3:鈴木幸夫、紺野耕一訳、研究社(1975)のうちp.224-225