アントニー・バージェス 『エンダビー氏の内側』

(出淵博訳、早川書房1982)
〔Anthony Burgess Inside Mr. Enderby (1963)〕

 ローマ。僕にとってのローマ。昔から古代ローマに興味があり、塩野七生さんの本も愛読したので、あの街に残された遺跡を巡って過去の追憶にひたるべく、また訪れてみたいなという気持ちもある。一方で、実際に旅した際には、二度ともかなり疲れて、とにかくうんざりしたという記憶もあって、僕のなかでは愛憎半ばするなんとも微妙な永遠の都。イギリスから向かうと、ヒースローの穏やかな日差しとはうってかわって、フィウミチーノ空港に差し込む強烈な太陽光線。とてもまぶしい。そして大きな車体のレオナルド・エクスプレスに乗り込み、何やらゴトゴトと三十分ばかし揺られていくと、やがて線路がたくさん分岐し、「ROMA −TERMINI」という表示が見えてくる。「テルミニ」という意味深い駅名を見ると、ああローマに来てしまったんだな…と実感がわく。

 地下鉄は細かく走っているわけでもないし、バスはよくわからないし…ということで、一人旅のローマ観光ではたくさん歩く羽目に陥る。テルミニ駅の空港エクスプレス到着ホームは、こういう旅行者の健脚を期待してか、あるいはローマ滞在中の健脚の必要性をあらかじめ認識させるためか、なぜか駅の一番端の遠くにある。出口まではスーツケースをガラガラいわせながら長いこと歩かなければならない。いったん市内に出ると、今度はあの日差しを浴びてとても暑いし、空気が乾いているので爽やかだけど喉がやたらに渇く。そして何よりも、ロンドンのように安全な街ではないとわかっているから、別に緊張しまくっているわけではないけど、やっぱり多少は意識して行動することになる。これも疲労の一因。

 こんな具合で、ローマというのは僕にとってもどっちつかずの印象なので、新婚旅行にこの街を訪れた二人の関係が微妙にギクシャクし始める小説を読んでも、まあ、さもありなんと思う。『ミドルマーチ』(ジョージ・エリオット)のドロシア・ブルックとエドワード・カソーボンの新婚旅行。そして『夏の鳥かご』(マーガレット・ドラブル)のルイズ・ベネットとスティーヴン・ハリファクスの新婚旅行。かつて「成田離婚」という言葉もあったように、そもそもお互いの勝手をよく知らない状態で旅に出るのだから、パートナーについて良くも悪くもいろいろ発見があるわけだ。そして今回読んでいるアントニー・バージェス作『エンダビー氏の内側』のヴェスタ・ベインブリッジとフランシス・エンダビーの新婚旅行先もローマで、案の定、二人の関係は狂い始めてしまう。

 『エンダビー氏の内側』はあえてジャンル分けするとしたら間違いなくコミックノベル。主人公のエンダビーは四十歳代半ば。とても容姿端麗とはいえないコミカルなキャラクター。胃腸の具合が悪く、いつもお腹がグルグル言っている(バージェスの表現を使えば「ブルルルブルルルプクルルルク」とか)。職業は詩人で、詩集もこれまでに少し出版しているがとても売れっ子とは言えない。ただし、エンダビーの書く詩は(つまりバージェスが作っている詩ということだが)これがなかなか絶妙に面白い。こういう部分は翻訳だと十分に楽しめないから、英語でも読んでみたいなと思ってしまう。なかでも第一章の最後で完成する詩(「プルーデンス!プルーデンス!…」)は、それ自体もなかなか面白いし、さらにその後のストーリーの内容を予感させる詩にもなっていて、たんなる小説内のおまけとか遊びではなく、プロットの構成上でも意味があるというとても凝ったもの。さすがはバージェス。

 エンダビーが友人から依頼されていた愛の詩を、間違って女性誌編集長のヴェスタ・ベインブリッジに送ってしまったことから、エンダビーはヴェスタと結婚することになってしまう。そしてその新婚旅行先がローマだった。乗車したはいいが降りる段になると、料金メーターが壊れていて、表示されるマイル数が少なすぎると不平を言う運転手。こういうローマの人々のうさんくさい遣り方にいい加減うんざりしたエンダビーは「逆らわず、記録されている料金より五百リラ多く支払い、『この下司野郎』と英語でののしった。ローマ。ああなんと愛すべき国であることか、このローマは。」(p.198)エンダビーはこんなイタリア的なやり方にうんざりする一方、新妻ヴェスタの考えるやり方に、騙されるようにしてどんどん押し込められてしまう。カトリックは嫌いなのにいやいやローマ法王の別荘での集会に連れていかれたり、カトリック教会での神前結婚式を強引に挙げさせられそうになったりする。そしてほとほと嫌気のさしたエンダビーはついに彼女から逃げ出し、一人でイギリスへ帰ってしまう。

 さらにこの結婚の結果、エンダビーから詩の才能(女神ミューズ)が消え去ってしまい、どうしても詩が思い浮かばなくないという最悪の事態に陥る。財産も失い、詩才も失ったエンダビーは絶望して睡眠薬で自殺を試みるが一命をとりとめ、新たにピギー・ホギーという名前でバーテンダーとして再起を図るという話になって、この小説は終わる。バージェスはこのエンダビーというキャラクターをどうやら気に入ったようで、さらにこの後、『エンダビーの外側(Enderby Outside)』(1968)、『時計仕掛けの遺言、あるいはエンダビーの最後(The Clockwork Testament, or Enderby’s End)』(1974)、『エンダビーのダークレディー、あるいはエンダビーの不滅(Enderby’s Dark Lady, or No End of Enderby)』(1984)と続編が並ぶ。第一作目の調子だと、続編も間違いなく面白いはずだが、残念ながら翻訳はない。今回紹介した『エンダビーの内側』は、早川書房の「バージェス選集」全九巻のうちの一冊で(「7−1」となっている)、実を言うと、この選集の予告では『外なるエンダビー』(「7−2」となるはずのもの)も発売されることが決定していたようだ。訳者あとがきにも「それでは、『外なるエンダビー』でまたお目にかかろう」と書いてあったりする。でも、結局出版されなかったみたいで、いろいろ調べても発売された形跡はない。どうなってしまったのだろう。*1

 「小説というものと、その可能性についての再発見がちょうどその頃〔1960年代〕に起こっていたのだということができる。リアリズムについてはウィルソンとファウルズが、ジェンダーユートピアに関してはレッシングが、キャラクターと美学哲学についてはマードックとスパークが、フィクションにおける言語と比喩(trope)の技法についてはバージェスが、それぞれ試みを始めていた。」*2ブラッドベリもこのように書いているが、バージェスは言葉をあれこれ操ることにとても長けていて、例えば代表作『時計仕掛けのオレンジ』でも、あのロシア語と英語スラングの入り混じった「ナッドサット」を創作して小説を展開する。今回の『エンダビー氏の内側』では、バージェスの言葉遊びという観点で読むとすれば、彼の詩の技量の豊かさが楽しみどころだろう。これにプラスして、ベタなコミック小説の要素も満載なので(パブで老人たちがすれ違いがちな会話を続ける場面や、笑えるスプーナリズムなど)、素直に楽しく読める本だと思う。エンダビー氏の運命が若干哀れに思われなくはないが、こういう展開もコミックノベルらしいといえば、まあそういうものか。

 話は戻って、ローマ。この都市のいったい何が登場人物たちを狂わしてしまうのだろうか。古代ローマから綿々と打ち続く歴史がいけないのだろうか。あるいはカトリックの総本山という宗教的な面か。『ミドルマーチ』も『夏の鳥かご』も、そして『エンダビー氏の内側』でも、ローマの持つこういう歴史と宗教が、直接・間接に登場人物に影響を与えているのは間違いない。さらにローマに限らず、範囲を広げて「イタリア」として考えてみれば、登場人物がイタリアを訪れたせいで、歯車が狂いだしてしまう小説を他にも思いつく。今すぐ思い出せるものだと、E.M.フォースターの『天使も踏むのを恐れるところ』とか、トーマス・マンの『ベニスに死す』とか。小説の登場人物をも狂わしてしまう危険な影響力こそがイタリアの魅力、なのだろうか。そして、僕もまた、たまには狂わされに訪れたい気持ちがあるような、ないような…。

*1:さらに、この選集では『熊にハチミツ(Honey for the Bears)』も刊行される予定だったが、出版されていない。

*2:Malcolm Bradbury The Modern British Novel 1878-2001 (Penguin, 2001) p .411