アイリス・マードック 『天使たちの時』

(石田幸太郎訳、筑摩書房1968)
〔Iris Murdoch The Time of the Angels 1966〕

架空の書物

 今回取り上げるアイリス・マードックとはあまり関係ないけど、まずはスタニスワフ・レム(1921-2006)の話。彼のSF作品の中にはときどき架空の書物名が出てくるのだが、僕はレムのこういうブッキッシュなところが好きだ。有名な『ソラリス』(1961)は、主人公が不思議な惑星ソラリスを訪れ、その基地を拠点にこの惑星を調査するというSFなのだが、この基地には図書室が設けられている。そしてケルヴィンは(これが主人公の名前なのだが)この図書室を幾度か訪れて、『ソラリス研究の十年』(ギーゼ著)とか、『ソラリス学入門』(ムンティウス著)などという書物を読むことになる。ギーゼとかムンティウスという著作者はもちろんレムの創作。レムの他のSF作品にもこうした架空の書物は頻出し、そしてレムのこうしたメタフィクション的傾向は、二大大作『完全な真空』(架空の書物についての書評集)と『虚数』(架空の書物についての序文集)に結晶化される。フィクションがフィクションについて語るという、僕にはたまらないおもしろさ。

 レムや、あと有名なボルヘスホルヘ・ルイス・ボルヘス、1899-1986)などはこういう意味でのメタフィクション傾向が顕著だけれども、架空の書物が小説の中に出てくるのは、実はごくごく当たり前に見られる現象だったりする。最近このブログで取り上げた小説を振り返ってみると:

ロレンス・ダレル 『アレキサンドリア四重奏I ジュスティーヌ』
→ジャコブ・アルノーティ(Jacob Arnauti)作『風俗(ムール、Moeurs)』、他に小説家のパースウォーデンというキャラクターが登場し小説を書いていることになっている

ジョージ・エリオット 『ミドルマーチ』
エドワード・カソーボン(Edward Casaubon)による未完の『神話学大全』(the Key to all Mythologies)、他にフレッド・ヴィンシーの『緑野菜の栽培と家畜飼育の経済について』など

ヴァージニア・ウルフ 『灯台へ
→明確なタイトルは明示されなかったと思うが、ラムジー氏(Mr. Ramsay)は若い頃から最近まで、折々に哲学的著作を発表している

マーガレット・ドラブル 『夏の鳥かご』
→主人公のサラー・ベネットは「キングズリー・エイミスの『ラッキー・ジム』みたいな小説を書きたい」と思っていて、それを今まさに書いているという設定

■J.M.クッツェー 『夷狄を待ちながら』
→主人公の「私」は、民政官として暮らす辺境の町の歴史書を執筆しようと考える

■A.S.バイアット 『ゲーム』
→妹のジュリア・コーベットは小説家で、彼女の最新作『栄光の感覚』は姉のカサンドラ・コーベットを自殺に追いやってしまう

 タイトルがはっきり書かれて出版されたという体裁になっている場合もあれば、書物を著そうという意思だけだったり、書き始めたが未完に終わってしまったり、なんて場合もある。しかしそれにしても、小説の登場人物たちは、どうしてこんなに本を書きたがるのだろうと僕は不思議に思う。小説家というのは、自分の職業、つまり、本を書く仕事についてはよく知っているわけだから、他の職業よりも描写しやすいのかもしれない。また、本を書くという行為自体への作者の思い入れが強く反映して、こういう結果になるのかもしれない。でもまあ、別にこれは小説だけの現象ではないのかもしれない…というのも、マンガの『ドラえもん』を読んでいると、「クリスチーネ剛田」というペンネームでロマンチックなマンガを描こうと努力する愛らしいキャラクター、ジャイ子*1も登場するわけだし。

流線型の修辞

 こういう前置きからご推察できると思うが、今回紹介するアイリス・マードックの『天使たちの時』にもまた、書物を著そうと志すキャラクターが現れる。例によってマードックの小説は、いったい誰が「主人公」なんだかいまいちはっきりしないので、ただ単に名前で紹介するしかないのだが、学校の教師をしているマーカス・フィッシャーというこの人物は、こんな本が書きたいというのだ:

マーカスは二学期間の休暇を学校からとっていた、それは、彼が永年思索をかさねてきた書物、俗化時代における道徳に関する哲学論文を書くためであった。それは多少の感銘を与えるものではないかと彼は思っている。比較的短いが極めて明晰で、且つ信念にあふれた作品、その流線型の修辞、警句にこめられた活力は、あのニーチェの≪悲劇の誕生≫を思わせるような、そんな作品になるはずであった(p.20)

おいおいマーカスさん、ちょっと野心的すぎないかい?――こんなふうに思うのが、ここを読んだときのまっとうな反応というものだろう。えーと、確かに、世の中にはエドワード・カソーボンという人がいて(まあ、本の中だけの架空の人物ではあるが)、本人の手には負えないような野心的な宗教的著作を試みたが、案の定完成させられず、あえなく死んでしまったんだよ。その二の舞にならないようにせいぜいがんばって…という感じ。あるいは、「二十五歳の時に出版した小さな本で、哲学研究に決定的な貢献をしてみせたが、その後はむしろ、それを単に敷衍したり蒸し返したりすることに終始していた」*2ラムジー氏なる人もいる。僕は「比較的短くて」というところで、この『灯台へ』の一節を思い出した。ラムジー氏が成功できたのはごく若い頃に出版した「小さな本」のみということになっている。

 ちなみに余計なことだが、「流線型の修辞」というのは、いったいどんな修辞なのだろうと気になる。流線型、つまり空気や水の抵抗を減らしてすっきりさせた形、ということだろうから、要するに体裁もよく、抵抗なく流れるように読めるような文章、くらいの意味なのだろう。僕は読んだことがないからわからないが、ニーチェの『悲劇の誕生』は、そんなふうに読みやすい「流線型の」読書体験が可能なのだろうか。

マードックらしさ

 さて『天使たちの時』は、マーカスが書こうとする本についてあれこれ述べる小説ではなくて、アイリス・マードックらしい、いつものながらの、ややこしい恋愛感情が渦巻くストーリーが展開する。若い男女(彼らは概して容貌にすぐれ、美しいという設定)、そしてこの若さにクラッときてしまい、足を踏み外す中年のおじさん、あるいはおばさんキャラクター。この恋愛騒動に加わらず、外から眺めるような、ちょっと異質な登場人物もいたりする。そして、このような異常な、混迷した人間関係が実現されるための閉鎖的な舞台設定。今回の小説はロンドンが舞台だけれども、登場人物たちは広いロンドンのある一角のみで行動している(キャレルとエリザベスという主要な登場人物は、このロンドンの家から一歩も外に出ていかない)。さらにその地域はいつも霧に深く閉ざされているということになっている。外界への視野はゼロ。

 一方で、象徴的な意味合いでは、外界への視野は大きく広がっている。とくにロシアの方向に向けて。キャレルやエリザベスが住むロンドンの家の管理人をしている老人はロシア出身で、革命から逃れて最終的にロンドンに辿りついたわけだが、他のものは全て失ってもイコンだけは大切にしてきたのだった。このイコンが、これまたマードックらしい象徴性(とくに宗教的な象徴性、代表作『鐘』に出てくる、湖に沈んでいたあの鐘のような)を強く帯びて描かれる。

 こんな観点から、『天使たちの時』はとてもマードックらしい本だと思うが、ちょっとマードックらしさが生々しく出ているような気がするので、今まで彼女の本を一度も読んだことがないという人には、この小説はおススメできない。また哲学的な内容がときどき現れて小説の進行を良くも悪くも妨げるのだが、こういうのもマードックという作者の経歴(オクスフォードで哲学の先生をしていた)をわかっていて、逆にこの晦渋さを楽しんでしまうぞ!くらいの心意気が必要になる。『天使たちの時』というタイトルにしても、この場合の「天使」は無垢でヤワな甘いキューピッドのイメージではないことが読むとわかる。

架空の書物コレクション

 マーカスの目指した野心的な本は、いったいどうなっただろうか。ちゃんと書きあがったかな。『天使たちの時』の最後のほうを読んでみると:

著作の仕事を続けようか?それはおそらく天才にしか書けない本であろうし、彼は天才ではない。彼が愛について、人間性について語りたいと思っていることは真実であったが、理論として表現できないということかもしれなかった。(p.342)

こうして、「書こうとしたけど、完成しなかった架空の書物」という僕の架空の本棚のジャンルに、新たな一冊が加わることになった。

*1:代表作として『愛フォルテシモ』、『虹のビオレッタ』など

*2:御輿哲也訳『灯台へ』p.44