A.S.バイアット 『ゲーム』

(鈴木建三訳、河出書房新社1977)
〔A.S.Byatt The Game 1967〕

『ミドルマーチ』の存在感

 ちょっと前にこのブログで紹介したとおり、僕はジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』を読み終えた。そして続いて、『ミドルマーチ』が作品内で言及されていたヴァージニア・ウルフの代表作『灯台へ』を取り上げた。さらにその次には、「姉妹」をテーマにした切り口で『ミドルマーチ』を明らかに意識した小説であるマーガレット・ドラブルの『夏の鳥かご』をこの場で紹介した。こんな順番で続いてきたが、今回取り上げるのはA.S.バイアット。マーガレット・ドラブルのお姉さんで、妹同様に、彼女もまた「姉妹」をテーマにした小説を書いたのだった。それがこの『ゲーム』という作品。

 ひとつの本を読むと関連する本がたくさん浮かび上がってくるのは、なにもイギリスの小説に限らないが、あるときA.S.バイアットの短編集『シュガー』(白水社1993)の訳者あとがきを読んでいたら、こんなことが書いてあった。

こうしてバイアットは、自らの小説の規範をジョージ・エリオットに求める。つまり、『ミドルマーチ』のように、プロットが複雑で、多数の登場人物たちが幾重にも絡み合う、スケールの大きな作品が理想とされるのである。加えて、語り手がしばしば作中に顔を出してコメントを加えたり、読者に直接語りかける、「物語への語り手の介入」という主張も、バイアットがエリオットから受け継いだ、メタフィクション的な遺産の一つである。*1

またもや『ミドルマーチ』。僕が好んで取り上げる戦後、あるいは二十世紀イギリス小説作家が偏っているせいかもしれないが、ジョージ・エリオットの重要性は想像以上に大きい。なんだか最近はどこに行っても『ミドルマーチ』の存在感にぶつかるような感じだ(このブログのために、関連しそうな本を選んで読んでいるせいでもあるのだけど)。僕のかなりの独断に溢れる感想だけれども、二十世紀イギリス文学をよりいっそう楽しむために、十九世紀の小説を予備知識として読むとするならば、ジェイン・オースティンとブロンテ姉妹、そしてジョージ・エリオットであるべきだ(女性作家ばかりになってしまった)。読み物としてはおもしろいし、今でも人気は健在だけど、ディケンズは後回しでいいんじゃないかと思う。

象徴の迷宮

 実際のところ『ゲーム』はかなり知的な(ということは難解な)小説だった。単純におもしろおかしく読めるという傾向のものではない。バイアットの後の代表作『抱擁』を読んだときも感じられたが、彼女の第二作目の『ゲーム』でも、小説全体が細かいところいまで本当によく考えられて書かれている。ドラブルとバイアットという血の繋がった姉妹が、二人とも同じようなテーマで(「姉妹の関係」というテーマで)小説を書いているのに、この『ゲーム』はドラブルの『夏の鳥かご』とは印象も内容も全く異なっている。以前のブログに書いたが、『夏の鳥かご』はパーティーに次ぐパーティーという内容の小説だった。一方、『ゲーム』はそんな小説ではなく、ある種のパーティーもないわけではないが、小説の冒頭がパーティーの終わったあとの場面から始まっている(つまりパーティー自体は描かれていない)ことが、この作品の性質をある意味象徴している。楽しく読書をしたいというのなら『夏の鳥かご』のほうがいい。あえて知的格闘を楽しみたいという方には『ゲーム』をどうぞ。

 とっても単純に要約してしまうと、『ゲーム』はこんな小説だ。オクスフォードで十七世紀文学の教師(彼らは「ドン」と呼ばれる)をしている姉のカサンドラと、人気作家である妹のジュリア(パーティーを描くのがうまい作家という設定になっている――バイアットの皮肉?)。二人とも三十代の後半にさしかかっている。子供時代からカサンドラはジュリアに対し冷たい態度を取ってきた。しかし妹ジュリアはしたたかにも、姉との合作の物語を自分の作品として発表して賞を得てしまう。また、カサンドラが思いを寄せるサイモンという近所の男を、逆に自分の恋人にしてしまったりする。姉カサンドラからしてみれば、妹は自分のものなんでも奪い、うまく利用してしまうという点が気に入らない。父の死に際して、二人の心の距離は少し縮まったが、今度はジュリアがカサンドラのオクスフォード生活をモデルにした小説を書き上げてしまう。カサンドラはまたもや自分自身がジュリアからこのように利用されてしまうことに憤り、そして自殺してしまう。

 ドラブルという「妹」が書いた『夏の鳥かご』の場合は、感じの悪いお姉さんが、自身の結婚の失敗を通してだんだん妹と仲が良くなっていくという単純な話だった。一方、「姉」のバイアットが書いた『ゲーム』は、「生真面目な姉」と「お気楽で要領の良い妹」という対比では、お姉さんのほうが良い人に描かれていると言えなくもない。でも、姉カサンドラも相当に意地っ張りだったりするので、どっちか一方が良い人で、もう一方が悪い人みたいに単純に割り切れるとは言いがたい。『ゲーム』の中で妹ジュリアは、「カサンドラとあたしだってもちろんある意味では一人の複合的人物で、それがいわば二人に分裂したんだわ」(p.179)と言うが、まさにそういうことだろう。つまり、カサンドラとジュリアは、二人とも作者バイアットから派生分裂したキャラクターであって、ジュリアのモデルがドラブルで、カサンドラはバイアットだ、というような作者の実生活と直接結びつける解釈はちょっと無理がある。

 読んでいて気がつくのは、どうやら登場するあれこれの事物が象徴的に扱われているらしいこと。例えばヘビ。サイモンは爬虫類研究者なのでヘビに関するコメントが頻繁に出てくる。そしてとくにヘビの脱皮、つまり古い皮をはいで新しい皮になりかわることの記述が、古い自分から新しい自分へと生まれ変わるという含意でも使われているように僕は感じる。あと、カサンドラが折々に訪れるガラスの温室。彼女が気晴らしに行く場所なのだろう…くらいのイメージで読んでいたが、やがてこれが日本語で「温室育ち」という言葉の意味合いと同じイメージが込められていることに気がつく。つまり必ずしも自分が「生存適者」だと感じられていないカサンドラが、競争の無い「自然淘汰」を避けられるからこそ、外界ではない温室の居心地がいいのだ。

 こんな感じのわかりやすい例のほかにも、網のイメージ(漁師の網、蜘蛛の網、ネットワーク)、鏡のイメージなども、小説全体を通して幾度も繰り返される(「鏡が割れ、蜘蛛の巣は飛び去った」p.249)。まさに象徴の迷宮という感じの小説だが、何が何を表しているのだろう、なんて考え始めてしまうときりがない。こういうときに、僕はアイリス・マードックの代表作『鐘』を翻訳した丸谷才一さんのあとがきをいつも思い出してしまう…「とにかく、読者はこの長篇小説の世界にひたって、人間の出会いと別れの哀れふかい物語を味わっていただきたい。鐘が何の象徴かという議論などは、そのことにくらべるならばまったくつまらぬ話にすぎない。*2」おっしゃるとおりではないか。『ゲーム』においてもまた然り。

響きあうイギリス文学

 この小説のタイトルは、カサンドラとジュリアは子供の頃、粘土の人形で駒を作り空想上のボードゲームを楽しんだことから由来する。布の上に山や川、町や城を描き、二人はストーリーを作り上げた。

しかし後になると、盤の上の駒の動きよりは、陰謀とか誤った愛、永遠の憎しみといったものを記録することに力点が移っていった。こうしてカサンドラは、クイーン・モルガンの恋愛を歌ったバラッド形式の長い詩を書き、ジュリアはアストラートのエレインの、到底かなうべくもない恋の情熱のあらゆる段階を記録したのだった(p.54-5)

子供時代、姉妹がこのようにして作り上げる空想上の壮大な物語といえば?――ヒントは、『ゲーム』での姉妹の実家もヨークシャーだし、バイアットとドラブルの実家もヨークシャーであること――そう、もちろん、ブロンテ姉妹。彼女たちがヨークシャーの孤立した世界で紡ぎあげた「アングリア物語」の世界そのもの。小説『ゲーム』には、こっちの方向での「姉妹」のイメージも広がっている。

 そしてもうひとつ。姉カサンドラが主催するオクスフォードでの晩餐会で、ジュリアは姉の姿を見ながら、「あたしたちはエリザベス朝と石器時代の中間みたいなところを時代背景にした、下手な現代的演出のゴネリルとリーガンみたいだわ。あたしたちが必要としているのは、あの純白なギリシア的なコーデリアなのだわ」(p.138)と思う。さらに、カサンドラの死後、ジュリアとカサンドラの二人の気を引いていたサイモンは「しかしエドマンドは愛されたのだ」(p.287)とつぶやく。『リア王』のこの部分は、


Yet Edmund was beloved:
The one the other poison'd for my sake,
And after slew herself.


しかしエドマンドは愛されたのだ。
おれのために一人は他方を毒殺し、
そしてもう一人も自殺してしまったが。


と続く。エドマンドをめぐる二人の姉妹。カサンドラは死に、ジュリアは生き残るが、ジュリアもまた新しい生き方を始めていくだろうと語り手が述べるところで、小説『ゲーム』は幕を閉じる。

*1:池田栄一、篠目清美訳『シュガー』白水社1993、p.318

*2:アイリス・マードック『鐘』丸谷才一訳、集英社文庫、p.422-3