ジュリアン・バーンズ 『太陽をみつめて』

(加藤光也訳、白水社 1992)
〔Julian Barnes Staring at the Sun 1986〕

ご活躍中の方々

「イギリスの最近の男性作家で…最近って言ってもいろいろあるから…そう、戦後生まれの作家で、おススメは?って、訊かれたら誰かな」
「それって、マニアックな意味で?」
「いやいや、英語じゃないと読めないようなやつじゃなくて、翻訳があって、比較的普通に本屋さんで買えるような、そういう入手しやすいおススメ作家」
カズオ・イシグロじゃん、無難に答えるなら」
「いまや世界的な売れっ子作家だしね。でも、名前はさておき、彼の作品は素晴らしいけど、それほどイギリスらしさみたいなところを感じないね。もっと、イギリスの小説を読んだ!と思わせるような人がいいな」
「『日の名残り』は超イギリス的だよ」
「そうかなあ、あれはそのフリをしているだけだと思うけど」
「じゃあ、サルマン・ラシュディ?」
「だからー、もっとイギリスっぽい本で! もちろん『真夜中の子供たち』が傑作だってことは認めるけどさ。それに、ラシュディの本ってあんまり本屋さんで見かけないよ。もっと普通に買いやすい人。そうだなあ…ピーター・アクロイドとか、イアン・マキューアンはどう?」
「アクロイドのほうはあんまりピンとこなかったけど、マキューアンはまあいいんじゃないの。『アムステルダム』は拍子抜けだったけど、『贖罪』はよかったよ。でも、僕のおススメかというと、ちょっと違うなあ」
「じゃあ、そのおススメは誰? マーティン・エイミス? グレアム・スウィフト?」
ジュリアン・バーンズが、やっぱり僕は好きなんだよね」


(ご参考)
ジュリアン・バーンズ(1946年生まれ)
サルマン・ラシュディ(1947年生まれ)
イアン・マキューアン(1948年生まれ)
マーティン・エイミス(1949年生まれ)
・ピーター・アクロイド(1949年生まれ)
・グレアム・スウィフト(1949年生まれ)
カズオ・イシグロ(1954年生まれ)

『太陽をみつめて』

 ジュリアン・バーンズ(以下「JB」)で僕がいいなあと思うのは、二つの意味での「おもしろさ」、つまり知的におもしろくて(interesting)で、かつ、読んでいて楽しいおもしろさ(funny)があるところ。頑固に真面目一徹な小説もそれはそれでいいのだけど、やっぱり多少疲れるのは否めない。僕は仕事の合間や、通勤電車の中、あるいは夜寝る前に布団のなかでゴロゴロ読書する。だから、肩の力の入らない、どちらかといえば楽しい読書がしたくなる。そういうものではないか。仕事が終わって、多少うんざりしたような気分でなんだか楽しい気分転換がしたいのに、突如ウィリアム・ゴールディングとかを読み出しちゃったりすると――とくに『後継者たち』とか『可視の闇』とか――持病の頭痛がぶり返してしまう恐れが高い。バファリンの飲みすぎは僕の健康上も財政上も(薬代もバカにならない)よろしくないので、こういうときは、程よく知的で、程よく楽しい本がいい。例えば、ディヴィッド・ロッジのような。

 JBの作品の中でも、『フロベールの鸚鵡』と『101/2章で書かれた世界の歴史』はまさに才気煥発という感じで、知的な側面が強く、ビシバシとした皮肉がきいている。以前にこのブログでも書いたけど、『フロベールの鸚鵡』には試験問題から成る一章もあったりして、「小説」という形式が、実はなんでもありなんだなと感じさせる、まさにポストモダンな作品。『101/2章で書かれた世界の歴史』もまた同様で、多彩な文体が入り混じっているのが読みどころ。今回紹介する『太陽をみつめて』は、逆に、以前紹介した『イングランドイングランド』に近い、JBの中ではどちらかといえばおっとりとした作品。『フロベール…』や『101/2章…』と比べれば、格段に読みやすい。両者とも、一人の老齢の女性が自らの人生を振り返っていくという構成は共通している。

 『太陽をみつめて』を読み始めて「やっぱりJBは上手いよなあ」と思ってしまった。彼はプロの作家なのだから、小説の書き方が上手いのは当たり前なのだということは十分にわかっているけど、それでもやっぱり彼は上手いなあとしみじみ思う。特に第一部と第二部まで、そしてここで描かれる女性主人公ジーン・サージャントのキャラクタライゼイションが素晴らしい。(第三部に入ると若干読みづらくなる。)どういうふうに素晴らしいのかというと、小説の最初のほうに描かれるあれやこれやのエピソードの扱いかたがとてもいい。このいくつかのエピソードが『太陽をみつめて』という小説全体を通して、形を変えて、折々に意義深く思い出されるようになっているのだ。このように書いて一体何が言いたいのかは、実際に読んでいただかないと伝わりづらいのだけれども、例えばこういうこと。

 小説の冒頭、まだ七歳の少女だったジーンは、おじさんのレズリーからクリスマスプレゼントとしてヒヤシンスの鉢植えをもらう。僕も小学校のときヒヤシンスを育てたけど、ヒヤシンスとかチューリップとかクロッカスとか、ああいう植物は晩秋に球根を埋めて越冬させておくわけだ。すると春になる頃芽を出し、やがてきれいな花が咲く。ジーンがもらったヒヤシンスの鉢植えは茶色い包み紙に覆われているが、ジーンはそっと中をのぞく。すると、まだ時期はクリスマスなのに四本の小さな芽がもう出ていた。でもレズリーおじさんは、ヒヤシンスの成長に悪影響があるからと言って、春になるまで包み紙の中を見ないようにとジーンに言う。そして次の年になり、ジーンが二月にのぞいて見ても、三月にのぞいて見ても、ヒヤシンスはその四本の芽のまま成長しない。しびれをきらしたジーンがついにこのヒヤシンスの鉢を掘り返してみると、なんとそれは逆さに埋められた四本のゴルフのティーだったのだ。これがエピソードの一例。

 その後ジーンは成長し、大人になり、結婚する。ずっと子供ができず、てっきり子供ができない体なのだと諦めていたのに、結婚から二十年が経ったとき、彼女は突然妊娠してしまう。この場面でJBは上記のエピソードを読者の前に持ち出してくる。素直で単純なジーンはこんなことを考えるのだ。

がっかりさせられたレズリーおじさんのヒヤシンスのことを思い出した。そうだ、ことによるとゴルフのティーからだって芽が生えるかもしれない。なんといっても木でできているのだもの(p.109)

 レズリーおじさんとジーンとの楽しいエピソードのひとつ、くらいに思って読んでいたのに、そこから百ページくらい読み進んだあとで、ヒヤシンスの挿話はこんなふうにジーンの不妊や奇跡的妊娠と結びついてしまう。上手いなあと感心してしまう。そして、この種のエピソードが随所で効果的に繰り返され、小説全体をおもしろおかしく、そしてしんみりと味わい深いものにしている(「サンドウィッチ博物館」「ミンクの生命力」などのエピソード。)ちょうど、『イングランドイングランド』で「主の祈り」が何回も繰り返され、印象的なフレーズとなっていたのと同じように。

問い続ける人生

 舞台は近未来。二十一世紀もだいぶ過ぎ、百歳を迎えようとしているジーンはいまだに「ミンクがなぜ並外れて生命力が強いのか」わからない(これはジーンが十歳になる頃から抱き続けてきた疑問という設定になっている)。社会にGPCというコンピューターが普及し、息子のグレゴリーがこのコンピューターに向かって、母に代わりこの疑問を投げかけてみたが、GPCもまたこの問いに答えることができなかった。GPCは、こういう答えられない質問を「本当の質問ではありません」と逃げてしまうのだった。グレゴリーからこの結果を聞き、ジーンは考える

でも、本当の質問ってなにかしら、と彼女は思った。本当の質問というのは、訊かれた人間がすでに答を知っているような問いにかぎられている。もし父さんやGPCが答えられれば、それは本当の質問だったことになるけど、もし答えられなければ、まちがった前提に立ったものとして無視されてしまう。なんて不公平なのだろう。なぜって、そうした、本当の質問ではない問いの答こそ、こちらにしてみれば、是が非でも知りたい答なのだ。自分は九十年もミンクのことを知りたいと思ってきた。父さんも駄目だったし、マイケルも駄目だった。そのうえ、こんどはGPCまで逃げようとしている。万事がこうなのだ。知識には本当は前進などというものはない、ただそう見えるだけだ。大切な問いには、いつも答えが出ないままなのだ(p.216-7)

 小説を教訓的に読む必要は断じてないのだけれども、JBの作品はおもしろおかしいだけではなく、読者を考えせしめる内容にも富んでいる。「大切な問いには、答えが出ない」…だからこそ「大切」なのだろうと僕は思う。