J.M.クッツェー『夷狄を待ちながら』

(土岐恒二訳、集英社文庫 2003)
〔J.M.Coetzee Waiting for the Barbarians 1980〕

タイトルの翻訳

 今回もそうだけど、英語で書かれた小説(とくにイギリス圏のもの)を、僕は日本語で読んでいる。そして読んでみて「これはいい!」と思った本は、できるだけ英語のペイパーバックも揃えたくなる。別に翻訳を信用していないからではない。たまに読みづらい訳文の本もあったりするが、原則的には、翻訳であっても作品の本来のテイストをちゃんと伝えることが可能だと経験上わかっている。でもやっぱり気に入った本なら、作者自身の言葉による真正の味わいを楽しんでみたくなる。だからペイパーバックも買ってしまうわけだ。それが本棚のこやしになる運命かもしれなくても。

 翻訳の良し悪しは原文に接する機会がないとわからないが、作品のタイトルがどう訳されているかくらいは何を読んでも必ず見ることになる。「小説の題名はテクストの一部――まさに我々が目にする最初の部分――であり、そのため読者の注意を引きつけ、その方向を決定づけるだけの力を持っている」*1のだし、そしてその結果、本の売れ行きという商業的成功の可否を大きく左右するわけで、翻訳でも思案どころのはずだ。

 僕の印象だと翻訳小説の九割以上が、とくに手も加えず、元のタイトルを直訳したままのものだと感じる。『鳩の翼』、『ユリシーズ』、『時計じかけのオレンジ』…など。一方でまれに、がんばって新しいタイトルを作ってみた翻訳も見られる。クリストファー・イシャウッドの小説『Goodbye to Berlin』(1939)は『救いなき人々』(中野好夫訳、文芸春秋新社、1952)という題に、同じくイシャウッドの『Mr. Norris Changes Trains』(1935)は『山師』(吉田健一訳、文芸春秋新社、1952)という題がつけられている。いずれも昭和27年に出版されたもの。こういう内容を踏まえたタイトルは、一昔前の訳書に多い。たしかに『ベルリンよさらば』ならばまだ日本語でもタイトルらしい感じがするが、『ノリス氏が列車を乗り換える』ではタイトルとしてちょっとどうかなと思わなくはない。いずれにせよ中野好夫氏も吉田健一氏も、両名とも泣く子も黙る高名な翻訳者であるわけで、誰も文句はつけないだろうと思う。(ちなみにクリストファー・イシャウッドはぜひともこのブログで取り上げたいと思う作家。)

 問題は、タイトルをそのまま翻訳するということが、実は簡単ではないことだ。エドナ・オブライエンの『The Country Girl』(1960)をどのように日本語にするか。『田舎娘』がいいか、『カントリー・ガール』にするか(実際の出版は後者…当然か)。ジョイスの『Dubliner’s』(1914)だって、厳密には『ダブリン市民』ではないぞと思う。ブリジッド・ブローフィには『The Snow Ball』(1964)という作品があるが、これが、とある本では『雪つぶて』と紹介されているが、丸谷才一氏の翻訳では『雪の舞踏会』となっている。僕は以前から、誰かヘンリー・グリーン(1905-1973)の小説を翻訳してくれないかなあと待っているのだけど、彼の『Living』、『Loving』、『Party Going』、『Concluding』などの作品は、みんなこんなに簡単な単語のタイトルなのに、まず邦題をどうするか考えることから頭を悩ませることになるのだろう。まあ、最近の安易な傾向からいえば『ラヴィング』とか『コンクルーディング』とかにするのだろうけど。でも『リビング』だと、本屋さんの中で海外文学コーナーに置いてもらえる保証はない。

 さて、今回の主役の登場が遅くなったが、南アフリカ出身のノーベル文学賞作家、J.M.クッツェーによる『夷狄を待ちながら』もまた、ちょっとタイトルがひっかかった。元のタイトルは『Waiting for the Barbarians』という。高校の世界史の授業を思い出すが、「barbarian」はもともと古代ギリシアの「バルバロイ」(「わけのわからない言葉を話す人」の意)という語に端を発する。転じて「野蛮人」という意味。一方の「夷狄」は、これまた世界史の勉強を思い出すが、昔の中国で周囲の異民族を指すことば。匈奴とか突厥とかいろいろあった、あれ。「夷狄」は「いてき」と読むが、少なくとも僕のパソコンはこの言葉を変換しない。また本屋さんで取り寄せ注文を頼んだが「これって何と読むんですか」と聞かれた。ふつうはあんまり使わない言葉だ。タイトルが『蛮族を待ちながら』ではまずいのだろうか(僕はこれが一番ふさわしいと思うのだが)。蛮人とか土人とかは、最近は使っちゃいけない言葉なのかもしれない。「夷狄」という言葉だと、使用頻度が低いせいか、「barbarian」にはない妙な品格が出てしまうような気がする。読んだ方ならわかるが、この本は時代や場所の設定が不明確なので、こういうタイトルからもイメージがわいてしまい、僕はずっと古代中国の辺境地域がストーリーの舞台のように思えてしまった。

ある種のユートピア小説

 またまた昔の話だが、たぶん中学校くらいの頃、作文は「5W1H」を明確に書きなさい、と教えられた。Why、What、Who、Where、When、Howというあれだ。いつどこで誰が何をどうやって…をはっきりさせると、物事がわかりやすく伝わるらしい。パターンにがっちりはめ込んだ文章を書きたい人には、なかなか適切な指導法だろう(←僕の批判的なニュアンスをちゃんと汲みとって)。当然、小説のような創作には不向きな文章作法だが、小説にだって一応設定というものはある。いつどこで誰が出てくる話か、そのくらいははっきりさせてもよい。

 そこで『夷狄を待ちながら』をこのやり方で説明してみる。まず、いつ?…いつだかわからない。どこ?…どこだかよくわからない。どこかの「帝国」の辺境の町ということになっている。誰が主人公か?…「私」という、この村の年老いた行政官。名前は出てこない。いつの時代のどこの場所だかよくわからない設定…そういえば、nowhereという語をさかさまにして『エレホン』というタイトルのユートピア小説があったように(サミュエル・バトラー作、というか、「ユートピア」という語自体が「どこにもない場所」という意味)、僕にはこの小説がユートピア的傾向を帯びていると感じた。あるいは非常に寓意的な感じがしたと言ってもいい。

 さらに、首都から遠く離れた「帝国」の辺境にあるオアシス村落が、非常に孤立した場所として描かれていることもユートピア文学の風合いを想起させる(ユートピアと言っても「理想郷」の意味ではなく、トマス・モアから連綿とつらなる一連のジャンルのこと)。また、寓話的な小説も、ウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』みたいに、時間的・位置的に外界から孤立しているというか、あいまいに描かれていることが多い(ような気がする。ちゃんと証明したわけではないので)。

 大まかには次のようなストーリーが展開する。「私」が民政官として治める静かな辺境の町に、帝国の治安警察の大佐が訪れ、最近「夷狄」たちが不穏な動きを見せていると語る。大佐は実際にこの夷狄の一部を捕らえ、拷問にかける。これまで夷狄たちとも平穏に共存してきた「私」は、大佐のこのようなやり方が、逆に両者の関係を悪化させるだけだと懸念する。「私」は拷問にかけられた夷狄の少女を自分の下に囲い、その後、彼女を部族のところへ自ら砂漠を進んで送り返す。このような経緯から「私」は治安警察側から「帝国」を守る最前線の町の統治者としてふさわしくないとして、囚われの身となってしまう。ところが、大佐が率いて、この町から夷狄征伐のための軍隊が出動するが、彼らが帰還せず、逆に敗北したらしいとわかると町の人々はパニックに陥り、残っていた一部の治安警察ともども、この町から去っていってしまう。「私」は囚われの身から再び自由になり、荒廃した町の中で、以前連れ戻した夷狄の女が、再び現れる日を想像している。

 寓話風と書いたように、なんだかお説教めいた主張らしきものが、読み取れなくもない。表面的には「武力による紛争の解決反対」みたいなメッセージがちらつく。大佐が来る前は「ここは地上の楽園であった」(p.341)のだが、一連の経緯でこの楽園は破壊されてしまう。さらに「環境問題」のメッセージ性も読み取れなくはない。軍隊が草原の焼き払いを行ったのだが、これにより砂漠化が進んでしまう点を主人公の「私」は指摘している。「ひとたび大地が丸裸にされてしまうと風が表土を吹き飛ばして風蝕作用が起こり、砂漠化が進行するということを、彼らは気にかけていない。このように夷狄征伐の遠征軍は、大地を荒廃させ、われわれの世襲財産をいたずらに荒地と化しながら、会戦の準備をしているのである。」(p.186)こんなふうに、現代的な地球の課題を小説という形でさりげなくうまく提示してきた点が、ノーベル賞選考委員たちの心象を良くしたのかもしれない。

不毛さ

 しかしこの小説は、小太りの初老の男である「私」が、自分の言うなりになる若い女を囲って一緒に寝てみたり、娼婦と会って欲望を解消させたり…という物語でもある。決して高邁な物語ではない。「私」には家族がいないし、子供も当然いないという設定になっている。でも、男というのは、何かを後世に残したいと思う種族らしい。軍隊が逃げだして、すっかりさびれたこの町で、「私」はこのように語る:

かつて砂漠の廃墟に住んでいた民への挨拶の身振りとして、われわれもこの入植地の記録を後世に残すために、わが町の城壁の下に埋めておくべきかもしれない。そうして、そのような歴史を書くのに、われらが最後の民政官ほどふさわしい者はあるまい。(p.340)

じゃあ「私」はきちんとこの町の歴史をまとめて後世への記録を残すのかというと、一転、彼はこの考えを「私ほど回顧録を書くのに不適任なものはいない」(p.342)として、取りやめてしまう。代わりに、この町が入植者によって建設されるずっと以前に、かつてこの地に栄えていた人々が残した解読不能の木簡を(この考古学的な発掘物である木簡を彼は趣味で収集していたのだった)、また元の場所へ埋め戻そうと彼は決意する。

 僕が注目するのは、この「私」という人物のいわゆる不毛さが『夷狄を待ちながら』に現れているところ。彼は自分自身の子供も後世に残せないし、何か書いたもの(著作)も後世に残すことができない。ああ、そういえば…僕は、ここでまた思い出してしまう…そう、『ミドルマーチ』のあのカソーボン氏のことだ。彼はドロシアとの結婚から、結局自分の子孫を残すことができなかったし、そしてがんばって取り組んでいた著作『神話学全解』も残念ながら完成させることができなかった。彼の死後、残されたドロシアも『神話学全解』の原稿をまとめて出版することができなかった。『夷狄を待ちながら』の「私」と『ミドルマーチ』のカソーボン氏に共通する、何も残せないという不毛さ。さらに加えれば、彼らが二人とも初老で、外見がどちらかといえば優れているとは言えないところも共通している。

 では、子供を残せない男が書物も残すことができないというパターンが確立するのかといえば、話はそんなに単純ではない。E.M.フォースターの小説『果てしなき旅』(1907)では、主人公のリッキーは子供が残せないが(赤ちゃんが生まれてすぐに死んでしまう)、彼の死後、リッキーの詩集はちゃんと出版される。そういえば、最近読んだ本だと、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』では、ラムジー氏はすでに著作を出版していて、子供もたくさんいる…こういうパターンもあるわけだ(その代わり、ラムジー氏は自分の死後の名声をとても気にしている)。いずれにしても、僕は登場人物の?美醜と、?子供がいるかどうかの設定、そして、?著作を残しているかどうか、の三点の要素が、何を読んでも以前から気になってしまう。シンプルなかたちにまとめることはできないのだけど、何かしらの関係性があるような気がするので。またこれには、小説の作者の性別も関係していると思う。

ペイパーバック版を購入?

 今回もまたあれやこれやと書いてしまったが、えーと、『夷狄を待ちながら』については、今のところペイパーバック版を買うつもりはありません(これがどういう意味かは冒頭に書いたとおり)。この小説に限っていえば、僕の好きなテイストとはちょっと違う。意外とあっさり読めてしまうし、深みみたいなものがずっしり感じられる本ではない。彼のビブリオグラフィーを眺めていると、『エリザベス・コステロ』のシリーズとかもおもしろそうだ。あと、彼はブッカー賞を初めて二度受賞した作家でもある。1983年の『マイケル・K』と1999年の『恥辱』、こういうのも機会があれば試してみたいところ。

*1:デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』白水社、p.261