マーガレット・ドラブル『夏の鳥かご』

井内雄四郎訳、新潮社 1973)
〔Margaret Drabble A Summer Bird-Cage 1963〕

兄弟姉妹

 『夏の鳥かご』は、1939年生まれで今年68歳になるマーガレット・ドラブルが24歳のときに出版した彼女の処女作。1963年の発表ということは、現在から四十年以上も前の小説。ちなみにこの十年後に日本語の翻訳が出版されたが、その年に僕も生まれた。手許にあるこの本が、僕と同じ齢を重ねているとわかるとちょっと親近感もわいてくる。『夏の鳥かご』は基本的にはシンプルな話で、ルイズ(Louise)とサラー(Sarah…たぶん、もっと正確には「セアラ」?)という姉妹が登場し、妹サラーが、姉ルイズの結婚が破綻していくようすを語るというストーリー。別にこみいった伏線も仕掛けもない。いつもルイズに圧倒されていたサラーが、金銭その他、愛情以外の動機で結婚した姉の失敗を経て、姉からも解放され、自分の恋愛意識も成熟していく…こんな感じだろう。

 ご存知のとおり、作者マーガレット・ドラブル自身もお姉さんがいて、この姉もまた有名な作家であるA.S.バイアット。三歳年上のお姉さんアントニアがケンブリッジのニューナム・カレッジを優等で卒業すると、妹マーガレットもまた同カレッジを優等で卒業する(『夏の鳥かご』の姉妹の場合は二人ともオクスフォードを出ている設定)。二人とも英文学を専攻。二人揃ってどうして同じケンブリッジに進んだのだろうと思うけど、そのあたりはいろいろ愛憎関係もあるのだろう。僕には弟がいるのだが、大学は別々になったものの、中学校ではなぜか僕と同じ部活動に入部してきたし、さらに僕と同じ高校に進学してきて、ここでもまた僕の所属していた部活動に加わった。僕の足跡をなぞってきた彼が、果たしてどういうつもりだったのか僕にはよくわからないし、尋ねてみたこともない(他に選択肢がなかったからかもしれないし、不明の分野に飛び込むよりも家族に先達がいるほうが楽だったからかもしれない)。でもこんなふうに、弟の気持ちは「よくわからない」とあっさり言いのけるところこそ、兄という立場の傲慢さの表れなのだろう。年下の妹弟を理解しようという態度の欠如、これは『夏の鳥かご』でルイズが示す態度でもあるし、『ミドルマーチ』でドロシアにやや見られる点でもある。

 妹や弟からしてみると、姉や兄というのは「偉そうにしていて…」と思われるのだろうが、逆に僕自身の立場でもある兄とか、または姉という立場からすれば、妹や弟は「要領が良くて、かわいがってもらえて、甘え上手で…」みたいなイメージに映る。A.S.バイアットのほうは、僕の印象だと、苦心して悩みながら小説を書き上げるイメージなのだが(あくまでも僕の印象)、マーガレット・ドラブルはいわゆる「流行作家」で、世の風俗を上手に書き上げていく感じがする。妹や弟が、姉や兄の顔、あるいは両親を始めとする大人の顔色を伺うのに長けているように(兄たる僕にはこういうイメージがある)、妹のマーガレット・ドラブルのほうが、バイアットお姉さんよりも人間の細やかな心の機微、とくに男女間の心の動きの描写は鋭い。一方のお姉さん、A.S.バイアットのほうは、あの大作『抱擁』のように、時間をたっぷりかけて研究し、苦心して書き上げました…というような小説が上手そうな気がする。

 弟は、兄から優しく話しかけてもらえると嬉しいものなのだろうか。僕にはこのあたりの気持ちはよくわからないが(また「よくわからない」と書いてしまった)、『夏の鳥かご』の中で、姉のルイズが自ら夕飯のスパゲッティを作ってくれて、それを二人で一緒に食べて過ごした時間を、妹サラーはこのように描写している:

スパゲッティはとてもおいしかった。食事がすむと、わたしたちはまた居間に行き、またシナトラをかけた。こうして坐りながら、わたしは紋切り型の魅力的なシーンに感動した。仲よくのんびりと夕べを過ごす二人の姉妹。それは『ミドルマーチ』かジェイン・オースチンの作品の中から抜け出したようだった。(p.207)

 『夏の鳥かご』全体をとおしての一番の読みどころは、こういう姉妹間の感情が徐々に変化していく様子ではないかと思う。姉の結婚の失敗が明らかになることとか、一方、妹サラー自身の恋愛はどうなるのかといった表面的なストーリー展開は、こういう姉妹の心の動きを語るための道具にすぎない。小説の始めの頃だと二人の関係は冷たくそっけないものだった。サラーがパリから帰国して実家にいるルイズに電話をしても、ルイズは「まあ、帰ってきたの、うれしいわ」なんて言わず、ただ冷たい声で「ルイズよ」と言うだけ。そして「あなたの声が聞けてうれしかった、ありがと、電話してくれて」なんて言わず、ただ「じゃあね」と言って電話を切る。この姉妹が昔まだ小さい頃の、姉の妹に対する冷たい仕打ちが、彼らを「根本的な反感、長い間の猜疑心」(p.126)の関係にしてしまったのだった。

 ところが『ミドルマーチ』と同じように、新婚旅行に行ったローマで、新婦のルイズが一人で教会を観光しているところを目撃されるあたりから、サラーはこの結婚がおかしいと実感する。そして新婚旅行の帰国後、ルイズに愛人がいることを知り、やがてこの事実がルイズの夫にも暴露して結婚は破綻する。ルイズのこの危機をサラーは助けて、あんなに冷たかったルイズはサラーに対する態度を変える。そして最終的には「〔ルイズは〕今では心からわたしにやさしくする」(p.251)とサラーに語らせるまでに至り、この小説『夏の鳥かご』は幕を閉じる。めでたし、めでたし、という終わりかた。

ミドル・クラスの文学

 以前も書いたが、初期のドラブルの小説には設定に共通点がある。

  1. 若い女性(20歳代)が主人公
  2. どちらかというと、主人公は美貌の外見を持つ。また恋愛相手として容姿に優れた男性も登場する
  3. 主人公や周囲の人々は才能に恵まれていて、専門職や知的職業に就く能力がある
  4. 登場する人々は中流階級(ミドル・クラス)ないしは、中上流階級(アッパーミドルクラス)に属する

 『夏の鳥かご』でもこれらの要素はバリバリに健在で(というか、この作品が処女作なので、以後の作品がこの要素を敷衍している、ということ)、こういうふうに社会的に恵まれた人々のあれやこれやなんて鼻につくから読みたくない、という人もいるだろうと思う。最初に書いたように、この小説は発表から四十年も経過している。この小説を読むと、イギリスのこういう階層に人々の行動様式や価値観がわかってこういうところもおもしろいのだが、日本の四十年前を考えてもらえばわかるように社会も大きく変化したので、現在のイギリスにはここまであからさまな中流階級的世界はあまりないかもしれない。とくに『夏の鳥かご』の場合はとくに極端だと思うのだが、登場人物が仕事をしている場面というのが、ひとつもない(もちろんこれは登場人物たちが職業を持っていないということではなく、その仕事の場面が存在しないという意味)。美男美女が登場し、パーティーにつぐパーティー。みんな飲んで食べて、しゃべってばかりいるような印象。でもこの本は24歳の作家が描いた世界なのだ。このあたりは割り切って読んだほうがいい。

 あと『夏の鳥かご』でおもしろいのは、主人公のサラーがこの物語を「書いている」という設定になっていることだ。この小説の最後の部分は「こうして坐って最後のページをタイプで打っている頃…」(p.250)というフレーズから始まる。サラーは小説が書きたい主人公という設定なのだ。以前にジョンという登場人物から「きみは人生で一番何をしたいんだい?」と質問されて、こう答える。

「何よりも面白い本が書きたいわ。キングズリー・エイミスの『ラッキー・ジム』みたいな本を。あんな本が書けたら何だってしちゃう」(p.223)

 サラー・ベネット女史が書き上げた(という形になっている)この『夏の鳥かご』は、果たして『ラッキー・ジム』のように、「面白い本」になっているのかどうか。これは読んでみてのお楽しみ*1ということで。

*1:『夏の鳥かご』と『ラッキー・ジム』の関係については、Dominic Head, The Cambridge Introduction to Modern British Fiction, 1950-2000 (Cambridge University Press 2003)の86〜88ページの指摘がおもしろいと思いました。こういうのを勉強する方はどうぞ。