ヴァージニア・ウルフ 『灯台へ』

御輿哲也訳、岩波文庫 岩波書店 2004)
(伊吹知勢訳、ヴァージニア・ウルフ コレクション みすず書房 1999)
(中村佐喜子訳、新潮文庫 新潮社 1955)
〔Virginia Woolf To the Lighthouse 1927〕

宵から夜、夜から朝へ

 今回『灯台へ』を読み終えて、「やっぱり傑作だなあ」としみじみ思った。まず、構成が抜群に良くできている。それほど長い小説ではないけれども、大きく三部から別れていて、第一部は1910年頃、ラムジー家の別荘での夕方が舞台。夕方というか、英語で言うまさに「evening」の時間帯。第二部はみんなが寝静まった夜の場面から始まり、そこからビデオテープの早送りをするみたいに一気に時間が経過して、第三部は1920年頃、別荘の午前中(morning)のできごと。全体的にはたった一晩のできごとのような体裁を保ちながら、十年という時間の経過を描いている。これはおもしろい構成だし、こういうのを破綻をきたさずに描きあげるのは、まさにヴァージニア・ウルフの力技。

 構成ばかり考えた小説は中身がつまらなかったりすることもあるが、『灯台へ』は内容もおもしろい。ヴァージニア・ウルフの必殺技「意識の流れ」の技法を通して、登場人物の心の動きを読んでいくことになる。ラムジー夫妻の言葉にならない会話のやりとり(つまり、お互いの顔立ちや振る舞いから相手の気持ちを読み取っていく)などは、この本の読みどころだと思う。例えば、こんな感じ:

ラムジー氏に向かって〕ねえ、どうしていけないの、と夫人は問いただす。欲しいとおっしゃるなら、スープくらいあげたっていいじゃない? だが食欲におぼれる連中を見るのは嫌なんだ、とラムジー氏は再び顔をしかめてみせる。何事であれ、こんなに長時間だらだらと無意味に続くことも、好きにはなれない。それでもどんなにうんざりする光景を見ても、ちゃんと自分の気持ちを抑えていたのは、見ていてくれただろう? だけどあなたの表情には、十分露骨に出てますよ、と夫人は追及する(二人は長いテーブル越しに相手を見ながらこのやりとりをしたのだが、それぞれお互いの感じていることを正確に理解していた)。(岩波文庫版、pp.179-180)

 ストーリー(というか、ストーリーらしい筋の展開などは何もない)の一番の盛り上がりは、上の引用部分もある晩餐の場面だろう。ここは例によって「全員集合の場面」になっていて、登場人物たちが一堂に会し、三日間も煮込んで作ったという「牛肉の赤ワイン煮(ブフ・アン・ドーブ)」をみんなで食べるのだ。これは本当においしそう。実際に食べられるわけではないが、僕がイギリス文学で読んだ料理のうち、おいしさではこれがトップだろう。E.M.フォースターも評論集『民主主義に万歳二唱』の中の「ヴァージニア・ウルフ」で、この場面を絶賛している。

 詩的情緒の美しさも印象深い。ラムジー家の別荘の場所はスコットランド北西、ヘブリディーズ諸島のひとつ、スカイ島に設定されている。スカイ島…ガイドブックとか読んでみてもらえばわかるが、夏に訪ねるなら、イギリスで最高の場所のひとつだと僕は思う。荒削りな自然と、美しい水と緑。ウィスキーと古城。向こうに住んでいるときに、行ってみようと思った場所のひとつだったが、結局行けずじまい。ところでヴァージニア・ウルフは小さい頃、セント・アイヴズにある別荘に毎年夏、家族で過ごしていて、このときの思い出が『灯台へ』のモデルになったらしい。(なので、ラムジー夫妻は、ウルフの両親がモデルになっている。)セント・アイヴズは逆にイギリスの南西の端コーンウォルにある、これまた風光明媚なところ。スカイ島の荒々しさに比べれば、ずっと穏やかな印象の場所だが、ここも僕は行きそびれた。(行きそびれてばかり。)こんな具合で、小説に描かれる周囲の情景に加えて、スカイ島とかセント・アイヴズがどういうイメージの場所かわかってもらえれば、『灯台へ』の美しさをより一層感じてもらえそうな気がする。

翻訳の問題

 ヴァージニア・ウルフはとかく難解と言われて、場合によっては読まずに敬遠されてしまう。僕もまた『灯台へ』を長らく(約十年)敬遠していたが、今回岩波文庫版で読んだ『灯台へ』はわかりやすい翻訳で、すんなりと読むことができた。ブログの冒頭に挙げたほかの二つの翻訳は、僕にはかなり読みづらい。ただし、ウルフの場合、英語の原文自体が読みづらいので(少なくとも僕の英語力だと)、読みやすい翻訳文というもの自体がありえるはずがない、というか、ちょっと問題ありなのかもしれない。

 ここで突然だが出題。下記の英文を翻訳せよ。

"Yes, of course, if it's fine tomorrow," said Mrs Ramsay. "But you'll have to be up with the lark," she added.

To her son these words conveyed an extraordinary joy, as if it were settled, the expedition were bound to take place, and the wonder to which he had looked forward, for years and years it seemed, was, after a night's darkness and a day's sail, within touch. Since he belonged, even at the age of six, to that great clan which cannot keep this feeling separate from that, but must let future prospects, with their joys and sorrows, cloud what is actually at hand, since to such people even in earliest childhood any turn in the wheel of sensation has the power to crystallise and transfix the moment upon which its gloom or radiance rests, James Ramsay, sitting on the floor cutting out pictures from the illustrated catalogue of the Army and Navy stores, endowed the picture of a refrigerator, as his mother spoke, with heavenly bliss. It was fringed with joy.

これが『灯台へ』の冒頭。ヴァージニア・ウルフの文章は長いのが多いけど、ここでもとくにSinceからの一文がとても長い。これを突然与えられたら、僕は読む気力が失せそうだ。ということでまずは解答例その一、新潮文庫版:

「ええ、もちろんよ、あしたお天気さえよければね」とラムジイ夫人が云った。「でも、そうすると、あなたはひばりと一緒に起きなきゃならないのよ」とつけ足した。
 この言葉が子供には、息づまるような喜びをあたえた、もう遠足がまちがいなく実行されると思いこむほどに。もう長年という気がする位、待ちに待った素晴らしいことが、暗い夜を今晩一つすごして、あと一日の船に乗りさえすれば、すぐ手のとどくところにあるのだ。ジェームズ・ラムジイは、まだ六つだけれども、生まれのよい一連の人々にあるように、いろんな感情を分離させることができず、その先に予想する喜びや悲しみによって、現実の身近な事どもがすべて左右されるたちであり、またそんな人々にあっては、ほんの幼い時から、めまぐるしく感じる刺激の車輪の廻転につれて、暗鬱であったり光輝にみちたりするその瞬間を、結晶させ固定させてしまう力を持つものである。だから、いま床にすわって、陸海軍ストアのカタログから絵を切り抜いていたジェームズは、母のその言葉をきくと、冷蔵庫の絵を、心をこめて祝福したのであった。それは喜びにふちどられた。 

解答例その二、みすず書房版:

「ええ、きっと、あしたお天気だったら」とラムゼイ夫人は言って、それからつけ加えた。「でもうんと早起きしなければね。雲雀と一緒にね」
 息子はこの母親の言葉に、もう燈台行は決ったかのような喜びようであった。幾年月も期待して待った素晴しいことは、一夜の闇と一日の船旅のあとに、すぐに手のとどくところまで来ていた。この子は六歳で世に多くいる感情家の仲間で、この感情をあの感情からきりはなしておくことは出来なかった。未来の予想にまつわる喜びも悲しみも、現実の身近なものに影をおとした。この仲間はごく幼少の頃から、感覚の歯車の廻転が、輝きであれかげりであれ、その瞬間を結晶させてくぎづけにする力をもっているのである。ジェイムズ・ラムゼイはゆかの上に坐って「陸海軍百貨店」の絵入りカタログから冷蔵庫を切りとっていたが、この母親の言葉はこの冷蔵庫に天来の至福の光りを与えた。その絵は歓喜のふち飾りをつけた。

最後に解答例その三、岩波文庫版:

「そう、もちろんよ、もし明日が晴れだったらばね」とラムジー夫人は言って、つけ足した。「でも、ヒバリさんと同じくらい早起きしなきゃだめよ」
 息子にとっては、たったこれだけの言葉で途方もない喜びの因(もと)になった。まるでもうピクニックに行くことに決まり、何年もの間と思えるほど首を長くして待ちつづけた素晴らしい体験が、一晩の闇と一日の公開さえくぐり抜ければ、すぐ手の届くところに見えてきたかのようだった。この子はまだ六歳だったが、一つの感情を別の感情と切り離しておくことができず、喜びや悲しみに満ちた将来の見通しで今手許にあるものまで色づけしてしまわずにいられない、あの偉大な種族に属していた。こういう人たちは年端もいかぬ頃から、ちょっとした感覚の変化をきっかけに、陰影や輝きの宿る瞬間を結晶化させ不動の存在に変える力を持っているものなのだが、客間の床にすわって「陸海軍百貨店」の絵入りカタログから絵を切り抜いて遊んでいたジェイムズ・ラムジーも、母の言葉を聞いた時たまたま手にしていた冷蔵庫の絵に、自らの恍惚とした喜びを惜しみなく注ぎこんだ。その冷蔵庫は、歓喜の縁飾りをもつことになったわけである。

 どれも一長一短あるわけだが、岩波文庫版が日本語としては読みやすいような気がする。こういう比較をすると、イギリス小説を翻訳で読むことの問題も浮かび上がってくるが、ウルフに関してはやっぱり英語で読むのはそれなりの覚悟が必要だろう。英語のいい訓練にはなるだろうけど。