ジョージ・エリオット 『ミドルマーチ』 

(工藤好美・淀川郁子訳、講談社文芸文庫①〜④ 1998)
〔George Eliot Middlemarch (1872)〕

フルートを吹いた男、タイセイ

 小さい頃には習い事に行かされたりする。僕の場合はまず水泳。当時はかなり嫌々だったけど、今になってみると結果的には良かった。このごろも水に漬かるのが楽しくて仕方がない。次に習字。これも嫌々だった。先生に筆を取ってもらいながら書くと上手く書けるのに、自分ひとりで書くとどうしてあんなに下手になるのだろう。あとは、英語。小学校四年生から中学に入るまで続けた。これも面倒だなあと思いながら続けていたが、中学校から英語の授業が、おかげで超楽になったのは確か。勉強は出だしでつまづくとなかなか追いつくのが厳しいが、スタートダッシュを切れたのはよかったと思う。

 ここまでの水泳、書道、英語は、まあ、けっこうメジャーな習い事ではないかと思う。さてここで、あまり一般的ではない、もう一つの習い事をしていたことを紹介したいのだが、僕は今でもあの頃の気持ちが思い出せるくらい、とても嫌々続けていたのだった。それは、フルート。やっていたのは、たぶん二年間くらい。なぜ嫌だったのか…それは、僕の心の中で、フルートが女の子のやる楽器、というイメージだったから。元来おっとりした性格だったのに、それに輪をかけるようなこんなふうに男らしくない習い事…これは、茨城県の田舎の小学生にはかなりの致命傷に思えた。フルートなんてやっているなんて、みんなに知られたくなかったし、音楽塾に出入りすること自体、とても恥かしかった。今になって大人の視点から考えれば、別にそんなこと気にしなくていいじゃんって思えるけど、子供の理屈というのは、いったんこうだと思うと、なかなか頑なだったりする。

 今でもどうしても思い出せないのは、なぜフルートを習い始めることになったのかという理由。親がやったらと言って、僕が深く考えずにやると答えたのだろうか。自分からやりたいと言ったのだろうか。いずれにしても、それなりの金額がかかっただろうに、どうしようもなく嫌々続けて、そしてまったく上達せずにやめてしまったのだ。僕は恥かしさと申し訳なさで、今もって、両親の前でフルートの話をすることができない。一度発表会にも出た。あれほど緊張したのは、二十数年経過した現在でも、あれっきりだ。要するに僕は、練習しなかったのだ。だって嫌だったから。フルートは立って演奏するのだけど、ほんとうに足が震えた。 いつも教えてくれている先生がピアノの伴奏をしてくれるのだけれど、この伴奏と合わせられなくて、ステージの上で出だしを二回もやり直した。確か六年生のときだったと思うけど、両親には「絶対に聴きにくるな!!」と言っておいたが、実は密かに見に来ていたのかもしれない。子供の発表会なのだから。だとすれば、その後、この発表会のことを彼らは僕に一度も言及していないが、あの演奏を惨状を見て、それをとやかく言ったら傷つくだろうと想像し、黙っているのかもしれない。かわいそうな僕(笑)。

 考えてみれば、大人たちは僕に優しかった。たとえばあのフルートの先生。名前も顔も、そして、もはやどんな雰囲気の人だったかすら思い出せないのだが、彼女は僕のやる気のなさを確かに見抜いていた。もっと練習をしてこいとか、厳しいことはぜんぜん言わなかったと思う。家では練習しないので、毎週そのまま教室に向かっていたから、上達するはずがなかった。一度驚いたことに、学校の音楽の授業で使うリコーダー(縦笛)を教室へ持ってきなさいと言われたことがあった。そしてその日のレッスンは、普段フルートで吹く練習曲を、リコーダーで吹いたのだった。なんでリコーダー?と僕はいぶかしく思ったが、今ならあの先生の意図はわかる。自分が思い通りに吹ける楽器で、音楽を演奏する楽しみと歓びを、少しでも僕に感じて欲しかったのだ。嫌々やるのではなく、音楽を、そしてフルートを楽しんでもらいたいという、先生の僕への気持ち。にもかかわらず、中学校に入学して僕が「吹奏楽部に入ってホルンをやることに決めました」と報告したときの、先生の失望した様子。なぜフルートをやらないの?…僕がフルート教室をやめるのは、もはや時間の問題だった。

フルートを吹いた男、フレッド

 僕がこんなことを思い出したのも、『ミドルマーチ』の中にフルートを吹く男が登場するからだ。その名はフレッド・ヴィンシー。妹のロザマンドは、彼に向かって、こんなことを言う:

「実はね、お兄さん、フルートをよしていただけたら、と思ってるのよ。男のひとがフルートを吹いていると、ずいぶんばかに見えるのよ。それに、お兄さんはとても調子はずれですもの」(第一巻、p.210)

 当初、このフレッドという人は「ばかに見える」ようなキャラクターだ。ヴィンシー家という工場経営者の一家の長男に生まれたが、遊び好きでおしゃれ好き、金遣いも荒くて密かに借金も抱えている。大学かどこかへ勉強に行かされたが、聖職者になるための試験は、誰でも勉強すれば合格できる程度のものなに、あえなく落第。どこに出かけるにも歩いていくのは嫌で、自分の馬に乗っていきたがるタイプとのことだが、これは現代で言えば、クルマ好きということだろう。

 『ミドルマーチ』は人々の変遷、とくに主人公ドロシア・ブルックの、成長というか、人格の変遷を描いた小説のように思えるが、この遊び人フレッド・ヴィンシーの性格もまた物語の進行とともに変化していく。上に書いたように、どうしようもなく遊び人のフレッドが、だんだん真面目になっていってしまうのだ。彼はひょんなことからガース家の主人、ケレイブ・ガースの元に弟子入りして農業実務を学んでいくことになる。そして働きぶりが認められ、ケレイブの娘、メアリー・ガースとの結婚が認められ、その後二人は子供にも恵まれ幸せな家庭を築いたという。語り手の言葉を借りれば、フレッドは「更によいことに、フレッドはその後、道を踏みはずさずに、堅実な歩みを続けたのである」(p.375)…めでたし、めでたしのハッピーエンド。さらに可笑しいことに、このフレッドは後年、なんと書物まで著したことになっている。題して『緑野菜の栽培と家畜飼育の経済について』…そしてこの本は「農事関係の集会で非常な喝采を博した」(p.374)そうだ。ここで、かの一冊の書物、『神話学全解』にあれほど拘泥しながら、結局出版に至らなかったあの一人の男を僕たちは思い出す。かわいそうなカソーボン氏。

 フレッドは更正して真面目な男になり、幸せな一生を送ったとさ…でもここで、僕はちょっと待って、と思う。ジョージ・エリオットはフレッドという男を、社会的道徳的にOKになったキャラクターとして描いている。でもこれでは、ドロシアというキャラクターの変遷と矛盾してしまうではないか。

 ご存知のとおり、ドロシアというのは他人がなんと言おうと、自分が正しいと思ったことに突き走っていく女性として描かれている。ラディスローと再婚すると決めたとき、カソーボン氏との結婚の時と同様、周囲はまたもや猛反対するのだが、彼女は自分が決めたことには意見を変えない。ラディスローは社会的には「素性のよくない」とされる男性だから、こんな結婚をしてしまうドロシアは、世間からすると社会的道徳的にちょっとおかしい人とみなされるのだ。

ドロシアに会ったことのない人たちは、たいてい次のように言った、あの人は「よい女」であるはずはない、そうでなかったら、いまいったような男性のどちらとも〔カソーボンとラディスローのこと〕結婚しなかったであろう、と。(第四巻、p.384)

 でも、この世間的には「よい女」ではないドロシアのことを、作者は慈悲たっぷりに描き『ミドルマーチ』は幕を閉じる。別に社会的にどう見られようと、世間一般の道徳的価値観がどうであろうと、自分の正しいと思うことを行うドロシアを、ジョージ・エリオットは肯定的に描いているのだ。ここまではよろしい。問題はフレッドのほうだ。フレッドだって、フルートを吹かせ続けたり、馬を乗り回したり、自分のしたいとおりにさせてあげればよかったではないか。どうして社会的・道徳的な枠にはまった、ある意味つまらないキャラクターにしてしまったのか。ドロシアだったら世間から逸脱した行動もOKとしているのに、フレッドのそういう行為については、作者はすげなく矯正してしまうのだ。

 このあたりが、ジョージ・エリオットの限界、あるいはヴィクトリア朝小説という枠組みの限界、ということではないか。作者はドロシアという、ヴィクトリア朝の道徳規範を乗り越えた自由な女性像に同情しているようなふりをしながら、実はフレッドというキャラクターの変遷をとおして、この道徳的価値観をたっぷり肯定してしまっている。僕は、超生意気ながらあえて言わせてもらうと、ジョージ・エリオットのこの点、つまりこのフレッドの扱いに賛成できない。フレッド・ヴィンシーにもドロシア同様に、道徳規範を打ち破ったところの新しい生き方を模索して欲しかったと思うし、それが悲惨な結果になったとしても、ドロシアに対するのと同様に、同情的に描いてあげるべきだろうと思う。

 とはいえ、『ミドルマーチ』は十分に読み応えがある小説で、文学として素晴らしい(とくに、カソーボン氏が死ぬまでは)。この小説の一番最後で、読者はあたかもドロシアのお墓の前に立っているような気分になるのだが、がんばってでもここまで読みとおす価値はある。

ドルマーチから灯台へ

 話はフルートのことに戻るが、高校に入ってみたら、その吹奏楽部にはフルートにもクラリネットにも普通に男性奏者がいたのだった。なーんだ、という感じ。僕の子供じみた気負いは打ち砕かれ、ちょっとだけ大人になった。そういえば、中学校当時の愛読書「ドリトル先生シリーズ」の主人公、ドリトル先生も、興が乗ってくるとフルートを吹き出す。男にもかっこいい、大人の楽器だったのだ。ただし、どんなにがんばってもフレッドと同じ「ぜいぜい息の切れるような吹きかた」(第一巻、p.211)しかできない僕は、今さらフルートの練習を復活させようという気も起こらず、高校からは待望の弦楽器に手を染めていくのだった。

 さて、ヴァージニア・ウルフの言う「大人のための小説」を堪能したあとは、今度は彼女自身に挑戦状を叩きつけよう。僕はミンタ・ドイルみたいに『ミドルマーチ』の第三巻を列車の中に置き忘れてしまい、途中までしか読んでいなくて結末を知らないということはないのだ。ラムジー氏が晩餐の席で、ジョージ・エリオットについて話かけてきても心配ない、大丈夫。(岩波文庫灯台へ』p.184)