ジョージ・エリオット 『ミドルマーチ』 

(工藤好美・淀川郁子訳、講談社文芸文庫①〜④ 1998)
〔George Eliot Middlemarch (1872)〕

語り手エリオット

 前回のブログでミドルマーチの第一章の冒頭を紹介した。あの、「ブルック家の長女には、粗末なよそおいのため一段とひきたって見えるといった美しさがあった。…」という部分。で、ここで質問だけれども、この度ドロシアにこのような美しさがあると評価・判断しているのは、いったい誰だろう。『ミドルマーチ』は主人公が自らを語るというような一人称の小説ではないから、この語り手は小説内の登場人物ではない。では、「神の声」のような漠然とした語り手なのか。それとも、ジョージ・エリオットご本人?

 しばらく読み進めると、地の文にこんなフレーズが出てくる…「まともな人間は周囲の者がしていることをする。だから、もし精神異常者が野放しになっていたら、われわれはそれを知って、避ければよいのだ」(第一巻、p.18)…これは、ドロシアが周囲の人とは同じことをしない、特殊なタイプの女性なのだという説明から派生して述べられる部分なのだけど、それにしても、この「われわれ」という言葉を使って、読者たる僕を取り込もうとするあなたはいったいだれ?

 「われわれ」が登場したことから察せられるように、『ミドルマーチ』の地の文に語り手たる「わたし」が登場するのは、もはや時間の問題だ。これはいったい誰なのか。文学理論的にはいろいろ面白い理屈が考えられそうだけど、ここではとりあえず素直に作者ジョージ・エリオットだと思って読むことにしてみよう。実際のところ、この「わたし」はかなり頻繁に登場してくる。こんなに出てきたら、フィクションたる体裁が崩れてしまうのではないかと懸念してしまうが、絵本や紙芝居を読み聞かせてもらっているような感じで、あんまり違和感がない。登場人物たちの立ち振る舞いなどについて、彼女があれこれコメントつけてくるのも、なかなかおもしろい。

 たとえば「わたし」が作中の登場人物を非難してしまうところとか、僕はおもしろいと思う。「わたし」をジョージ・エリオットだとみなすと、つまりこれは作者自らが自分で創造したキャラクターを批評していることになる。こんなの小説としてありだろうか。実際には、こういう具合だ:

(周囲の人々は)公正に彼(カソーボン氏)を理解したということになるだろうか。隣人である牧師が偉大なる精神の持主だと噂されるのを軽蔑するカドウォラダー夫人、恋仇の足の恰好をけなすジェイムズ・チェッタム卿、さてはまた、相手の思想をひき出しそこねたブルック氏、中年の学者の容姿にけちをつけたシーリア――こういう人々の意見から出た独断的結論や偏見に、わたしは抗議する(第一巻、p.171)

 抗議すると言ったって…だって、エリオットさん、これらのキャラクターは自分が描いた人たちじゃないんですか、とここはいぶかしく思うところだ。でもこれは逆に、「わたし」は客観的な第三者であって、物語の内容については一切責任ありません、という意味にも感じ取れる。彼女は暗にこういうふうに言いたいのかもしれない…≪わたしはあたかも紙芝居を読むように、ストーリーを読み上げているだけです。内容の是非については、ときどきこのように読者のみなさまのためにコメントはいたしますが、基本的にわたしとは関係ないことです≫…さらにもう一箇所、「わたし」がストーリーの内容に対して、キレてしまうところがある。作者なのに。これは第二十九章の出だしの部分。ローマでの新婚旅行からカソーボンの住まいであるロウイックに戻ってきたドロシアについて、「わたし」は語り始めようとするのだが:

ロウイックに着いていく週かたったある朝、ドロシアは――しかし、なぜ、いつもいつも、ドロシアは、ドロシアは、なのだろう? 彼女の側からの見方のほかには、この結婚の見方があり得ぬというのか? 悩みや苦労があっても、なお生気に溢れる若い者たちばかりに興味をもち、これを理解しようと努力することには、わたしは反対である(第二巻、p.105)

 ここで「わたし」は、ドロシアばかりに着目する物語の描写方法に「反対」しているのだが、『ミドルマーチ』は「わたし(=ジョージ・エリオット)」が創ったストーリーだったのではないのだろうか。僕にはこんなイメージがわいてくる…「わたし」は、きっとこんな説明をしてくれるのだろう…≪わたしの預かり知らぬところに、もうすでに定められたストーリーがあって(あなたの比喩で言うところの「紙芝居」です)、わたしはそれを読者たるあなたに語っていますが、その内容や話の進め方にはときどき納得できないところもあるのです≫。あたかもこのストーリーは自分が作ったものではございませんという態度。ここで僕が前提とした「わたし=物語の創作者ジョージ・エリオット」説は、微妙にぐらつき始めてしまう。「わたし」はむしろ、自分が聞き知ったことを読者に伝達する、あたかもジャーナリストのような立場を取っている。

 「わたし」こと、ジャーナリストのエリオット氏(女史?)がキレたこれら二箇所には共通するところがある。それは、ストーリーについて客観的に接し、公平・公正であろうとする態度。とくにカソーボン氏に対して公平であろうという態度が印象的だ。わざわざ「あわれなカソーボン氏は(われわれは公平な立場にいるので、いささか彼に同情してもよいだろう)…」(第二巻、p.295)というように、括弧内に自分の公平さについて断り書きを入れている部分もある。

 ほかにも、この語り手は折々におもしろいコメントをしてくれる。「完全に自分のほうが正しいと思っているときに、論争が冷淡に回避されるのは、夫婦間では学問上の論争の場合以上に癪にさわるものである」(第二巻、p.114)…これはカソーボン氏とドロシアの口論を描写した後でのコメント。結局、内容からは一歩離れた客観的視点から語るジャーナリスト的な「わたし」が存在することで、物語自体のリアリティーを高める効果をもたらしている。小説の内容自体のリアリティーを素直に高めるのではなく、語り手の客観性・公平性を維持することで小説のリアリティーを高める(「これはわたしがでっちあげた物語ではありません。公平なわたしが読者に伝えています」)という、なんとも屈折して面倒な手法。

 今回書いたような、客観性・公平性をもたらす枠組みや形式を作って、その中にフィクションを埋め込むという手法は、僕にはとても古風なやりかたに見える。イギリスで小説というジャンルが形成されつつあるころ、書簡とか日記とか、あるいは「淑女たるマナーを学ぶためのガイドブック」というような外見を装って創作された、ああいった初期の小説群を思い出してしまうから。ジョージ・エリオットが活躍した時代には、すでに読者はさすがにこのようなものを真に受けてしまうほどナイーヴではないので、だから『ミドルマーチ』ではこのような手の込んだ枠組みが現れたたのだと思うが、でもまあ、このあたりの厳密な小説論の議論は、僕の手に余る。あと、「わたし」が果たして自らが主張するほど本当に客観的で公正なのか、というの点も、きっと追求したら興味深いのではと思う。でもさしあたり『ミドルマーチ』を楽しむには、この語り手「わたし」のおもしろいコメントに、ときどきびっくりしながら、耳を傾けていれば十分。

フェザストウンとカソーボンの死

 ストーリーの進行に目を転じてみれば、カソーボン氏とドロシアのこと、そしてリドゲイト医師とロザマンドのことがひととおり語られると、物語はフェザストウンの死とその遺産のことが山場となる。ちょうど第三部と第四部、この文庫本でいえば第二巻は、果たしてフェザストウンはどのような遺言を残しているのかという興味で、ぐいぐいと読み進めることができる。彼が衰弱していると聞き、普段は疎遠なフェザストウンの親戚たちが一堂に彼の家に集結する。みんな遺産がどのように分配されるか気になって、いてもたってもいられないのだ。このような遺産への期待を描く比喩が、僕はとてもうまいと思った。ジョウナとかマーサといったフェザストウンの貧しい親類たちが期待する、遺産がもらえるのではないかという可能性を「わたし」はこのようにたとえている:

しかしジョウナや、マーサや、その他、金がないばかりに門前払いを食わされていた連中には、これとは違った見解があった。可能性というものはどうにでも考えられるもので、雷文細工や壁紙の模様を見ていると、こちらの思うままのさまざまな顔かたちに見えてくるのに似ている。想像をたくましくして見るならば、そこにはジュピター神から漫画のジューディーにいたるまで、あらゆる形が見えるものだ(第二巻、p.154)

 壁紙模様とかが自分の都合よく見えてくるように、ジョウナとかマーサたちもまた、自分たちももしかすると遺産の分配に与れるのではないかという、都合のいい可能性を夢見てしまうのだ。ここには当然、ジョージ・エリオットの皮肉が含まれているが(「人間というのはなんでも自分の都合のいいように物事を見るものだ」)、これは逆に言えば、自分の都合よく解釈するのではなくて、客観的に事象を判断するべきだ、という主張でもある。ここでまたもやお出まし!あの言葉…「客観的」。

 フェザストウンの遺言はいかなるものだったか、これについては実際に読む方へのお楽しみなので伏せておくが、ロザマンドの兄で借金を抱えたフレッド・ヴィンシーにとっては大打撃となった。期待させておいて、一気に下に落とす、つまり期待を裏切る結果とする…このパターンは『ミドルマーチ』を読んでいると繰り返し登場することに気づく。ドロシアはあれだけカソーボンとの結婚を期待していたのに、不幸な結末となるわけだ。

 そして次の読みどころは、カソーボンが死んでゆくまでのところ。ドロシアの彼への尊敬は完全に同情へと変わってしまう。カソーボンは発作を起こし、リドゲイト医師に自分の残りの寿命を尋ね、彼の病状が突発的に死を招く種類のもので、それがすぐかもしれないし、ずっと先かもしれないし、見込みがはっきりしないと知る。今から先、いつ死ぬかわからない。すぐ死ぬかもしれない。このことを知ったカソーボンの様子を描いた場面は、とても美しい:

リドゲイトは、患者が一人になりたがっていることがわかったので、ほどなくその場を去った。手を背に組んで、頭を垂れた黒いうしろ姿が歩みつづける並木道には、くろずんだいちいの木々がもの言わぬ相手となって、ともに深いもの思いに沈んでいた。そして、そこここの枝をもれる日の光をかすめすぎる、小鳥や落葉の小さな影は、悲しみの場をはばかるかのように、音もなく、ひそやかであった。ここにいるのは、今はじめて死の目をのぞきこむ自分に気づいた男である。彼は死というありふれたことがらの真実性を身をもって感じるという、まれな瞬間を経験していたのである(第二巻、p.391)

 それにしても、この引用を含む第四十二章は、とてもいい。僕が思うに『ミドルマーチ』のなかで一番高貴な、深みのある一章だと思う。ドロシアとカボーソンがそれぞれ相手に対して抱く複雑な心境が、淡々と描かれていく。そして第四十八章でついにカソーボンは亡くなるが、彼の死後、これよりあとの『ミドルマーチ』には、このような精神的に深みのある描写は途絶えてしまう。

 次回は『ミドルマーチ』の最終章まで。