ヴァージニア・ウルフ 『ダロウェイ夫人』

(丹治愛訳、集英社文庫 2007)
〔Virginia Woolf Mrs Dalloway 1925〕

冒頭

 タイセイは、本は僕が買ってくるよ、と言った。
 せっかく『ダロウェイ夫人』の新しい文庫本が出たのだから。以前から単行本としては発売されていたものだし、でもこれが他の『ダロウェイ夫人』とどう違うのか気になる。それに、とタイセイは思った、なんてすてきな値段だろう――ペイパーバックだって5ポンドくらいするのに、750円で買えるなんて新鮮だ。
 やっぱりいいよね! 本屋に飛び込むこの気分! ちょっときしむ入口の扉を勢いよく開けて本屋に駆け込んでいくと、いつもこんな気持ちがしたものだ。本屋の空気はすがすがしくて、静かで、もちろんここよりずっと落ち着いた雰囲気だった。あのピカデリーにある本屋の中は、ひんやりとして清冽な雰囲気が、波のように僕に押し寄せ、僕に接吻し、しかも(当時26歳だったタイセイには)厳粛な感じがしたのだ。僕は本屋の窓辺に立つと、なにか恐ろしいことが起こるんじゃないかと思ったくらいだった。本を眺め、立ち並ぶ本棚と、階段を上り降りするお客さんを眺めていたら、しまいに店員さんが声をかけてきた。「本屋でご瞑想?」――あれ、違ったかな――「僕は本よりも人間のほうが好きだな」だったかな。

ボードゲーム版『ダロウェイ夫人』実践編

 『ダロウェイ夫人』はこんな書き方がユニークだ。ストーリーの要は、50歳代を迎えている女性、クラリッサ・ダロウェイが、かつて18歳という娘ざかりの頃、自分を好きだと言い寄ってきた二人(ピーター・ウォルシュとサリー・シートン)を思い出し、「最近の自分はパッとしないけど、あの頃はモテたよなあ、あの二人の求愛に答えていたら、どうなっていただろうなあ」などというようなことを考えてしまう小説(だと、僕は思う)。1923年6月のある水曜日、パーティーを準備していたクラリッサ・ダロウェイはこの二人のことを思い出していたが、ちょうど偶然、ウォルシュとシートンも同じ日にロンドンに到着していて、夜のパーティーで約四十年ぶりに全員集合を果たすことになる。こんなふうにたまたまその日に全員が集まるなんて、究極のツッコミどころのような感じがしなくもないが、まあ、小説の中のパーティーなんてこういうものだ。

 ここで突然だが、ボードゲームを開始しよう。準備は簡単、1.ロンドン中心部の地図、2.チェスの駒、3.『ダロウェイ夫人』、以上三点を用意する(しかし、一般家庭にロンドンの市街地図や、チェスの駒があるだろうか)。そして、それぞれの駒には「クラリッサ」「リチャード」「エリザベス」「ピーター・ウォルシュ」「ヒュー・ウィットブレッド」「セプティマス」など、キャラクターごとの名前を付けておく。キャラクターの名前は、文庫本のカバーの内側などに「登場人物の紹介」があると思うので、そこを参照する。途中でどれが誰だかわからなくならないようにメモをしたほうがいいかもしれない。ということで、準備ができたら、ボードゲーム版『ダロウェイ夫人』のスタート。

※ゲームの進め方:『ダロウェイ夫人』を読みながら、キャラクターを地図上に動かしていく。なお、駒と駒が盤上で出会っても、これは好戦的RPG系ゲームとは異なり、いたって文学的・友好的なゲームなので、キャラクター同士を勝手に戦わせてはいけない。

  1. 10時過ぎ、花を買いに行く「クラリッサ」は、偶然「ヒュー・ウィットブレッド」に出会う。これはセント・ジェイムズ公園でのことだから、二人の駒をこの公園に進める。
  2. 次に、「クラリッサ」の駒をボンド・ストリートに進める。そして彼女が花を買っているとき、自動車の破裂音が鳴り響くのだが、ちょうど「セプティマス」も偶然その場に居合わせるので、彼の駒もそこに置く。
  3. 「クラリッサ」はウェストミンスターの自宅に戻るが(駒を戻す)、そこへ11時に「ピーター・ウォルシュ」が訪れる(駒を一緒に置く)。
  4. 11時30分、「ピーター」はダロウェイ家を出る。次のように駒を移動させること。ホワイトホール→トラファルガー広場→ヘイマーケット→ピカデリー・サーカス→リージェント・ストリート→グレイト・ポートランド・ストリート→リージェント公園
  5. 11時45分、リージェント公園で「セプティマス」と彼の妻は「ピーター」と偶然すれ違う。(二人の駒が通過する。)「ピーター」はそのまま公園で昼寝。「セプティマス」の駒はハーリー・ストリートの精神医のほうへ動かす。
  6. 13時30分、ブルック・ストリートのミリセント・ブルートン宅にて、「リチャード」と上述の「ヒュー・ウィットブレッド」はその日たまたま昼食をとることになっている。(駒を動かす)
  7. 昼食は終了し、「リチャード」の駒をコンディット・ストリートの宝石店を経由して、グリーン・パークを横切り、ウェストミンスターの自宅へ戻す(15時)。その後、「リチャード」は議会の委員会に参加のためまた外出。
  8. 15時30分「エリザベス」、ミス・キルマンと近くのデパートへ外出。その後、「エリザベス」は一人でバスに乗ってセント・ポール寺院のほうまで行き、また戻ってくる。
  9. ハーリー・ストリートの精神医から戻っていた「セプティマス」は、ブルームズベリーの自宅で自殺する
  10. 自殺した「セプティマス」を運ぶ救急車の鐘の音を偶然聞きながら、「ピーター」はブルームズベリーの宿に戻る。そしてそのホテルで夕食を済ませて、ウェストミンスターのダロウェイ家のパーティーへ向かう。
  11. 死んだ「セプティマス」を除く全ての駒を、パーティーが行われているダロウェイ家に集める。

 良くも悪くも、キャラクターたちのこういう邂逅の積み重ねによってストーリーは進む。ロンドン中心地に散らばるキャラクターたち。ボードゲームの盤上を駒はあれこれ勝手に動きながら、偶然的な出会いを繰り返す(戦ってはいけない)。でも、一期一会ではない。お気付きのとおり、最後にみんなダロウェイ家に集合して、この小説&ゲームは終わる。こんな展開にはどういう意図があるのだろうか。参考までに、クラリッサはこんなことを言う:

誰それがサウス・ケンジントンにいる。べつの誰かがベイズウォーターにいる。また別の誰かがメイフェアにいる。わたしはたえずその人たちの存在を意識しつづけている。そしてなんてむだなことか、なんて残念なことかと感じる。その人たちを一緒に集められたらどんなに素晴らしいだろう。だからわたしは実行に移すのだ。(p.218

ここで僕は、ヴァージニア・ウルフの別の小説『灯台へ』を思い出す。この本の第一部では、ラムジー夫人が、別荘で思い思いに(ばらばらに)休暇を過ごす登場人物たちを一つにまとめあげる機会として、晩餐会を企画し実行する。例の「牛肉の赤ワイン煮込み」を食する夕食だ。このような晩餐会やパーティーのような「全員集合の場面」は華やかさもあり、小説の中心としてとても効果的なのは確か。でも、ウルフは、どうしてばらばらなキャラクターたちを集合させることにこだわるのだろう。

ボードゲーム解説編

 ところで、普通のボードゲーム(チェスとか将棋)だと、盤上の一番端より外側へ駒を進めることはできない。当たり前だけど、駒は盤より外へ出ることができない。そして、この『ダロウェイ夫人』ボードゲームでも、面白いことに、このロンドン中心部という盤上から外へ出て行くキャラクターが誰もいない。もちろん実際のロンドンはずっと外へと広がっているのに、これはどうしてだろう。このとき、見方を変えて、キャラクターたちがロンドン中心部に閉じ込められていると考えるのはどうだろうか。ロンドンという見えない囲いがあって、それに束縛されているという見方。そしてもし、どうしても、どうしてもロンドンから外へと出たいというのなら…唯一、ボードゲーム盤上から消え去ったキャラクターを見習うしかない…「セプティマス」のように、窓から身を投げ出さなければならない。
 また、このゲームの駒を分類すると、「ピーター・ウォルシュ」と「セプティマス」は、ロンドン在住のキャラクターではなく、最近ロンドン外からやってきた人物であることがわかる。もちろん、かつては二人ともロンドンに住んでいたりしたが、ピーターはインドから戻ってきたわけだし、そしてセプティマスはイタリアの戦地から戻ってきたところ。「リチャード」や「ヒュー・ウィットブレッド」といった純粋培養のイギリス住民・ロンドン住民とは異なる経歴を持つ。ましてや、リチャードやヒューは、ビッグ・ベンが象徴するようなイギリスという国家に関係する仕事をしているから、大英帝国の首都ロンドンが居心地悪いはずがない。一方、ピーターやセプティマスには、こういうイギリスとかロンドンとかいうものがうんざりとして、息苦しいものに感じられてしまうのだ。実際、セプティマスはホームズやブラッドショーといったイギリス的で想像力欠如の医師たちに反発する。また、ピーターは、クラリッサの家を訪ねた際、イギリス権力の象徴であるビッグ・ベンの大音量のせいで、会話を邪魔されてしまう。
 もう一人、反ロンドン的なキャラクター、サリー・シートンもいる。彼女もまたロンドンにずっと住んでいるのではなく、マンチェスターの富豪と結婚し豊かな生活を送っていて、今回たまたまロンドンに滞在していたという設定。
 かつて何十年も前のブアトン(理想郷のように描かれる)では、このサリーとピーターが、クラリッサとともに三角関係のような間柄だった。そしてリチャードがそこに登場してくると、クラリッサは極端に言えば、ピーターを取るか、サリーを取るか(結婚ではなく同性愛関係だけれども)、それともリチャードを取るか、というような選択の局面を迎える。結局クラリッサはリチャードを選び、彼は現在、国会議員としてイギリスという国家に関わる仕事に携わっている。ピーターはその後インドへと、つまり、イギリスという国家の中心とは離れたところへと去った。そしてサリーもまたマンチェスターに暮らし、ロンドンを中心とするイギリスの国家権力とは離れたところにいる。こういう結果から見てみると、リチャードを愛の対象として選択したクラリッサは、言い換えれば、イギリス、ロンドン、そしてビッグ・ベンに象徴されるようなもの選んだということだ。そして実際彼女は、ウェストミンスターという、この鐘のまさにお膝元に居を構えている。
 ところがこのクラリッサの選択の結果は、現在の彼女のベッドに暗示されている――ベッドは屋根裏部屋にあり、一人用の小さな狭いもので、いつもシーツはピンと張り、きれいなまま。(p.60)まあ、要するに、リチャードとはもはや愛を交わすような生活がなされていないということだ。もちろんこの小説にはどこを読んでみても、ピーター・ウォルシュと結婚したかったとか、サリー・シートンがうらやましいとか、書かれていない。逆に、ピーターは女性関係が駄目だとか、サリーは社会階層が下の人間と結婚してちょっとね、みたいな、非難めいたコメントが直接・間接に書いてあったりする。サリーに男の子が五人いるという豊穣さを見せつけられても、クラリッサは素直にうらやましいと思わずに、あいかわらずの自己顕示欲だな、という反応をする。でも、今でも好きな人がいて、恋をしているなんていうピーターともし結婚していたら、屋根裏部屋の狭いベッドで、シーツがきれいなまま、なんてことはなかったかもしれない。クラリッサもそれはわかっているはずだ。
 僕は『ダロウェイ夫人』は、彼女がリチャードを結婚していることを見つめなおし、ロンドン異分子であるピーターとサリーの二人の、イギリス的束縛を越えた自由な生活をどこかうらやましく感じている…そういう小説なのだと思う。イギリス的束縛からの解放というのは、まあ、端的に言えば、常にビッグ・ベンの聞こえるような生活から逃れることだろう。ロンドンという閉ざされたボードゲームの盤上から脱出すること、これがクラリッサの理想なのだと思うけど。だからこそ、クラリッサは見たことも会ったこともないセプティマスに――自殺という行為でロンドン脱出に成功したセプティマスに、妙な共感を覚えるのだ。
 でも、ロンドンという枠組みにがっちりと取り込まれているクラリッサには、実際のところピーターと生活したり、サリーのように豊穣な女性として生きていったりできる可能性がない。『ダロウェイ夫人』のクラリッサや、『灯台へ』のラムジー夫人がパーティーや晩餐会なんかの会合にこだわるのは、彼女たちの女性性が、もはや「女」という面でも「母」という面でもあまり充足されることがなく(ラムジー夫人は母性的だが、クラリッサには母親らしい面がほとんど描かれない)、こういう会合で、普段ばらばらに散ったキャラクターたちを集合させる力量があるという意味での「女主人(ホステス)」としてしか自己満足できないからではないだろう。「女」や「母」という面で充足されることがなかったという点は、ヴァージニア・ウルフの実生活に重なってくる事実でもある。

結語

 「タイセイの書くことは悪化しているね。あなたの言うとおり」と、ある読者は言った。「行って話してくる。お別れもしなくちゃ。せめて毎週書いて更新しなきゃ」と彼女は立ち上がりながら言った。「ブログなんてお話しにならないのよ。」
 「僕も行くよ」と、もう一人の読者も言ったが、ちょっとのあいだそのままディスプレイを見つめていた。このぞっとする感じはなんだろう。この恍惚感は? 彼は心の中で思った。おれを異様な興奮で満たすのはいったい何なんだ?
 更新だ、と彼は言った。
 なぜなら、今日やっと更新された。