英詩は読者を獲得するか

阿部公彦『英詩のわかり方』(研究社、2007年3月)
小林章夫『イギリスの詩を読んでみよう』(NHK出版、2007年7月)

バッハの楽譜

 いつも昔の話ばかりで恐縮してしまうが、中学生や高校生の頃、一人で東京に出てくる機会があるとだいたい銀座に向かった。僕が十代にして銀座をぶらつくような、そんなお洒落な中高生だったとか誤解してはいけない。茨城の田舎町の楽器屋さんでは手に入らない品物、つまりいろいろな楽譜が見てみたくて、銀座のヤマハ楽器や山野楽器を機会のあるごとに訪れたのだ。当時はとくにバッハのピアノやオルガン曲の楽譜が気になった。楽譜を眺めることは、解読できない古代文字を眺めることに似ていると僕は思う。何かすごいことが書いてあるに違いない。でも、楽譜をじっと見つめていたって、僕みたいな凡才には、そうたいして音が鳴り響いてくるわけではない。では、何が楽しいのか。それは何よりもその並んだ音符の美しさだった。この美にひたるだけでも、楽譜は見る価値があると思った。

 楽譜の見てくれが美しいって、どういうこと?といぶかしく感じる方には、ぜひバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」の楽譜を手にしてほしいと思う。それも、せっかくなら、バッハの自筆譜を*1。ヴァイオリンたった一本だけで、こんな宇宙的な広がりを持つ(と言っても過言ではないと思う)音楽の世界が出来上がってしまうのだが、このものすごさが、楽譜の見た目にも歴然と現れていると思うのだけど、どうだろう。

 それと、ああいいなあと思う曲を聴くと、僕は楽譜が見たくなる。バッハには「平均律クラヴィーア曲集」というピアノ(というか、当時ピアノはまだ開発段階で、「クラヴィーア」という鍵盤楽器があった)のための楽曲があるが、僕はこれがとても気に入っている。とくに第一巻の第八番、嬰ニ短調のフーガ。このフーガの主題はとくにしんみりと心に響く。僕はこういう、ちょっとノスタルジックとでも言うのだろうか、日本古来の言い方でいう「わび」みたいな響きのある曲が好きだ。このテーマは当然幾度も繰り返されるが、時には反行形(主題の音階の上り下りがひっくり返されたもの)や、拡大形(主題の音形が倍の長さに引き伸ばされて演奏される)までもが登場するという、バッハらしい大変凝った作りにもなっている。

 このフーガは高揚感とともに幕を閉じ、僕はそのたびに、なんていい音楽なんだろうと思う。この音楽の持つ神秘的とも言える力いったいどこにあるのだろう。楽譜を見てみればその答えが書いてあるだろうか。そう思って僕は楽器屋さんに行き、楽譜を手に取ってみる。*2ところが、楽譜をじっと見つめても、この曲のしんみりとした風情と不思議な神秘的風格はよくわからない。楽譜は何も語ってこないのだ。言うまでもなく、楽譜の見た目は相変わらず美しい。バッハの楽譜は、たぶんポリフォニー(多声音楽)で書かれているせいだと思うが、とにかく見た目が、美しい複雑さを備えている。この曲は嬰ニ短調なので、楽譜にシャープが六つもついていて、弾くのがちょっと大変そうだが、三声なので僕でも練習すれば演奏できるかもしれない。それとシャープが六つもつく調声は、普段の気軽に演奏する音楽にはあんまりないから、こういう調声の希少性が、音楽の響きを美しく感じさせるのかもしれない。また、楽譜を読みながらCDを聴けば、どこが反行形でどこが拡大形かは歴然とわかる。

 しかしながら、わかるのはここまでだ。音楽は楽譜のとおりに演奏される。でも、この曲がどうしてこんなにも僕の心の琴線に触れるのか、その答えは楽譜を見てもどこにも書いていない。楽譜が相対すれば、音符がどのように配置されてこの曲ができあがっているのか、楽曲の分析はできる。でも、僕の本当に知りたいこと――どうしてこんなに「いい曲」なのか――には、どんなに楽譜の分析を重ねても、答えは出てきそうにもない。

英詩の時代?

 ところで、詩を読むことは音楽を聴いたり、絵画を鑑賞したりするのに似ている。少なくとも、僕の詩の楽しみかたはそうだ。理屈抜きに、ああ、これはいい詩、とか、これは別にふつうの詩、といった具合に、完全に自分の感性で好き嫌いを感じとっている。いわゆる芸術なるものの楽しみかたは、人によってそれぞれだろうが、詩を読んで「この詩はいい!」と思うとき、そこには面倒な理屈や説明は入り込む余地はなさそうだ。意味もとくに考えず何回か繰り返して読んでみて、ただ好きだと思うから好き、みたいな、感性の問題。

 だから、英語の詩を好きになってみたいという人がいたとき、僕ならこんなふうにアドヴァイスすると思う(助言できるほどの詩に詳しい立場ではないことは、あらかじめ断っておくけど)。まず、ただ詞華集(詩のアンソロジー)を買ってきて、ひとまずざっと読む。その中で、感性の合うものや、気になるものがあったら、それを繰り返し読んでみる。別に日本語の意味なんて完璧にわからなくたっていいじゃん、と思う。詩の英語は、通常の話し言葉ではないのだから、そもそもすっきり意味が通らないように書かれている。日本の短歌や俳句だってそうだ。それよりも、自分の好きなイメージかどうか。理屈抜きに、いいな、と思えるかどうか。そして、そういう詩が見つかったなら、もうそのとき、「英語の詩を好きになる」という目標の第一段階はとりあえず達成したと思うのだけど、どうだろう。これを繰り返せば、好きな詩は少しずつ増えていく。準備した詞華集に好きな詩が見つからなかったら、他の詞華集を当たればよい。好きな詩を見つけるためには、これは好きな音楽や絵を見つけるのと同じなのだから、CD代、コンサートチケット代、あるいは美術館の入場券を支払うように、多少の投資くらいは厭わぬようにしたい。

 今年になって、英詩の一般/初学者向けの本が二冊も発売されている。すわ、英詩の時代到来!?と驚くのは早計というもので、果たしてこれらの本がどのくらい売れるのか、老婆心ながら心配してしまう。発売順に紹介すると、まずは阿部公彦著『英詩のわかり方』。有名な先生によるこの本の、このタイトルこそが内容の傾向をよく示している。つまりこの「わかり方」という日本語。はっきり言って、僕にはとても違和感がある。こういう言い回しは普通しないだろうという理由のほかに、世の中のあれこれの事象が「わかり方」なる書物一冊で「わかって」しまうはずがない、という僕の信念上の理由からも違和感が生じる。極端なタイトルやおかしなタイトルをつけることが、最近の出版界、とくに新書や実用書での流行のようなので(『食い逃げされてもバイトは雇うな』とか)、まあ、ここはよしとしよう。でも、このタイトルが雄弁に語るとおり、ちょっと強引かつ違和感がなくもないような、あまり前例のない詩の入門書だと思ってよい。

 本のタイトルだけではなく、各章にも読者の注目をひきつけるようなユニークなタイトルがつけられている。中でもだんぜん個性的なのは、第二章の「なぜ英詩は声に出して読んではいけないのか」だ。タイトルをそのまま真に受ければ、詩を音読してはいけない、という画期的(!?)なご指導となっている。著者によれば、要するに、健康的な発声という手段によって失われてしまうもの、つまり、著者の言葉でいう「声に出してしまったら壊れてしまうくらい、弱くて、小さいもの」を味わうには、音読はよろしくないからだそうだ。これってどうだろう、本当にそうなのだろうか。この章には、音読のデメリットについての説明に続き、シルヴィア・プラスの詩二編(「レイディ・ラザルス」と「ダディ」)と、テッド・ヒューズの詩が同じく二編(「思考狐」「一撃」)が解説されている。この「レイディ・ラザルス」には印象的な一節がある:

Dying
Is an art, like everything else.

 うーん、いかにもシルヴィア・プラスという感じ。もちろんこの言葉を、エアロビクスをするかのような、わざとらしいくらい満面の笑みをたたえ、大声で読み上げてくださいとは言わない。でも、静かにそっと声を出して読んでみると、黙読するときよりも、じんわりと、ひしひしと、凄みが伝わってくると僕は思うのだけど、どうだろう。あと、同じプラスの「ダディ」で、著者は詩の中で繰り返される[u:]音に注目しているけど、これは声に出さなきゃ体感できないのでは、という点で、主張の矛盾を感じなくもない。

 でも、著者の言いたいことはよくわかる。詩は必ずしも「健康的な」内容ばかりではないということだ。「大きな声で朗読する=健康的な行為」と受け取られることが多い昨今、そのような読み方で声に出されてしまっては、ぶちこわしになってしまう詩だってあるじゃないか、という主張なのだ。声を潜め、耳元でささやくように読まれるべき詩。学校の教室でみんなに聞こえるように読み上げるのではなく、あなただけに語りかける個人的な詩。まあ、別にこういう詩だって音読してはいけないということはないだろうけど、要は読み方の問題。

 さて、もう一冊は小林章夫著『イギリスの詩を読んでみよう』だが、こちらはいたって健康的な一冊。NHK出版のCDブックということで、ラジオで放送された内容がそのままCDに収録されている。まさに音読された詩、ばかり。もちろんCDを聴かずにテキストを読むだけでも内容は理解できるようにはなっているが、せっかく詩の朗読が収録されているのだ、聴いて楽しまない手はない。これを一日約10分かけてCDを聴き、二週間続けると英詩入門コースが完了するのだそうだ。きっとそうなのだろう。僕には確かめようもないが。

 先に紹介した『英詩のわかり方』と際立って対照的な部分、これは「英詩を自分でも朗読する!」という欄に現れている。『英詩のわかり方』では音読するなと書いてあったが、こちらは音読が積極的に勧められている。

特に、CDに収録された詩の優れた朗読を味わい、その抑揚や弱強のリズムをよく聞いて、身体の中にリズムがしみこむまでまねしてくださると、きっと英語の発音やリズムが身につきますし、何よりも楽しい気分になると思います。(p.9)

まったくおっしゃるとおりだし、僕も詩というものは、耳で聴き、声に出して読むべきものだと思う。ただし、ひとつひっかかるところがあって、「楽しい気分になる」という箇所。僕は以前から「楽しむ」という言葉が気になってしまう。長くなってしまうけど、以下は僕の2002年8月4日の日記から*3

実は以前から、「楽しむ」とか「楽しい」という言葉に違和感を感じていた。「楽しく」感じながら何かをする、なんて、そんな、しょっちゅうあることだろうか。人の話すことを聞きながら、「そういうのは、『楽しい』って感じることかな?」とか、疑問を持ってしまうことが、普段からあったりした。


ところが、今日、たまたま『毎日新聞』を読んでいたら、その違和感をうまく指摘するような、同じような意見の記事に出会い、興味深く読んだ。(岩村暢子さんによる「『楽しさ』強調する学生−就職活動に見る価値の変化」)


この意見を書いた岩村さんは、「この会社なら楽しく仕事ができそう」とか、「つまらないゼミ活動を楽しくしました」などと話す就職活動の学生が多いという例を挙げたあと、「どうやらどんな辛いことや、不本意な面白くないことでも『楽しくやれる』こと、『楽しめる』ことは、いま大変価値のある事と考えられているらしい」と分析している。そして、最後に次のように述べる:


「…今は、楽しくやれる事がする価値のあることで、楽しくやる事が正しい取り組み姿勢であるように言われ始めている。反対に、無理して頑張る事は、まるで人間の本性に反する、正しくないことであるかのように言われもするのである。問題は、頑張ってやるか楽しくやるかではなく、その目的であったはずだ」

今になって読み返してみても、ここに書いた僕の気分は変わっていない。だから今回の本について言えば、詩って、楽しい気分になるためのものですか、と訊きたい。詩人は読者を楽しませるために詩を書くのか。もちろん、そういう詩もあるけど、実際にはいろいろな詩がある。『イギリスの詩を読んでみよう』に収められた詩だって、楽しいものばかりではない。もしこの本のエミリー・ブロンテ作「Spellbound」を読んで、なんだか楽しい気分になってきてしまったら、それはあなたにちょっと何かまずいことが起こっていると考えたほうがいい。ということで、世の中が「楽しい」ことを至上とする風潮はよくわかるが、この価値観は詩にはあてはまらない。

 あと、この手の本ではシェイクスピアの『ソネット集』が必ず取り上げられている。
 すると、何の予備知識もない(と想定される)一般読者に対し、男性たる作者シェイクスピアが、若き男性に語る恋愛の感情を、どのように説明したらいいかという問題が生じる。この点で『英詩のわかり方』は率直で良い。「シェイクスピアの『ソネット集』の最大の特質は、同じ恋愛でも、それが男から女に向けたものではなく、男から男に向けた感情として表現されているという点です。当然ながらこうした設定は語り手のホモセクシュアリティを連想させます。」(p.24)
 一方、『イギリスの詩を読んでみよう』では、これがなんだか逃げているような説明になっている。「恋愛詩であるソネットですが、すでに述べたようにこのソネットを捧げた相手は美しい青年であることを思い出すと、いったいそこにはどのような感情が含まれていたのか、さまざまな想像を引き起こすかもしれません。ただし、もちろん作者はシェイクスピアですが、このソネットの語り手はあくまで彼がつくりあげた人物ですので、これを作者と同一視することは避けるべきでしょう。」(p.89)そうかなあ…「さまざまな想像を引き起こす」ことこそ、詩の大切な要素だと思うのだけど。それをこのように制限してしまうのは、ちょっとどうなのだろう。まあ、何といっても出版元はNHKだから、無難にまとめざるをえないのかもしれない。

分析を超えて

 あれこれ書いたけど、『英詩のわかり方』も『イギリスの詩を読んでみよう』も親切な本だと思う。アイアンビック・ペンタミター(カタカナで書くとちょっとまぬけだ)などのリズムのことも、韻を踏むことも、ちゃんと説明されている。有名な詩を取り上げて分析を試み、どういう技法があって、どんなふうに味わうべきか、その方向性がわかりやすく記述されている。でも…やっぱり、でも、なのだ。これは、高校生の僕が、バッハの楽譜をじっと眺めて分析しても、到達できない「何か」があるのと同じ。この楽曲にはAという技法、Bという技法、そしてCという技法が使われている。分析はこれで終わり。でも、その音楽が僕の心を打つ理由は、A+B+Cという技法の総和では説明できない。さらに「何か」がある。だから、親切な本ではあるけど、こういう本を読んで詩の技法をどんなに説明されても、詩は僕たちの手からするりと逃げてしまう。理屈を超えたどこかへと。

*1:ということで、自筆譜を見てみてください。「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ第一番の冒頭「アダージョ」BWV1001→ http://www.jsbach.net/images/bwv1001-adagio.html 

*2:多くのバッハの楽譜はインターネット上で閲覧することができます。「平均律クラヴィーア曲集第一巻」の第八番のフーガの楽譜はこちら(pdfファイルです→ http://icking-music-archive.org/scores/bach/bwv846/bwv853b.pdf 

*3:この日記の全文は、http://www.geocities.jp/yoshimuralondon/diary13.htmのページの中に出てきます。昔の日記なので紹介するのが恥ずかしくはありますが。