ジェイムズ・ジョイス『ダブリンの人びと』

(米本義孝訳、筑摩書房ちくま文庫、2008)
James Joyce Dubliners 1914

超マニアのための入門書

 今年の二月にちくま文庫版『ダブリンの人びと』が新訳として発売になった。ジェイムズ・ジョイスの『Dubliners』は岩波文庫でも新潮文庫でも発売されているから、消費者にとっては三つの選択肢から翻訳を選べることになった。古書でもよければ、福武文庫版というものも存在する。調べていないけど、文庫本のほかに単行本も手に入れられるのかもしれない。ジェイムズ・ジョイスといえば二十世紀文学の最高峰として注目される『ユリシーズ』と『フィネガンズ・ウェイク』があるけど、こういうのを読むのはいろいろな意味でかなりしんどい。じゃあ、もっと親しみやすい作品はないのか…ということで、出版社はジョイス文学への入門編として『ダブリナーズ』に白羽の矢を当てるのだろう。また、同じジョイスには『ある若き芸術家の肖像』という小説もあるが、これは長編小説。『ダブリナーズ』のほうが短編集でとっつきやすい。

 ところで、この本のタイトルは『ダブリンの人びと』であるべきか、『ダブリンの市民』であるべきか。それとも助詞の「の」をはずして『ダブリン市民』であったほうがいいのか、僕にはなんともいえないし、どれかを選んで語るとその出版社の版をひいきにしているみたいに(自分の中で)思えてくるので、とりあえず今日のブログでは、僕はこの本のことを『ダブリナーズ』と書く。

 さて、しかしながら実際のところ、このジョイスの『ダブリナーズ』は本当に「入門編」だろうか。読んでみると「楽しい」と思うような短編集ではない感じがする。いったい何が起こるんだろう、ワクワクドキドキ、こんなストーリーは見つからない。登場人物たちはダブリン市内を移動しおしゃべりする。日常の出来事やちょっとしたドラマ(当人からすれば重大だが、他人から見ればどうでもいいようなこと)がいたって地味に述べられていく。そう、地味なのだ…当時のダブリンの世相がそうだったのかもしれないし、ジョイスがダブリンでの生活に楽しい思いを感じなかったせいかもしれない。比較的読みやすい作品がある一方で、場合によっては短編集の最後まで読むのがかなり大変に思われるような、ある意味、退屈と言っても過言ではない作品もある。

 さらに、この短編集は往々にして「閉鎖的」「麻痺状態」「陰鬱」などという、なんとも極端な言葉で評されていることが多くて(本当に陰鬱で閉鎖的かは読んでみてご確認ください…僕にはここまで悪印象な感じはしないけど)、こんな不健康な言葉を羅列していったい誰が読みたがるのだろうと思わず感じてしまう。ただし、文学愛好家を自認する人びとは、これまた往々にして、若干ながら、不健康で暗い性格を自らの中にある程度認めている人も多かろうと思うので(なんといっても読書は孤独で、ろくすっぽ体も動かさない行為だから)、逆にこういう鬱々とした紹介文に惹きつけられてしまうという、ちょっと病的でヤバめの人もいるのかもしれない。

 『ダブリナーズ』の暗さや地味さに注目してしまったが、一方で、こうした「文学愛好家」の中でも、大上段に構えて「文学」を語るような、なんともスノビッシュな方々にとっては、『ダブリナーズ』はなかなか深みのある一面を見せる。まず、この本のバックボーンにはアイルランドという一大テーマが控えている。「緑色」とか「ハープ」が文中に登場すると、これらには注釈が添えられ、アイルランドの象徴として解釈されてしまう。そしてイギリス本土とのややこしい、複雑で不幸な歴史。そしてこれをさらに難しくするカトリックプロテスタントの存在。こうした、アイルランドの文化・政治そして宗教のことを考慮していくだけで、『ダブリナーズ』には膨大な脚注がついてしまう。加えて、当時のダブリン市のこまごまとした内容にも説明が欲しくなる。有名な話だが、ジェイムズ・ジョイスは『ダブリナーズ』において、ダブリン市内の通りを正確に描写している。登場人物が存在しない通りに入っていったり、あらぬ方向に曲がってしまうようなことはない(らしい)。でも、現代の日本の私たちにはダブリン市内の道路状況なんてわからないから、こういう面を正確に把握したいと思ったらおのずと説明が、つまり脚注が必要になる。

 要するに『ダブリナーズ』というのは、とことん凝って創られたマニアックな本なのだ。『ユリシーズ』なんかと比べたら読みやすそうな短編集を装ってはいるし、実際文体的には読みやすくはあるけど、『ユリシーズ』的なさらなる超マニアック世界のための入門編であって、ざーっと読んで「はい、おしまい」では済みそうにもない。この点は今年出版されたちくま文庫版の『ダブリンの人びと』を手に取ってみれば明らか。研究者向けではないと思うのだが、見事にたくさんの脚注がつき(短編のひとつ「死者たち」には87箇所にも注が付く)、それぞれに充実した解説が添えられている。ここで唐突だけど質問。あなたは、こういう豊富な脚注を見て、どうだろう、ゾクゾクと興奮してくるだろうか。してくる?…そういうマニアックなあなたには、『ユリシーズ』と『フィネガンズ・ウェイク』という輝かしい道のりがまっすぐに続いているので、お楽しみに。よかったね。僕はまだしばらく遠慮しとくよ。

アラビー

 でも僕には、ちくま文庫版『ダブリンの人びと』におけるあまりにも豊富に添えられた脚注が、ちょっとうるさくも感じられた。もちろん訳者自身としては「作品に必要と思われる必要最小限の註解を選び抜いて付けた」のであって、「読者はそれにわずらわされないで、必要に応じて参照され」ればいいのだが、でも、こんな注が付いていたら、無視したくても気になってしまうではないか。

―――あんたはいいわね(19)、と彼女は言った。(p.51)

(パソコンの画面だとうまく表示できないので「あんたはいいわね(19)」となってしまうが、実際には言葉の右側に、通常の脚注同様小さく表記されている。)
この場合、注が付けられているのは、人名や地名といった固有名詞ではないから、そういったものの説明ではないことがわかる。じゃあ、いったい何だろう?「あんたはいいわね」の一言に、実はとっても深い意味が隠されているのか…ついつい、気になってしまうではないか。だから、今読んでいるところはいったん中断。指でページを挟んでおきながら、本の後ろのほうをわざわざ開いて、この注についての説明を探すことになる。これは昔、中学生や高校生のころ、英語とか数学の問題集を勉強していた状況に似ている。やり終わった問題の答え合わせをするときに、問題の載っているページがわからなくならないように指で押さえながら、巻末の解答を参照しなくてはならなかった。ページを行ったり来たりしなくてはならないという面倒。別刷りの解答集が添えられているタイプもあったが、そういうほうが、確かにやりやすかった。『ダブリンの人びと』もこれだけ注を添えるなら、巻末に入れるのではなく別刷りでも良かったかもしれない。

 とにかく、脚注が一見いらなさそうな言葉にまで注の番号が添えられているので、かえって気になってゆっくり読書ができない。答え合わせをしなければ先に進めないような気分。これは、とくに「アラビー」のような作品を読むときには、格別にうっとおしい。十五編からなる短編集『ダブリナーズ』のうち、「アラビー」は僕が一番好きな短編なのだが、とにかく静かな雰囲気で読みたい。理想的な環境としては、まず、晴れた冬の日の夕暮れ時がいいと思う。だんだん辺りが暗くなっていくタイミングで。時間はまだ遅くないのに、日が沈むのが早いという印象が欲しい。「アラビー」はどちらかというと夕暮れから夜にかけての(evening)の物語だから。そしてなんといっても静けさと孤独感。周りには誰もいないこと。静けさについては、書き出しからして、この短編がいかに「しーん」と静まりかえっているかが伝わってくる。

リッチモンド通りは、袋小路になっていて、クリスチャン・ブラザーズ学校が生徒たちを解放する時間を除けば、ひっそりとした通りだ。(p.47)

生徒たちのわいがいがやがやと騒ぐ声の存在を指摘しているからこそ、かえってこの道が普段いかに静かかが強調されていると思う。主人公の「ぼく」は近所の子供と一緒にこの道で遊ぶのだが、そういうときの叫び声の描写も同じ効果を見せている。

冬の短い日々が訪れると、ぼくらが昼食をちゃんと済ませないうちに、もう薄暗くなる。ぼくらが通りに集まるころには、家並みはすっかり黒ずんでいた。頭上にひろがるすみれ色をした空は刻々とその色合いが変わっていき、空に向かって街路のガス灯が弱々しい明かりを掲げている。冷たい空気が肌をさすと、ぼくらは体がほてるまで遊んだ。叫び声はしんと静まった通りにこだました。(p.47-8)

長く引用してしまったけど、「アラビー」にはこういう雰囲気に包まれている。なかなか詩的情緒に富んだ短編だと僕は思う。だからこそ、一人で静かに、よく耳を澄ませながら「アラビー」を読みたい。

 主人公の「ぼく」という少年は、近所の友達のお姉さんに恋をしてしまうのだが、内面では超悶々としているのに、実際に作品内で発する言葉数はとても少ない。静かで内気な少年という感じがする(「この心乱れる熱愛の気持ちをどうやって彼女に伝えたらいいかわからない」同p.50)。そして、ついに「ぼく」は彼女と言葉を交わし、その会話から、アラビーというバザーに行って何か彼女のために買い物をしてこなくてはいけないと決意する。それ以降「ぼく」は一人でアラビーのことばかり考えてしまい、勉強とか、そういう日常の瑣事に手が付かなくなってしまうが、一緒に暮らすおじやおばにアラビー行きの許可を念押しすることを除けば、彼が周囲の人に騒ぎたてるようなことはない。あくまでも一人きりで、静かに悶々として過ごす。

 やっとアラビーに向けて出発することができても「ぼく」の孤独は続く。アラビーに向かう列車の中でも一人きりだった(途中駅で列車に人びとが殺到したのに乗ってこない描写があるが、これがまたかえって彼の孤独を引き立てる)。念願のアラビーに着いても、残念なことに、もはや閉場時間でほとんどのお店は閉まり、会場内は静まりかえっている。唯一開いているお店に近づいたが、そこにいる大人からはほとんど相手にされない。もちろん買い物も果たせず、そうこうしているうちに、会場の明かりはもっと消されてしまう。そして、この短編の有名な終わりの一文が現れる:

その暗闇を見上げながら、ぼくは自分が虚栄心に駆り立てられ、それの笑いものになった人間であることに気がついて、ぼくの目は苦悩と怒りに燃えた。(p.57)
(Gazing up into the darkness I saw myself as a creature driven and derided by vanity; and my eyes burned with anguish and anger.)

「anguish and anger」と、「a」の音を響かせながらこの短編は幕を閉じる。暗くなった会場でしーんと静まりかえっている中、誰からもろくに相手をされず、目的も果たせなかった「ぼく」は、一人きりで、こんな気持ちになって佇んでいる。どうだろう…これを読む僕たち読者も、暗く静かなところで落ち着いて読むべきだと思うのだけど。「アラビー」はなかなか幻想的で、ノスタルジックな味わいの深い一編なのだ。せっかく読むなら明るくない静かな場所で、孤独に、そして脚注にも邪魔されずに、「ぼく」のように誰からもほっておかれながら読んだほうがいい。