『論座』2008年4月号の特集「理想の書評」

日参加した会社の会議で、「採用面接で質問してはいけない事項一覧」というプリントが配られた。同和問題等で出身地を問いただすのはよろしくないということはわかっていたけれども、他にもあれこれ項目があり、僕が就職活動をしていた一昔前に比べて、最近はもっとセンシティヴになっていることを感じた。たとえば、尊敬する人は誰ですか、といった質問。これはつまり、ある種の宗教を信じているとか、特定の政治思想を持っていることなどを理由に採用・不採用を決定してはいけないという点がポイントになっている。だから、ある志願者が尊敬する人として、宗教指導者や政治家の名前を挙げた場合、それが理由で就職できなかった…と不採用通知後に訴えられないようにするためだ。

 他にもあって、「愛読書」を質問するのもよろしくない。たとえば、志願者が「愛読書は聖書です」と答えたとしたら、面接官の僕はどのようなリアクションを取ったらよいか確かに困ってしまうだろう。でもまあ、僕が志願者だったとして素直に「ウィリアム・ゴールディングです」とか「アイリス・マードックです」と答えても、面接官はわけもわからず狼狽することは必至なわけで、こういう「愛読書」なるものは面接ではお互いに遠慮したほうがよさそうだ。人が何を「愛読」するかは自由なのだ。みんな好きなものを読めばよい。同様に「愛読紙」も尋ねてはいけないとのこと。特定の宗教や政党色を帯びた新聞が存在するからだ。

 採用面接というのは公平性がとても求められる場だけに、このように非常に慎重な対応が必要になるのだけど、普段の会話でもこの手の内容はちょっと気をつけるようになる。新聞は何気ない日常の存在なのに、意外にもみんなはっきりとした好き嫌いがあったりする。たとえ自分が大嫌いな新聞を友人が読んでいるからといって、その友人のことを嫌いになってしまうことはないと思うけど、でもやっぱりそれを知ったあとからは少々気になってしまうかもしれない。だから僕がここに自分の愛読紙(物心がついて以来、ずっと同じ新聞を読み続けている)の紙名を披露するのが、果たして適切な行為かどうかわからなくもあるのだが、それは朝日新聞だ。――というわけで、このように開陳してしまったが、えーと、このブログの読者の皆様におかれましては、もしかすると朝日新聞は見たくもないし、触りたくもないという方もいらっしゃるかもしれませんが、今後もこちらのブログのほうはよろしくお付き合いくださいませ。

 しかし、愛読紙が朝日新聞だからといって、この新聞の書くことや為すことに諸手を挙げて全面的に賛成しているわけではない。愛しているからこそだと思うのだが、この新聞に対して言いたいことやムカつくことが頻繁に生じる。たとえば、最近の話題で言えば、今度変更される印刷される文字の大きさのこと。確か、何年か前に文字を大きくしたばかりではなかったか。なんでまた、文字を大きくするのか!! 僕個人としては非常に残念だ。だって、文字が大きくなるということは、ページが増えるわけではなさそうなので、文字数が、そして情報量が減るということではないか。きっと記者のみなさんは楽チンになっていいだろうが、僕は言いたい、「だったら、値下げしろ!」と。新聞の記事は短いものが多くて、確かにまあ、ニュースなどは短く簡潔でもいいだろうが、でも、もっと長く追求した内容にすればずっと面白いはずなのに、と思われる記事も多い。日本の新聞記者は書くのが面倒くさくて楽をしているのではないかと、僕は少々勘ぐってしまったりもする。ちなみに今、「日本の新聞記者は」と敷衍して書いたが、毎日新聞の文字は最近大きくなったばかりだし、読売新聞も朝日新聞と同時期に文字を大きめにする予定であるのは、みなさんもご存知かもしれない。



れとは別に、常々、朝日新聞に対して文句の投書をしてやろうかと思ってしまうことなのだが、それは書評欄について。日曜日の紙面には書評面があるのだが、その書評の長さがあまりにも短いことについてはもう諦めているから別にいい。問題はそこで取り上げられる本に偏りがあること。つまり具体的にはノンフィクションばかり取り上げられていて、フィクションの書評が少ないことだ。もっとフィクションの書評を充実させろと言いたい。もちろんこれは、僕が「役に立つ」本を毛嫌いしているという、個人的な趣味志向が反映している主張であることは認める。でもさあ――と僕は言いたい――本というのは一種の芸術なんだからさ、素晴らしいフィクションが持っている、そのすぐれた想像力やクリエイティヴィティを新聞という公共的な場でもっともっと紹介してあげなきゃだめなんだよ!絵や音楽を鑑賞するのと同じで、良いフィクションを読むことは生活を豊かにすることができる(はず)なのだから。

 ところで、上で「書評の長さが短い」と書いたが、これは何と比較して短いのかというと、もちろん欧米の新聞書評と比較してということ。雑誌『論座』(これも朝日新聞社が出している雑誌だった…)の四月号に「理想の書評」という記事が掲載されていて、ここでは小野寺健さん他執筆者の皆様方が、イギリスでも長い、アメリカでも長い、ドイツでも長い、フランスでも長い、という具合に畳み掛けるようにして、それぞれの国における書評の長さを誇って(?)いる。誰もはっきりとは書いていないが、これはつまり新聞書評であっても「理想の書評」は十分な長さがとられるべきで、日本のものは短すぎるということだ。

 この特集内にある小野寺健さんの記事「理想の書評に追求してほしいもの」では、なぜ日本の書評が短いのかについて、二つの理由が考察されている。一つは「議論」や「論争」の伝統の欠如。もう一つは「散文」の伝統の欠如、だそうだ。この場合の「散文」とは、「理論と遊びが融合したエッセー」という意味で小野寺さんは述べている。まあ、確かにそうですよね、と僕は思う。日本の新聞書評で(といっても、朝日新聞しか読んでいないので、僕がこのように日本全般の新聞について敷衍できるのか説得力に欠けるが)、著者に喧嘩をふっかけるような書評を読んだためしがない。だいたいは、内容を紹介して褒めておしまい。何事においてもそうだが、欠点を指摘するのは勇気がいる。議論・論争の伝統がないせいかもしれないが、むしろ日本の書評者たちは勇気がないせいなのかもしれない。それと「散文」に関していえば、真面目かつユーモアあふれる名文を書く人は日本でもたくさんいるのに、それが書評という場にはあまり適応されていないとは思う。書評欄は本を簡潔に紹介する場であって、べつに読んで面白いことが書いてあるわけではないという前提ができあがっていることに問題があるのだろう。



本の新聞書評はなぜ短いのか。今回の『論座』の執筆者たちは誰も指摘していないが、僕には思い当たるフシがある。ロンドンで暮らしていた頃、僕はろくに英語ができないにも関わらず新聞『ガーディアン』を毎日買い(日曜日は休刊なので姉妹紙『オブザーバー』)、仕事の合間や家に帰ってから読むようにしていた。『ガーディアン』を買い始めて気がついたのは、とにかく分厚いこと。必ず「G2」(「ガーディアン第二部」ということだろう)と題された別刷り版が入っているし、とくに土曜日には別刷り「サタデイ・レヴュー」のほかに雑誌が二冊(「ウィークエンド」「ガイド」)が入っていて(もしかすると、スポーツ面も別刷りだったかもしれない…もうしばらく前のことなので正確には忘れてしまった)、さながら日本の正月元旦の新聞のような状態になる。この分厚さの結果は、当然だが情報量の多さ、すなわち記事の長さに行き着くと僕は思う。平日版に毎日入っている付録の「G2」はタブロイド版の大きさで、10ページほどのちょっとした読み物特集のような体裁だった。記事は日本だと「アエラ」とか「読売ウィークリー」といった雑誌に載っているような内容、つまり、ニュースというほど緊急性の高い情報ではないけど、時事的な読み物という感じだった。一本の記事の長さも「アエラ」などの雑誌の平均的な記事の長さとほぼ同じくらいだった。

 「G2」のような、このくらいの長さの読み物付録が毎日入っている…ということは、新聞に対して時間をかけてじっくり丹念に読む人がいるということだ。ましてや土曜日の紙面だと、あれを全部しっかり読むには相当な時間(二、三時間?)がかかるだろうなあと思う。『オブザーバー』や『タイムズ・オン・サンデイ』などの日曜紙も、毎週が日本のお正月新聞のようにとても分厚くて別刷りがたくさん入っているから、これまた読むのに相当な時間がかかる。日本の新聞の週末版にも別刷りが入っているが、朝日新聞で言えば土曜日にも日曜日にも二部ずつの別刷りが挟み込まれているものの、いずれもとっても薄くてペラペラで、全部読みきるのに数時間かかるなんていうことは考えられない。

 でも、僕はここで、イギリスの新聞は量が多くて素晴らしいのに対し、日本の新聞は内容が乏しくてよろしくない、ということを言いたいのではない。なぜこのように新聞の体裁が異なるのかといえば、結局、読者が新聞に求めるものが違っているからに他ならないと僕は思う。イギリスの新聞読者は新聞に「読み物」的傾向を期待して、じっくり時間をかけて読んでも良いと思っているわけだ。だから、各社ともこぞって立派な別刷りをオマケして読者をひきつける。でも一方、日本の読者は別に新聞に対して「読み物」を期待していないわけだ。簡潔なニュース。簡潔な内容。読むのに何時間もかかるような記事は期待されていないから、おのずと紙面も短くなるのだろう。

 こういうところが、いつでもあわただしく流行の回転が速くて、何事にも刹那的な傾向のある日本らしい特徴だと思うが、新聞記事というのはじっくり取り組むべき「読み物」とみなされていないわけだ。だからこそ、書評面だって短くなる。みんなが欲しいのは新刊の情報。いま何を読むべきか、できるだけ早く、手っ取り早くその答えが欲しい。別にその解答の理由なんかいらない。理由を読んでいる時間なんかもったいないのだから。イギリスの書評面のように、一冊の本をいろいろな角度からじっくり検討し、読むべきか読まざるべきかは自分で考えなさい――なんて悠長なことを言っていられないのだ。答えだけが書かれていることが期待されている日本の新聞書評はかくして短かくなっていく。



ここでイギリスの新聞書評が長くて充実しているのは、日本と異なりイギリスには新聞に「読み物」としての文化があるからだ――僕はこのように書いたけど、こういう結論の一般化には常に危険が伴う。今回の場合、僕が強引に一般化してしまっているのは「イギリスの新聞」というキーワード。僕はイギリスの事情しかわからないが、新聞書評として例に挙げられる新聞は、だいたい『タイムズ』、『ガーディアン』、『インディペンデント』、『サンデイ・タイムズ』、『オブザーバー』など。でも、イギリスには全国紙だけでももっと多くの種類の新聞が発行されている。日本のように、朝日、読売、毎日、日経の四紙を確認すればそれでOKとはいかない。以下の数字は、各紙の発行部数の一覧。2001年10月の記録で、僕の手許にはこれより新しい数字がないけれど、今でも各紙の読者のバランスはそんなに変化していないのではないかと想像する。

平日新聞(Dailies)
『サン』 Sun  3,451,746
『ミラー』 The Mirror  2,180,227
『デイリー・スター』 Daily Star  725,552
『デイリー・レコード』 Daily Record  564,556
『デイリー・メイル』Daily Mail  2,421,795
『エクスプレス』 The Express  877,735
『デイリー・テレグラフ』 Daily Telegraph  974,362
『タイムズ』 Times  678,498
フィナンシャル・タイムズ』 FT  446,271
『ガーディアン』 Guardian  424,132
『インディペンデント』 Independent  203,402


日曜新聞(Sundays)
『ニューズ・オブ・ザ・ワールド』 News of the World  4,104,227
『サンデイ・ミラー』 Sunday Mirror  1,844,932
『ピーピル』 People  1,364,110
『サンデイ・メイル』 Sunday Mail  692,280
『メイル・オン・サンデイ』 Mail on Sunday  2,323,926
『サンデイ・エクスプレス』 Sunday Express  823,813
『サンデイ・タイムズ』 Sunday Times  1,422,208
『サンデイ・テレグラフ』 Sunday Telegraph  795,654
『オブザーバー』 Observer  454,735 
『インディペンデント・オン・サンデイ』 Independent on Sunday  218,511
(『ガーディアン』2001年11月12日紙面の「全国紙発行部数」から)

 もちろん注目したいのは、『タイムズ』や『ガーディアン』の読者の少なさ。新聞書評といえば、なんといっても『オブザーバー』が有名だが、同じ日曜新聞でいえば有名なタブロイド新聞の『ニューズ・オブ・ザ・ワールド』のおよそ十分の一程度の販売部数でしかない。イギリスから離れて日本にいると、ましてや書評や文化関連の興味を持っていると、どうしても『タイムズ』とか『ガーディアン』、『オブザーバー』という名前ばかりが聞こえてくるが、イギリスの新聞全体で考えるとこうしたいわゆる「高級紙」は少数派にすぎない。少なくとも販売部数から推測する限り、多くの人は記事自体もそれほど長くないタブロイド形式の『サン』や『ミラー』を読んでいる。だから、『オブザーバー』に掲載されるような長い書評は、イギリスの中でも、かなり偏った人びとに向けて、嗜好を提供しているにすぎないということだ。

 一方、日本の新聞は販売部数が比較にならないほど多い。(以下の数字は朝刊のみ)

『読売新聞』 10,047,992
朝日新聞』 8,066,707
毎日新聞』 3,973,826
日本経済新聞』 3,040,509
産経新聞』 2,191,587
(インターネット上の各社サイトより)

 こんなふうに読者数が多いということは、すなわち、日本の新聞は多様な読者を抱えているということだろう。この読者の中には、本が大好きな読書中毒患者もいるだろうし、本なんか触りたくもないという人だっていると考えられる。そんな本嫌いの人にとっては、書評面なんて新聞代金の無駄遣いとしか思えないに違いない。多くの人の好みを満足させなくてはならないという現実のために(各紙の販売部数獲得競争とも密接な関わりがある)、紙面は、その長さも内容も、おのずと穏便な差しさわりのない内容になっていく。最大多数の最大幸福。各紙がこぞって字を大きく「読みやすく」するのもこの一環。そして新聞書評もまた、喧嘩をふっかけるような物騒な内容をかもし出すこともなく、ほどほどに短くて、有用な(と、一瞬思わせる)内容に収斂してしまう。



し日本にもイギリスのように、「知的な」かなり偏った人向けの新聞があれば、その新聞書評は長く、充実したものになるのかもしれない。でも、そういう読者が存在して、商業ベースに乗るほどの存在規模があったならば、きっとそんな新聞はもうとっくに発行されていたことだろう。だから、日本にはそういう読者がいない、少なくとも、採算が取れる新聞を発行できるほどにはいない、ということだ。理想的な読者がいれば、理想的な書評が理想的な新聞に掲載されていることだろう。読者がいないのだ。読者の不在。『論座』の中で小野寺健さんはこのように書いている。

さいごに、日本での書評不振のいちばんの手ごわい障害――読者がいないという現象について考えておきたい。「いない」理由についてはいろいろ考えてきたが、この問題の根はきわめて深いのである。この場合の読者とは、多分に排他的・閉鎖的な知的集団を意味するからだ。かつての文壇のような集団を、さまざまな知的分野に想像してみよう。英国にはそういう閉鎖的集団が存在して、彼らはTLSに自分の、あるいはそれ以上に他人の著書が取り上げられるか、どんな評価を受けたかに想像以上に関心をもち、話題にする。この現象は英国社会の差別的階層性とむすびついていて、知的集団には排他的、閉鎖的エリート意識がつよい。こういう社会で生きのびていくには、仲間の業績や評価に通じていなければならない。書評はその情報源の役目も果たすのである。だが日本では、こういう集団と書評の関係が希薄なのだ。

 ここで僕はこの小野寺さんの言葉にどうしても付け加えたい、というか、修正したくなるところがある。最後の部分「書評はその情報源の役目も果たすのである。だが日本では、こういう集団を書評の関係が希薄なのだ」というところ。ここは、僕なら「書評」という言葉を「新聞」という言葉に置き換える。日本の新聞書評がイギリスの新聞書評のように充実していない理由は、いままで見てきたいように、むしろ新聞そのものに原因があるのだから。日本の「知的集団」(なるものが、存在するとしての話だが)だけが好んで読む新聞は今のところ存在しない。つまり日本の「知的集団」は新聞をその情報源としても期待していないし、積極的な関心を持つような関係を新聞と築いてもいない。だから書評欄は万人向けの短く無難な内容になる。そしてこれは書籍に限らず、美術展のレビューもコンサートのレビューも、すべてそう。圧倒的な読者数と多様な嗜好の読者を抱える日本の巨大な新聞が、排他的な「知的集団」だけに媚びいり、その仲間内だけで盛り上がるような記事を載せられるはずがない。

 でも、もし排他的な知的エリート向けの新聞があったとしたら――ここでそんな想像をしてみる。そしてあなたはその新聞の愛読者だ。場面は採用面接会場。不慣れで無神経な面接官がこともあろうに、あなたに愛読紙を質問してきた。さて、あなたはどう答えるか。無難に、日本の大新聞の名前を答えてその場を切り抜けるか。それとも、正直に「排他的知的エリート新聞」の名前を伝えるか。べつにそういう新聞を読んでいるからといって、特定の宗教や政治思想を帯びていることを指し示すことにはならない。にもかかわらず、もしかすると正直に答えることがためらわれるとしたら…。このあたりには、イギリスの階層社会とは異なる日本社会のまた別の問題――出る杭は打たれる、のような――が、透けて見えてくる。