グレアム・グリーン 『権力と栄光』 

(斎藤数衛訳、早川書房 ハヤカワepi文庫 2004)
〔Graham Greene The Power and the Glory (1940)〕

舞台

 1930年代のメキシコ。このメキシコの中でも東のはずれのほうにある、タバスコ州の田舎町を中心に『権力と栄光』のストーリーは展開する。当時のメキシコではラサロ・カルデナスという左派改革派の大統領の下、農地改革やら産業の国有化などが進められていた。さらに、宗教を否定する共産主義的発想から、厳しいカトリック教会へ弾圧も進められ、各地で教会が破壊され、司祭らは追放されていた。こういう状況で、警察から追われる身となった、タバスコ州でたった一人残された司祭がこの小説の主人公。

 たった一人残された司祭…といっても、彼は決して「ヒーロー」ではない。常にアルコールを飲みたがる「ウィスキー坊主」だし、聖職者の結婚を禁じるカトリックの司祭なのに、実は私生児の娘が一人いる。情けないキャラクターは行動だけではない。小男で老人で太っていて出目と描写されている。美しくてかっこいい「ヒーロー=殉教者」ではないのだ。彼について、グレアム・グリーンは名前すら与えていない。しかし、でもだからこそ、この「ウィスキー坊主」の殉教の物語を、僕のようにキリスト教の信者ではなくても、胡散臭く感じずに読めるのだろう。

 「ウィスキー坊主」が置かれた状況を、ものすごくつれなく、散文的に例えてしまうなら、小学生の体育の授業でやっていたドッジボールを僕は思い出す。ボールから逃げて逃げて逃げまくって、内野で自分がたった一人になってしまった状況を想像してほしい。それもボールは敵チームが持っているという場面。仲間のみんなはボールに当たって外野に出てしまっている。自分が当たれば、それでゲームはおしまい。相手がミスするのを待って、もはやさらに逃げるしかない。下手に手を出してボールを捕まえようとすると、取り損ねるかもしれない。四面楚歌。そしてこんなふうに思うのだ…こんな苦しい立場なら、もう逃げるのをやめて、ボールに打たれたほうがいいのではないか、みんなはもうこんなドッジボールを終わりにしたいのかもしれないのだから。

 『権力と栄光』というグレアム・グリーンの中でも一二を争う傑作を、小学校のドッジボールに例えてしまうという、僕の冒涜的な説明が、果たして『権力と栄光』のストーリーに合致するかどうかは、実際に読んでいただくこととして(当たらずとも遠からず、くらいだと思う)、実は、こういう「一人で取り残された主人公」というのは、小説の設定としては時々あるパターン。とくに、悲劇的なエピソードとしてはよく見かける展開だということも指摘しおきたい。周囲の味方はいつの間にか消え去り、知らないうちに主人公は一人追い詰められていく…まさに今、このフレーズをパソコンに打ち込みながら、僕は源義経を思い出した。細かいところはいろいろ異なるけど、こういう構造のストーリーは日本の古典にだってあるのだ。どうりで読みやすいわけだ。

宗教を超えて

 「キリスト教のことがいろいろ出てきて、どうも違和感を感じる」「あそこまでキリスト教の司祭としての立場にこだわるキャラクターには、読んでいて肩入れできない」…『権力と栄光』については、こういう感想を持つ人もいると思う。まあ、そういうこともあるだろう。でも、こういう問題は文学だけに限らなくて、絵画や音楽にだってあることだ。今、日本にレオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』が東京国立博物館に来ているわけだが、どうだろう、宗教画だから嫌いになるだろうか。確かに、キリスト教徒として「受胎告知」という教義の重みを親身に感じる人と、僕みたいな一般人とでは、確かに作品の捕らえかたは異なる。でも、みんな、そして僕もまた、レオナルド・ダ・ヴィンチという名前にあやかって、絵を鑑賞しに行くわけだ。それでいいじゃん、と思う。

 それに、バッハの『マタイ受難曲』とか、モーツァルトとかヴェルディとかの『レクイエム』を聴くとき、キリスト教徒でなければ、音楽が単なる騒音になってしまうのか、ということでもある。明らかにそんなことはないわけで、絵画や音楽にはどうやら、何か宗教的な要素を超えた、普遍的な「美」みたいなものが存在しているようで、だからこそ『受胎告知』は観る価値があるのだし、「モツレク」(モーツァルトのレクイエムのこと)は聴く価値があるのだろう。いや、別にキリスト教じゃなくったっていい。僕たちは運慶の仏像を鑑賞したり、アンコールワットを観に行ったり、エジプトの古代神殿を眺めたりするが、果たしてそれらの宗教の真剣な信徒だったことがあるだろうか。

 僕のこういうふうな、「普遍性」とか「美」をもってして芸術の価値を説明するやりかたは、すっかり時代遅れであることは、よーくわかっているのだけれども、「キリスト教が鼻につくから『権力と栄光』はあまり読みたいと思わない」という人がいたら、それはとてももったいない、狭量な視野だなあと思うからこんなふうに書いてしまった。そして、「キリスト教のことがよくわからないから、この本のこともよくわかった気がしない」という人がいたら、「そんなこと心配しなくていいんじゃん」って言いたいからでもある。僕もそんな一人だし。グリーンの描く、ある種の切ないストーリーを単純に楽しむだけでも、この本は読む価値がある。

 「ウィスキー坊主」である司祭が、貧しい村にたどり着き、自分の娘と二人きりになる場面。娘はまだ七歳で、お行儀がいいとは言えない女の子。彼はこのように語りかける:

「わしは命を捨ててもいい、なんの値打ちもない命だが。この魂だってかまわない……ね、おまえ、理解するように努めてくれ、おまえは――とても大切な子だということを」そのことが、彼の信仰と彼ら政治指導者たちとの相違だということを、彼はずっと前から知っていた。彼らは、ただ国家とか共和国のようなものだけ関心があった。この子は一つの大陸全体より大切だった。彼はいった。「おまえは非常に――必要なんだから。首都にいる大統領は、いつでも銃をもった人たちによって護衛されている――だが、わしの子よ、おまえは天のすべての天使がついている――」彼女は、暗い、自覚のない目で彼を見返した。彼は、自分がここに来るのが遅すぎたのだとわかった。彼はいった。「さよなら、かわいいおまえ」そして不器用にキスをした―愚かにも思い上がったこの老いぼれ。彼は、彼女の手をはなし、広場へととぼとぼ帰りはじめたが、もうその瞬間に、まるめた彼の背中のうしろで、邪悪な世の中全体が彼女をだまし、破滅させようとしているのを感ずることができた。(p.166)

 本来の司祭という立場ならば、自分の娘だけを愛せばいいのではない。自分の娘だけが助かればいいのではなく、世の中の人をみんな愛し、みんなが助かるように祈らなければならない。でも、彼は銃殺される間際になっても、世の中の人を娘同等に愛そうとして失敗している。「あらゆるおそれと、救いたいという願いが、不当にもたった一人の子供に集中してしまった」(p.408)司祭という立場で私生児がいるだけでもまずいのに、この娘のことばかり気になってしまう主人公…とても人間的でなキャラクターではないか。キリスト教とか、そういう宗教なんて超えたところの親近感を、僕は感じてしまう。

ドッジボール

 「臆病者にだって、義務感というものがあるんだよ」(p.373)…『権力と栄光』は、この臆病者たる「ウィスキー坊主」が、逃げることだってできたのに、ただ優しさと義務感だけで殉教することになる物語。全体を見渡せば、この本が確かにちょっと「きれいごと」的になっている点は否めない。でも「良い本」なんて言われるものは、みんなそんなものだ。

 そして…ドッジボールコートの内野に一人残された僕は、つまり、ボールから逃げに逃げまくった臆病者の僕は、早いところボールに当たってゲームを終わらせ楽になるべきか、それとも勝利への義務感から、壮絶な討ち死にを遂げるまで粘り続けるのか。こんなことになってしまうのだったら、どうして逃げていないで、最初からちゃんとがんばらなかったのだろう…。