若島正編 『棄ててきた女 アンソロジー/イギリス編』

(異色作家短編集19 早川書房2007)

作品の配膳

 僕は持っていないのでわからないけど、「iPod」っていうのはきっと、どこかしらからかダウンロードした音楽を貯めこんで、持ち歩いて聴けるようにする機械なのだと思う。そして自分が好きだ、聴きたいと思った音楽だけを取り込めるのだから、自分専用の「ベスト・アルバム」が作れるということなのだろう。これって、考えてみたら、中学生のときなんかに、カセットテープに自分の好きな音楽だけを録音して集めたのと原理は一緒だ。

 これを自分の好きな音楽ではなく、自分の好きな小説や詩を集めて一冊にまとめれば「アンソロジー」ということになる。もし商業的側面を度外視して(つまり、売れるとか儲かるとかを考慮せずに)、自分の好きな小説を集めてアンソロジーを作っていいよと言われたとしたら、あなたはどういうものを編集するだろうか。考えてみるとおもしろいかもしない。選ばれた作品を通して、編者という人間が浮かび上がってくる。集められた作品に選び出す側の興味関心が表れるのは当然として、人柄やいろいろな嗜好、さらには野心の有無とか、他人からどのように見られたいと思っているか、なんてことまでわかるような気がする。

 たとえば極端な場合だけれども、「傑作」と賞賛されるような作品ばかりで構成されたアンソロジーがあったとしたら、それをよしとして選んだ編者もまた「傑作がわかる立派な人間」として認められたいという、意識的あるいは無意識的な意図があると想像する。とくに本の場合は音楽と異なり、iPodのように何千という、桁違いに大量の作品を取り込めるわけではない。好きなものを手当たり次第アンソロジーに組み入れるというわけにはいかない。だから選ばれて作品集として残ったものには、ただ「好きだ」以上の理由があると思われるわけで、アンソロジーを読むときは、このあたりの編者の取捨選択が興味深く感じられる。

 さらに、選ばれた作品がどういう順番に並んでいるのかにも興味が沸く。年代順とかアルファベット順なら、面倒な類推はいらない。でもこの『棄ててきた女』みたいに、一見ランダムに配列されていると、うーん、と考え始めてしまう。これはコース料理がどのように出てくるかに似ている。前菜、メイン、デザート…勉強不足で三つしか思い浮かばないので、日本の会席料理のような、たくさんある名称のほうがいいかも…前菜、お吸物、刺身、煮物、焼き物、揚げ物、蒸し物、酢の物、ご飯、止め椀、香の物、水菓子…。じゃあ、冒頭のジョン・ウィンダムの「時間の縫い目」は前菜で、次のジェラルド・カーシュの「水よりも濃し」はお吸物なのかと言われると、なんだかよくわかならなくなってくるが、まあいい。

 でも、食べ物との比喩はなかなか悪くない。仮にお弁当を食べているとして、あなたはおいしいものや好物を(僕だったらエビフライを)最後に食べるほうだろうか、それとも最初に食べてしまうほうだろうか。あるいは、頃合を見計らって、真ん中くらいに食べるのだろうか。つまり、『棄ててきた女』には十三編の作品が収録されているのだが、これらがみな同じように良い作品とは言えないだろう。編者にとっても、甲乙がきっとあるはず。そして、ベスト(つまりメインディッシュ)はどこにあるのか、一番最初だろうか。それとも一番最後? あるいは、真ん中くらいにさりげなく隠してあるのかもしれない。

 アンソロジーのタイトルとなっている「棄ててきた女」は、十番目に登場するミュリエル・スパークの同名の短編から採られている。タイトルになっているのだから、これがベストなのだろうという見方もある。十番目という位置は、中間より後ろで、それでいてデザートになってしまうような順番でもなく、なかなかメインディッシュにふさわしい好位置であるとは思う。でも、世の中には先鋒、次鋒、中堅、副将、大将なんていう順番の決め方もあったりする。編者はもしかすると、柔道や剣道の団体戦のように、読者をコテンパンにやっつけてしまおうという意図かもしれないから、先鋒や次鋒あたりで討ち死にしないよう、心して読書するとよい。

メインディッシュはどれ

 実際のところ、僕にとっての「大将」レベルの作品は、後ろのほうになって登場してくる。十番目のミュリエル・スパーク、十一番目のウィリアム・トレヴァー、十二番目のアントニー・バージェス、この三人が僕はとくに好きだし、短編もなかなかおもしろかった。しかしこれはかなり個人的な色眼鏡を通しての判断であるのは間違いない。つまり、いわゆる「純文学」系の作家を「良いもの」とみなすように教育された(した)結果が反映してしまっている。このアンソロジー自体は、前菜、あるいは先鋒としてジョン・ウィンダムが据えられていることに象徴されるように、19世紀末から20世紀前半に生まれた作家による、娯楽文学と純文学の折衷のような体裁になっている。SFチックなものや、恐怖小説めいたものが好きな人なら、メインディッシュ、あるいは大将の位置づけは、僕とは大きく異なってくるだろう。 

 あと、L.P.ハートリー(L.P.ハートレーとされることもある)の短編が含まれていることも注目したい。彼の作品が新たに日本語の活字になったのは、久しぶりではないかと思う(十年前後ぶりくらいか)。それにしても、ハートリーの短編はいつも「世界怪奇小説集」とか「幻想小説集」といったアンソロジーの一編として登場する。今回の「顔」という作品を含めると、少なくとも十編の彼の短編がこれまで翻訳されてきたわけで、これらを全部まとめれば十分に一冊の短編集として仕上がる。ハートリーのこんなアンソロジーを作ってくれる出版社はどこかにないのだろうか。確かにあんまり売れないとは思うけど。

 ところで、今回の「異色作家短編集」には同じ編者による第18集として『狼の一族 アンソロジーアメリカ編』というのと、第20集に『エソルド座の怪人 アンソロジー/世界編』がある。どちらもおもしろそうだけど、とくに第20集の世界編をそのうちに読んでみたい(編者若島氏のお気に入りらしいカブレラ=インファンテもちゃんと収録されている)。最近時々感じるのだけれども、英米の小説ばかり読んでいると、どうも視野が狭くなってしまうような気がする。単に飽きてきたせいか。ともかく、欧米の価値観が、全世界で諸手を挙げて賛成されるような、普遍的なものであるとは必ずしもみなされなくなっている現代、いろいろな地域のいろいろな人の小説を読むことには、それなりの意義があるだろう。

 さらについでに言えば、「異色作家短編集」を刊行している早川書房は、今年から「ハヤカワepi〈ブック・プラネット〉」というシリーズを立ち上げていて、アルジェリア出身の作家ヤスミナ・カドラ(Yasmina Khadra)と、タイ系アメリカ人のラッタウット・ラープチャルーンサップ(Rattawut Lapcharoensap)の作品がこれまでに刊行された。「翻訳文学=欧米もの」という発想にとらわれない企画は素晴らしいと思う。ただし、両作家とも欧米で売れた実績のある人たちなので(ヤスミナ・カドラは国際的に評価されている作家、ラープチャルーンサップはまだ新人らしい)、今後どういう作家と作品が取り上げられていくのか、興味が尽きないところ。