オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』

松村達雄訳、講談社文庫1974)
〔Aldous Huxley Brave New World (1932)〕

アンチ・ユートピア小説

 たしか大学二年生の頃のこと。もう十年以上も前の話だ。「英語が勉強できるからいいかも」くらいの、ほとんど気まぐれから英米文学を専攻してしまった僕は、いったい何をこの専攻で勉強したいのかよくわかっていなかった。読書は子供のころからの趣味(というよりは悪癖…常に勉強の妨げだった)で、ドストエフスキーやらカフカやらは愛読していたけれども、実を言えばイギリスの小説にはほとんど無縁の状態。強いていえば、ドリトル先生シリーズとシャーロックホームズのシリーズをかつて読んだ、という程度。

 とりあえず英米文学専攻なのだし…ということで、ディケンズをかたっぱしから読んでみたが、まあ、これはこれで面白いけど、いまいちピンとこない。そんなとき、強制的に振り分けられた「原典購読」の授業の、これまた選択の余地なく決定された教科書(『戦後イギリス文化史』…実は今でも折々に参照する大切な一冊)の中で、ついに「これだ」という作品に出くわした。その発見は二冊。ジョージ・オーウェルの『1984年』とウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』。そう、読んだ人はわかると思うのだけれども、当時の僕は、こういう感じの、つまり、近未来を舞台とするSF調で、かつ、文学的壮絶さも備えた、こんな印象の本が読みたかったのだ。

 『蝿の王』を始めとするゴールディングのほうは、ゆくゆく卒論へと発展するのだけれども、『1984年』もこのままでは終わらなかった。オーウェルの他の作品を読んでみる一方で、いわゆる「ユートピア」とか「アンチユートピア」と呼ばれる作品群へと僕の触手は伸びていった。イギリスは元祖『ユートピア』が書かれた国だけあって、この手の文学には伝統がある。学校の図書館で『ユートピアだより』(ウィリアム・モリス作)とか『エレホン』(サミュエル・バトラー作)を見つけたときは、心躍ったものだ。

 そしてこんな経緯で、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』もまた僕の視界に入ってきて、初めて読んだのだった。今でも僕の手元にある文庫版『すばらしい新世界』は1993年の版。ちょうど僕がアンチユートピア文学に興味を持った頃に購入したもの。当時は、入手して読んでみるだけでOKみたいな状態だったから(現在でもこの傾向はあまり変わってないかもしれないが)、「なるほどね」くらいの感想で、その後は五年に一度読むかどうかくらいの頻度になった。

 五年に一度…これはつまり、あんまり読んでいないということだ。たとえば『1984年』のほうはもっと何回も何回も読んでいる。話の筋は覚えているし、印象的なセリフや場面は頻繁に思い出すことがある。明らかに『1984年』のほうが読み物として面白いということなのだろう。もちろん、こういうのは作品の良し悪しよりも、好みの影響が大きいので断言できないけれども。でも、他の有名なアンチユートピア小説である『われら』(ザミャーチン作…ロシア人)とか、『時計仕掛けのオレンジ』(アントニー・バージェス作)のほうがもっと繰り返し読んでいる。やっぱり『すばらしい新世界』はつまらない本なのだろうか。

楽しめるか

 ということで、今回久しぶりにこのハクスリーの代表作を読んでみた。そして、こういう結論を得た:読み物(fictionという意味で)としては、やっぱりちょっとつまらないかもしれない。

 基本的に、アンチユートピア的世界が描かれているフィクションは好きなので、そういう観点からはなかなか「良い」作品であることには間違いない。でも、生意気ながら、現在の僕はそれだけでは読書に満足できないらしい。『すばらしい新世界』には、「主義主張」や「思想」はあるのだけれども、読み物として面白くなるための何かが足りない。

 しっくり読めない原因はおそらく、登場人物たちの描かれかたに起因するように思う。読んだことのある人に質問したいのだけれども、この『すばらしい新世界』って、主人公は一体誰なのだろう。バーナード・マルクスか。それとも「野蛮人」ことジョンだろうか。当初僕は、身体的に恵まれず劣等感に悩むバーナード・マルクスが、完璧な美男子で才能にも恵まれたヘルムホルツ・ワトキンスと孤独という点で結ばれて、友情をはぐくんでいくあたりが興味深いと思っていた。でも、途中から野蛮人ジョンが大きな存在感を占めるようになり、それと平行して、マルクスはかなりつまらない人間になる。ジョンの人物造形自体はなかなか悪くないと思うのだが、それでも、読み進んでいっても、あんまり深みが感じられてこない。平板な道徳観念や愛情観念を振りかざすだけなので、彼にはあまり感情移行できなくなってしまう。

 そして、最後にジョンは自殺に至るのだけれども、これがまた悲劇的にはあんまり思えない。どちらかというと、この「すばらしい新世界」を頑固なまでに拒絶するジョンの振る舞いが、喜劇的に思えてしまう。

 主人公が誰だかはっきりしない小説というのは、実際には、ままあることだ。アイリス・マードックの小説には、いろいろな人の描写が編み上げられていて、結局のところ誰が主人公とは言いかねる作品が多い(例としては代表作『鐘』もそう)。だから、一人の人物を集中して描く必要は必ずしもない。でもこの本、僕が思うに、もっと印象的で壮絶な内容にできただろう…とくに後半がつまらなくなっていくから、そういうところがなんとかなっていれば…。これだけシェイクスピアを引用しているのに、惜しいところ。

ワンパターン?

 アンチユートピア小説…熱を上げていた大学生のころを比べて、今ではだいぶ客観的に読めるようになったのではないかと思う。この手のフィクションが熱っぽく語る思想や主義主張に惑わされない読みかた、これが必要だと感じている。この手の本は覚めた目で読んだほうが発見がある。

 『すばらしい新世界』と『1984年』はしばしば比較され、その違いがあれこれと指摘されるが、僕にとっては共通点がかなり目に付く。標語・モットーの類が繰り返されるところ、階級(カースト)社会、歴史の軽視、権力の温存。そして、『すばらしい新世界』のジョンがデルタ階級に「自由」を理解させようとしたところは、『1984年』で主人公のウィンストン・スミスがプロレ階級を蜂起させようと夢見たこととぴったり合致する。

 この二つの作品で大きく食い違うように思えるとしたら、『1984年』が「肉体的な痛み」で人々を支配しているのに対し、『すばらしい新世界』が「肉体的快楽」で人々を支配しているところだ。でも、考えればわかってもらえると思うのだが、これはつまるところ、同じ事柄を一方では表側から描き、他方は裏側から描いているに過ぎない。「痛み」と「快楽」…人間の快/不快という感覚に訴えて支配するという点で、これは結局同じことではないか。ただ単に、表と裏のどっちを攻略するか、という問題に過ぎない。

 こんな具合で、ユートピア小説やアンチユートピア小説はかなりワンパターンのような気がする。こういう点を乗り越えるような魅力…それはきっと登場人物の人間的な深みや、人間関係の織り成す「あや」にあると思うのだが、これは僕の期待しすぎだろうか。