ウィリアム・トレヴァー『聖母の贈り物』

(栩木伸明訳、国書刊行会「短編小説の快楽」シリーズ、2007)

イギリスの夏

 イギリスに旅行に行くとしたら、いつの時期に出かけるのがいいだろうか。自分の仕事とか、旅行代金とか、そういう諸事情を一切忘れて、一番訪れてみたい時期を考えてみる。買い物が好きな人は、セールが始まる七月か、クリスマス明けがいいかもしれない。街中を華やかに彩るクリスマスのイルミネーションを楽しみたいなら、十一月過ぎがいいと思う。オペラやコンサート、バレエを楽しむならば、主要なシーズンは十月から三月くらいになる。

 こうして考えると、秋から冬のイギリス、とくにロンドンを訪れるのも、いろいろ楽しみがあることがわかる。でも、もし僕自身、いつイギリスに行ってみたいかと尋ねられたら、その答えは絶対に「夏」だ。五月から八月の間に行きたい。向こうで仕事をしていた頃、この季節の印象で忘れられないのは、なんといっても日が長いこと。職場を出ても、まだ外は明るい。夕方のような時間が夜九時や十時くらいまで続く。(そして「まだ明るいし…」ということで、ついついパブに寄り道してビールを一杯、ということになる。)こういう「夏」を感じられる季節に、僕はぜひ行きたい。

 「イギリスは天気が良くない、傘が手放せない」という話はよくあるが、これは冬については確かに正しい。寒くて湿った日が多い。でも、そのぶんを取り戻すかのように、夏は概して好天に恵まれる。暑い日も多い。僕が住んでいた二年間がたまたまそうだったのかもしれないが、夏に傘を広げたという記憶があまりない(冬は必需品)。夏の日の午後、家の近くのハムステッド・ヒース(ロンドンの北寄りにある公園、というか、丘の上に広がる草原と林)をときどき散歩したのだが、今から考えると、なんとまあ贅沢なひとときだったのだろうと思う。記憶につき、かなり美化されているのも、きっと確かだろうが。

「テニスコート

 こんなイギリスの夏を思い出したのも、ウィリアム・トレヴァーの短編「マティルダイングランド」を読んだことによる。この短編は「テニスコート」「サマーハウス」「客間」の三篇から成るのだが、とくに「テニスコート」が秀逸で、僕はこれを読んで、イギリスの夏の記憶に思い当たった。この物語の舞台はイングランドのどこかの田舎。1939年の夏のできごと。農家の子供である主人公のマティルダには、姉ベティーと兄ディックがいて、三人とも村の学校に通っている。この子供たちが、ミセス・アシュバートンという没落したお屋敷に住む老女から、テニスをしてみないかと誘われる。老女の提供するケーキやチョコレートに心を動かされ、ディックを中心に屋敷の荒廃とともに草ぼうぼうの状態になってしまったテニスコートをきれいに作りなおし、ついにテニスができるようなコートに整備する。そして8月31日、ミセス・アシュバートンの念願だったテニスパーティーが盛大に、村人総出で行われたのだった。

 このテニスパーティーで、参加者たちは夜十時くらいまでテニスをやっているが、これは上に書いたとおり、日本の夜十時のイメージとは違うということだ。爽やかな夏の夕暮れ。と言っても、さすがに夜十時だとかなり薄暗くなる。

 「テニスコート」は必ずしも明るい、ハッピーエンドのお話しではない。ミセス・アシュバートンの住むチャラコム屋敷は、第一次世界大戦までは栄えていて、夫のミスタ・アシュバートンがテニス好きだったこともあり、何度もテニスパーティーが開催されていたのだった。ところが、第一次世界大戦に参戦し、復員してきたミスタ・アシュバートンは精神的に病んでいて、経済的にチャラコムを維持できなくなる。そして彼の死とともに、屋敷は銀行の管理下に置かれるようになってしまう。二十世紀に入り、両大戦を経るころから、昔ながらの広大な屋敷を経済的に維持できなくなるというパターンは、イギリス文学でも比較的頻繁に描かれている展開。

 そして、僕がテニスパーティーの実施日をわざわざ1939年の8月31日と明記したのにも理由がある。八月最後の一日で、これで今年の夏も終わってしまう、という終焉感…たしかにそれもあるだろう。しかしそれよりも、再びドイツとの大きな戦争が始まるという感覚、つまり幸せだった時代の終焉という感覚が、この、ある田舎の夏の物語に重く暗い影を与えている。マティルダの父親は、テニスパーティーからの帰り道に「あれですべて終わったってことだな」とつぶやく。でも、この終焉感があるからこそ、テニスパーティーがとても明るく幸せに、そして、はかなくて尊いものに感じられるわけだ。

老女と少年の交流

 ウィリアム・トレヴァーは短編小説の名手として高く評価されているが、この「テニスコート」の中でも、さすがだなあと思ってしまうところがあった。チャラコムのテニスコートを整備するにあたり、ディックはそもそもあんまりやる気がなかったのだが、ミセス・アシュバートンからタバコで懐柔させられてしまう場面:

 彼女(ミセス・アシュバートン)は、先頭に立って草ぼうぼうのテニスコートへ歩いて行き、わたしたちは四人揃ってコートを眺めた。
 「タバコを吸ってもいいのよ、ディック」と彼女は言った。
 ディックは笑うしか反応のしようがなかった。そして日没の太陽みたいに顔を真っ赤にした。彼は赤く錆びた支柱をぽんと蹴ると、できるだけさりげなくポケットに手を突っ込んでつぶれたウッドパインの箱をとりだし、がさごそ音を立ててマッチ箱を開けた。ベティーは兄を肘で突いて、ミセス・アシュバートンにも一本あげたら、とうながした。
 「ひとついかがですか、ミセス・アシュバートン?」とつぶれた箱をさしだしながらディックが言った。
 「そうね、じゃあいただこうかしら、ディック」彼女は笑いながらタバコに手を伸ばして、一九一五年以来吸ってなかったのよ、と言った。ディックは 彼女のためにマッチを擦った。その拍子にマッチ棒が何本か、丈の高い草むらに散らばった。兄はくわえタバコで、落ちたマッチを拾い上げて箱にしまった。ふたりのとりあわせはなんだかおかしかった。ミセス・アシュバートンは、大きな白い帽子にサングラスのいでたちだった。
 「草刈り鎌が必要ですね」とディックがつぶやいた。(p.225)

 ディックは当初、「ミセス・アシュバートンは自分たちを使ってテニスコートを整備させようとしている、ずるい」などと言い、テニスコートの件には消極的だった。ところがミセス・アシュバートンとのタバコのやり取りの結果、自分から「草刈り鎌が必要だ」と言うまでに心変わりしてしまう。ディックはまだ十五歳で、父親からはタバコを吸う許可が得られておらず、ふだんは隠れて吸っていたのだった。このディックに対し、ミセス・アシュバートンは唐突に「タバコを吸ってもいいのよ」と語りかける。そして、二人で一緒にタバコを楽しむ。八十一歳の老女と十五歳の少年の間に通じ合った、何かしらの理解。このあたりの感情の機微の描きかたが、とてもうまいなあと僕は思う。仮にこの部分に「タバコを認められたディックは、それまでのミセス・アシュバートンへの気持ちを改め、テニスコートを整備する計画に賛成してもよいという気分になったのでした」なんて書いてあったら、とても興ざめではないか。

おすすめの一冊

 今回紹介した「テニスコート」は、最近発売されたばかりのウィリアム・トレヴァーの短編選集『聖母の贈り物』に収められている。このほかに十一篇の短編が集められているのだが、どれもみな同じようにすばらしい。彼の評判に違わない佳作ばかり。