スタニスワフ・レム 『大失敗』

(久山宏一訳、国書刊行会2007)

レムの最終SF作品

 今回はイギリス文学から離れて、僕が敬愛してやまないポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの、最近出された新たな翻訳作品について。

 『大失敗(フィアスコ)』はレムの最後の長編SFで、本国ポーランドでは1987年に出版された。スタニスワフ・レムといえば『ソラリス』が有名だが、これは1961年の作で今からもう40年以上も前のもの。彼は、1950年代から60年代にかけて、『ソラリス』を含む本格的なSFを著した後、1970年代はメタフィクション的な作品(『完全な真空』『虚数』)を発表する時期を迎える。この作風の変化は「SFで書くべきことは、もうぜんぶやったよ」という感じ。ところが、80年代になってまた従来のようなSF小説に回帰する傾向が出て、その最後の作品となったのが、この『大失敗』。このあとにはSF作品が発表されることはなく、昨年亡くなった。

 レム文学の「集大成」で「最後の作品」ともなれば、いったいどんな内容なのだろうという興味がとても沸いてくる。ましてや、四半世紀前の『ソラリス』などと同じように、地球外の知性との「コンタクト(接触)」を取り扱うというから、なおさらだった。

異星への攻撃

 ということで、早速読んでみて、「ああ、これは画期的な作品だ!」と思った。とてもレムらしい内容なのだけれども、今までの「コンタクト三部作」(『エデン』『ソラリス』『砂漠の惑星』)とはかなり違う展開を見せる。地球外の知性との接触について、そのあり方を考察するという点は一緒なのだけれども、以前の三作品とは決定的に異なる点がある。

 この大きな相違点は、『大失敗』では実際に惑星を大規模破壊してしまうところだ。これは過去の作品では見られない展開だった。『エデン』でも、『ソラリス』でも、そして『砂漠の惑星』でも、人間にはとても理解しがたいが、しかし知的な存在が出現する。レムの言葉を借りれば「生物学的なもの、あるいは、心理学的なものを想起させるほどの組織と形態を持ちながらも、人間の予想や仮定や期待を完全に超えるもの」が登場してくる。このような、一般的な想像力を超えるような未知な存在が出現したとき、人間はどのようにふるまうか。

 『エデン』『ソラリス』『砂漠の惑星』、どの作品でも、このような存在に対して人間は散発的ながら、多少の攻撃を加える。しかしこれらのSFでは、「人間は何でも理解できるわけでもない」というような、人間中心の世界観を戒めるような結論に収斂していく。つまり、とても予想できないような知性体が棲息しているからといって、その惑星を大々的に攻撃すべきではない、という結論に行き着く。

 たとえば『エデン』では、惑星エデンに到着した探査隊一行は、この惑星の生命体の置かれた状況が、探査隊からしてみると「正しい」とは思えないような抑圧的体制となっていることに気付く。そして人間の探査メンバーの中から、この異星の住民たちの支配体制を「力ずくで解放」しようと言い出す者が出てくる。これに対し、探査隊の別の人物は次のように述べて、その考えの問題点を指摘する:

「この惑星の住民は、いまはまりこんでいる袋小路から手を取って連れ出してやらなくちゃならない愚かな子供だというのかね? やれやれ、ヘンリック、ことがそんなに単純なら、われわれが殺生をやらなければ解放が始まらないということにならないかね。そして戦闘が激しければ激しいほど、ますます盲目的に殺生をつづけていって、ついには退路もしくは協定への道を切り開くためにのみ殺す、防御号の前に立ちはだかる者をすべて殺すということにならないかね」(早川文庫『エデン』pp405-406)

 「納得できないものは攻撃してしまおう」という発想には問題があること、つまり、人間の目的達成の障害は抹殺してもよいという発想への懸念が表明されている。そして同様の問題提起が、『ソラリス』でも『砂漠の惑星』でもなされている。ところが、今回の『大失敗』では、自分たちの思い通りにならない惑星「クウィンタ星」に対し、人間たちは実際に大規模攻撃を行ってしまう。ここが以前の三作品とは大きく異なる。

コンタクト(交流)の失敗

 『大失敗』ではこんなストーリーが展開する…ハルピュイタ星群ゼータ恒星の第五惑星「クウィンタ星」に向けて、「ヘルメス」号がコンタクトを求めて探査に向かっていた。ところが、クウィンタ星周辺は強力な電波が互いを干渉しあうという尋常ならざる状態だった。科学者たちは、この惑星が二大強国に分かれた交戦状態にあるのではないかと考えた。そんなところにヘルメス号は近づき、レーザー信号のメッセージを惑星に送るが反応はまったくない。次にヘルメス号から無人の着陸船を惑星に送り込んだが、これは着陸の際に破壊されてしまった。さらにヘルメス号自体が攻撃を受ける。ここにいたり、ヘルメス号の乗員たちは彼ら自身の力を誇示する必要から、結局クウィンタ星の衛星(月)を丸ごと破壊してしまう。

 このときのヘルメス号指揮官の言葉…「ことが起きてしまったあとに退却すれば、私たちの遠征が殺戮による侵略の試みだったという情報を惑星に残すことになります。それ故に、私たちは引き下がらないのです」(p292)

 そして、その後ついにクウィンタ星のほうからメッセージが届く。これは、クウィンタ星への着陸を許可する内容だった。ヘルメス号側は慎重を期して、偽のヘルメス号を送り込むが、案の定、この着陸船もまたクウィンタ星側に破壊されてしまう。ヘルメス号はこの報復として、クウィンタ星の上空にある氷の輪を破壊する。この結果、クウィンタ星には大量の氷塊が落下し、超大規模な惨事が引き起こる。人間とクウィンタ星との間では、このような大規模な攻撃と破壊の応酬が続く。この事態を、乗船している聖職者アラゴは憂慮し、いずれ「大失敗(フィアスコ)」を招くと語る。

 純粋に接触(コンタクト)を目的としていたのに、いつからこのような攻撃の応酬になってしまったのか。葛藤する乗務員たちの様子を通して、この失敗の経緯を私たちは読んでいく。

人間的な知性体

 最後にもうひとつ『大失敗』の特徴点だと思うのだけれども、今回の異星の知性体はかなり人間っぽい。外見は人間とは程遠いが、よくわからないものは攻撃して排除しようとするところとか、振る舞いかたが人間じみている。『ソラリス』の知性体の行動が、意図・目的ともに理解不能だったのと対照的。また、クウィンタ星人(星「人」という表記が適切かどうかはわからないけど)とは言語を介したコミュニケーションがいともたやすく確立してしまう点でも、「人間的」だと思える。

 描写によれば、クウィンタ星は外洋に囲まれた大陸をいくつか持つ青い惑星のようだ。そして衛星(月)もひとつ持っている。さらに、この星の住人たちのなんとも人間じみた行動様式。…そう、なんだか、クウィンタ星が地球とダブって見えてくるような、そんな印象が沸く。だから、こんなふうに想像してしまうのだ…もし地球に、この『大失敗』のような調査隊がやってきたら、わたしたちはどのように振舞うだろうか…。そんなことを考えさせるような、寓話(fable)としての解読も十分可能な作品。