『英語圏女性作家の描く 家族のかたち』

(佐藤宏子/川本静子訳、ミネルヴァ書房 MINERVA世界文学選、2006)

現代的視点

 この本は今までの日本にはなかった、とても面白い視点のアンソロジーだと思う。面白い視点とは言っても、別に奇をてらったテーマによる編集ではない。20世紀後半の英語で書かれた女性作家による短編を集めたもの。ここには三つの重要なポイントがある。一つめは女性作家という区分。日本でも状況は同じだが、20世紀に入り、それまで稀少であった女性作家が次々に登場するようになった。さらに第二次世界大戦を経てその数は急激に増加し、現代では質の高い作品が次々に発表されている。イギリスでもこの状況は同じだし、世界全体でもこの傾向は変わらない。

 二つめに注目するのは、短編小説集であること。女性作家の急増と並んで、短編小説というジャンルの興隆も20世紀的な現象と言えるだろう。僕は専門家ではないからこれを例証していくことはできないけれども、19世紀が何巻にもわたるような長編小説が中心の時代であったのに対し(イギリスならばディケンズサッカレー、それにフランス・ロシアの文豪たちの作品)、現代社会の多忙な生活環境を反映してか、現代では、すぐに読みきれるような、どちらかといえば短編小説が多く生み出されるようになっている。個人的には、19世紀後半のエドガー・アラン・ポーと、20世紀初頭のキャサリンマンスフィールドの二人の短編小説の名手が現れて以降、「短編小説」というジャンルは完成されたと思う。

 そして最後に、このアンソロジーが「英語圏」(イギリス、インド、北米、アフリカ、大洋州)という、広範囲にわたっての作家の作品を収録していることも、非常に現代的で注目すべきところだと思う。本来イギリス諸島で使用されていたこの言語は、イギリス植民地の広がりとともに世界各地で使用されるようになった。その結果、「ポスト・コロニニアズム」といった批評用語に馴染みがなくても、ここ30年くらいのブッカー賞の受賞リストや最終選考リストを見れば、いわゆる「イギリス文学」が、それまでの地域的枠組みにはもはや収まらない時代になっているのを実感できる。

 こうしてみると、この『英語圏女性作家の描く 家族のかたち』が、「女性」「短編」「拡大する英語圏」という三つの重要な切り口をそろえた、非常に現代的視点を備えた優れた視点によるアンソロジーだということが想像できる。家族という枠組みの中で、女性は「娘」「母」「妻」、あるいは「姉妹」とか「おばさん」なんてこともあるだろうが、これらの立場の存在自体は、世界中どこに行っても変化しない。しかし、同じ「母」でも、どのように振舞うかについては、時代や地域によって大きく変化する。こういった共通点と相違点、あるいは多面性というものを読み解くのがこの本の興味のひとつ。そして、そういう内容表現を支えている、「短編小説」を成立させるための技法を楽しむのが、もうひとつの楽しみになるのではないかと思う。

テイラーとウェルドン

 さて、褒めちぎってはみたけれど、良い視点から編集されたアンソロジーも、集められた作品がつまらなくては元も子もない。

 まず注目は、エリザベス・テイラーだろう。彼女の「ミスタ・ウォートン」がこの本の一番最初に収録されている。あまたいるイギリスの女性作家のうち、テイラーを選ぶなんて趣味がいいと僕は思う。(ただしちょっと「お上品」な感じがつきまとう…田舎の小さな街で、小奇麗な中年女性が午後のひととき、美しくバラでも咲いた庭が見える部屋で紅茶をすすっている…そんなイメージ。)エリザベス・テイラーの作品は、こんな感じのイギリス的小奇麗さ設定の中に、ちょっと痛みとか、もどかしさとか、同時に笑ってしまうようなおかしさが感じられることが多い。そしてこの「ミスタ・ウォートン」でも、僕は主人公のヒルダに対しては、真面目な登場人物なのでちょっとかわいそうと同情もしてしまうが、基本的にはやっぱりおかしい(funny)と思う。

 邦訳が少なくて、なかなか知名度が上がらないエリザベス・テイラーがこのように収録されただけでも、このアンソロジーは価値がある。さらに僕の好きなフェイ・ウェルドンの「週末」が入っているのもなかなかよろしい傾向。この人の書く作品は、女性ならではだと思う。彼女のようには、男性は絶対書けまい。こういうアンソロジーには常連のウェルドンだが、この人の場合、文体にも注目が必要。長々と文章を連ねるのではなく、短く、単語をポンポン勢いよく連ねていく。そして、ある程度文章がまとまると(一段落分ぐらい)、次の段落にそのまま行くのではなく、一行空白を開けてから次に行く。つまり極端な部分でいえば、こんな感じ:

Martin drives. Martha, for once, drowses.


The right food, the right words, the right play. Doctors for the tonsils: dentists for the molars. Confiscate gums: censor television: encourage creativity. Paints and paper to hand: books on the shelves: meetings with teachers. Music teachers. Dancing lessons. Parties. Friends to tea. Shcool plays. Open days. Junior orchestra.


Martha is jolted awake. Traffic lights. Martin doesn't like Martha to sleep while he drives.


Clothes. Oh, clothes! Can't wear this: must wear that. Dress shops. Pile of clothes in corners: duly washed, but waiting to be ironed, waiting to be put away.


Get the piles off the floor, into the laundry baskets. Martin doesn't like a mess.

 (Fay Weldon 「Weekend」原文から)

 そして、このアンソロジーでは、このように翻訳されている:

 マーティンは運転し、一度だけ、マーサはうとうとした。
 然るべきものを食べさせ、然るべき言葉を使わせ、然るべき遊びをさせる。扁桃腺が腫れると医者へ、臼歯が生えると歯医者へ。ガムを取り上げ、テレビ番組に目を光らせ、創造力をのばすようにする。手近に絵の具と紙、書棚に本、教師との面談。音楽の先生につける。ダンスのレッスン。パーティ。お友達をお茶に招く。学校劇の上演。授業参観日。児童オーケストラ。
 がたがたと揺さぶられてマーサは目を覚ました。交通信号灯が目に入る。マーティンは自分が運転しているときにマーサが眠るのをいやがった。
 衣類。ああ、衣類!これは着られない、あれを着なくちゃ。洋服やに出向く。隅っこに積み上げられた衣類の山。ちゃんと洗ってはあるものの、アイロンをかけて、しまわれるのを待っているのだ。
 床に山積みの衣類を洗濯籠に入れなさい。マーティンは散らかっているのが嫌いだ。
 (『英語圏女性作家の描く 家族のかたち』の「週末」より)

 
 僕の個人的な希望としては、本来の原文にあるような、行間のスペースを尊重してほしかった。今回の翻訳では、紙の分量の問題か、行間にスペースを入れるのは省略されている。実際には、こういうスペースが意外な効果をもたらすことも十分ありえる。例えば、似たようにスペースを開けて書く方法をとる作家に(と言っても、内容はまったく違うジャンルだが)、カート・ヴォネガットがいる。少なくともヴォネガットの小説の場合、僕が思うに、こういう行間が、印象的で不思議な深みを小説にもたらしている。

 いずれにしても、ウェルドンの短編の中でも「週末」は傑作と言われるだけのことはある。読む価値あり。独特の読後感があると思うが、これこそウェルドンの味わい。

発見の楽しみ

 エリザベス・テイラーとフェイ・ウェルドンしか紹介しなかったけれども、このアンソロジーにはまだ他に13人もの作家がいる。これらの中で、僕が比較的知っているのは、A.S.バイアットだけ。あとは、聞いたことはあるけど読んだことはない名前か、もしくは、初めて知った名前ばかり。

 ちなみに、「なかなかいいなあ」と思ったのは、マーガレット・アトウッドの作品。非常に有名な作家だけれども、僕は一冊も読んだことがない。こういう機会に読んでみると、発見があっていい。出会いになる。あと、メアリ・ゴードンという作家の「仮のすみか」というのも良かった。アメリカ文学ではそれなりに有名な人らしいが、ぜんぜん名前に心当たりがなくて、知っていることがだいぶ偏っているなあと反省してしまう。こんな感じで、どれが良かったとか、誰のが好きとか、こういうアンソロジーは楽しみが多くていい。