笑いのちから

富山太佳夫 『笑う大英帝国――文化としてのユーモア』(岩波書店岩波新書 2006)
■澤村灌・高儀進編 『イギリス・ユーモア文学傑作選 笑いの遊歩道』(白水社白水Uブックス 1990)

ユーモア精神をお勉強

 先日、紀伊国屋書店新宿本店の五階で「笑いのちから」という特集コーナーをやってるよ、というメールを頂いた。せっかくなので、どれどれ、ということで仕事の合間の昼休みに行ってみた。そこでは、中央のレジ前の棚の一面を使い、「笑い」というテーマを切り口に、研究書から文庫本まで、硬そうなものから気軽なものまで、あれこれ本が並べられていた。研究用の洋書のパンフレットリストまで備えられていて、紀伊国屋書店らしい、ブッキッシュというか、本格的な顔ものぞかせている。

 たった棚一面だけだから、どんな本があるのかざっと見るのに五分もかからないのだが、こういう陳列もなかなか興味深い。本屋さんというのは、研究書は研究書のコーナーに、新書は新書のコーナーに、という具合で、本の内容ではなくどちらかといえば体裁ごとに仕分けされていることが多い。だからこういうような本の配列のしかたは新鮮に映る。「日本文化における笑い」みたいな本と、イギリスのユーモア小説とが、隣りあわせで飾られていることのなんて、あんまりない。

 そんなこんなで、本格的で知的好奇心をくすぐる書籍もあったのだけれど、結局紀伊国屋の作戦通りお金を支払ってしまったのは、この上の二冊。ねらいとしては、まず岩波新書の『笑う大英帝国』を読み、イギリスのユーモアについて、その理論を「お勉強」をしてみる。そしてその後、もう一方のイギリスユーモア小説のアンソロジーを読み、理論から実践へ、ユーモアの現場を体験してみよう、というか、実際に笑ってみようという魂胆。果たしてうまくいくのだろうか。

ユーモア理論編

 『笑う大英帝国』は実際のところ、ユーモア理論の硬い研究書などではなくて、王室から下ネタまでの実例豊富な、愉快な新書だったりする。王室ネタの紹介はなかなか楽しいし、政治ネタでも、とくに副首相プレスコット氏のことなどは、もし彼についてよく知らないのならば、ぜひ読んでみてもらいたいと思うところ。イギリスにはああいう政治家がいて、労働党が嫌いな人でも、彼のことはなんだか憎めない感じがするわけだ。

 個人的には、「ガリバー旅行記」で有名なジョナサン・スウィフトの『使用人心得』が紹介されていたところが注目だった。僕が読んだのは昨年の4月、岩波文庫の古めかしい復刻版で、タイトルも『奴婢訓』という、いかにもいかめしいものだったが、これがまたなんとも愉快な一冊。そして『笑う大英帝国』の中でも、僕が『奴婢訓』でとくに抜群のおかしさだと思ったところ(「主人に一度名前を呼ばれてもすぐには行かないこと・・・召使は犬ではないのだから」と「料理中のスープに煤が落ちて入ってしまったら、そのままよくかき混ぜて、高尚な『フランス風味』に仕上げること」)が同様に引用されていた。僕もこの新書の著者先生と同じところをおかしいと思えるほどはユーモアのセンスがあるのだと一安心した・・・と言いたいところだが、この『奴婢訓』は、どこを読んでもおかしいので、あまり参考にはならないかもしれない。

 召使ネタといえば、P.G.ウッドハウスの超有名な「ジーヴスもの」もちゃんと取り上げられている。ジーヴスのユーモア小説シリーズは、最近日本でも国書刊行会が精力的に出版を進めているので知名度も上がってきているのだろう。それにしても、カズオ・イシグロの小説『日の名残り』を「イギリスの古き良き伝統と、緑に囲まれた美しい建物が・・・」みたいな側面だけで読む人には、ぜひ、『奴婢訓』と「ジーヴス」シリーズ、あるいは、『笑う大英帝国』でも紹介されていた、オスカー・ワイルドの『真面目が肝心』を読んでみて、と言いたい。「召使」の一面的なイメージを打破した上で『日の名残り』を読むと、きっと新鮮で「高尚な」視野が開かれると思う。

 そういえば、『日の名残り』が、ただ単に「イギリスの伝統と美しさ」みたいな印象の小説になってしまったのは、ジェイムズ・アイボリー監督の美しい映画のせいのような気もする。僕の好きなE.M.フォースターの小説も、彼の監督する映画になると、そのユーモアとか、あるいは過激な感じなところが影を潜めてしまい、とても良くできた「美しい映画」になってしまう・・・たとえば『ハワーズ・エンド』とか。でもこれは、僕に映画を観る眼がないせいかもしれないので、断定できない。

ユーモア実践編

 次は『イギリス・ユーモア小説傑作編』について。19世紀のディケンズから戦後に活躍した作家まで、全部で十二編が収録されたアンソロジー。編者の言葉にあるとおり、「ペーソスの漂う笑い」「ナンセンシカルな笑い」「黒い笑い」「とぼけた笑い」「ミステリアスな笑い」など、ユーモアの多様な側面が取り上げられている。『笑う大英帝国』で登場したP.G.ウッドハウスの「ジーヴスもの」もちゃんと収録されている。やっぱり彼抜きでは、とくに19世紀以降だったら、イギリスのユーモア小説を語ることはできまい。

 いくつか、読んでみて面白かったものを紹介してみる。まずは、チャールズ・ディケンズ。やっぱりさすがだ。この本では「ミンズ氏といとこ」という短編が収録されているが、その冒頭を読んだだけで「これはおもしろそうだな」と思わせてしまう:

オーガスタス・ミンズ氏は独り者で、本人の言うところでは四十ぐらいだが、友人たちの言うところでは四十八ぐらいである」(p.5)

 これだけで、きっとこの主人公は変わり者で、おかしなことをしてくれるのだろうと期待してしまうわけだ。そして実際にその期待どおりストーリーは展開する。しかし、これは甚だ「19世紀的」というか、「ヴィクトリア朝的」とでもいうべき推測なのだ。ある意味、予定調和の世界なのだから。

 この19世紀的ディケンズの対極にあると言えるのが、このアンソロジーの後のほうに登場するフラン・オブライエンの短編。もしあなたが、フラン・オブライエンという名前を聞いただけで素直な読書をあきらめ、身構えることができたなら、なかなかの読書家だと思う(僕がこんなことを言うのも偉そうだけれども)。このオブライエンの短編「ジョン・ダフィーの弟」は、次のように始まる:

「厳密に言えば、この話は書いてもいけないし、してもいけないのである。この話は書いたりしたりすると台無しになってしまうのだ」(p.191)

 こういう語り口って、どこかで聞いたことがあるような・・・僕には、ロレンス・スターンの『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』を思い出させる印象。ほんとうに『トリストラム・シャンディ』と似ているかどうかは実際に読んでいただくこととして、僕はこの「ジョン・ダフィーの弟」が、このアンソロジーの中でもひときわ異彩を放っていることを指摘すれば十分だと思う。さすがは、かのジェイムズ・ジョイスが評価した作家だけのことはある。

 アントニー・トロロープの「パナマへの船旅」は、安心してゆっくり楽しむことができる作品だった。トロロープ(この短編集の表記では「トロロプ」)は、もっともっと紹介されていい作家だと思う。僕はこういう感じの語り口や物語の展開は好きだ。平易で落ち着いた、大人びた小説。読書とは本来、こういう作品を時間をかけてゆっくり読むような行為だったのではなかろうか。しかし、めまぐるしい現代社会では、このような刺激の少ないストーリーでは物足りなく思われるのかもしれない。

ユーモア決勝戦

 『イギリス・ユーモア傑作編』の十二編のうち、一番好きなのはどれ?と尋ねられたら、僕は、二つのうちのどちらかにしてよいか、かなり迷うだろう。その二つとは、イーヴリン・ウォーの「勝った者がみな貰う」と、ドリス・レッシングの「歓び」。二人とも僕のかなり好きな作家ということもあって、ベストワンを決定する最終選考まで残ってしまう。

 まず、ウォーの「勝った者がみな貰う」だが、これはもう、ウォーらしさが良く発露した作品。彼は主人公を徹底的にいじめ抜く。とことんまで、やるせないくらいに。この点は、ウォーの処女作『大転落』(タイトルがポール・ペニフェザーの冒険』とか『衰亡』とかに訳されるときもある)において、主人公がとことんまで栄華と没落を極めるのと似ている。有名な『一握の砂』でも、主人公は最終的にこれでもかというくらい無残な結末を迎える。他の作品、『黒いいたずら』や『囁きの霊園』(あるいは『愛されしもの』と訳されるときもある)も同じで、やはり、とことんまで、やるせないくらいぐらい話が展開する。

 つまり、ウォーを読むおもしろさはこういうところにあるわけで、「悲惨すぎる」とか「極端だ」とか、目くじらを立ててはいけない。『ブライズヘッドふたたび』がちょっと特殊なのだ。昨年日本でもこの本が復刊されたが、これが傑作であることには異論はないけれども、あんまりウォーらしくない作品であることも確か。

 あと、もう一方のドリス・レッシングの「歓び」について・・・これは、子供が独立したくらいの年齢の夫婦、メアリとトミーが南仏へバカンスに出かけるエピソード。二十年来出かけていた南仏の海岸の村へ、このたび四年ぶりに赴いたところ、村は観光地として発展してしまっていて、定宿もいっぱいで泊まれず、せっかくの南仏で二人は出だしからつまづく。なんとかして寝場所を得て、夏の太陽を満喫しようと砂浜に寝そべり、トミーのほうは海で潜水する楽しみを見つけたりするが、かたくななメアリは意地を張ってしまい、楽しみを見つけることができない・・・そんな話。

 僕は、やっぱりレッシングはうまいなあ、とか、読ませる作家だよなあって思う。レッシングのほうが一番かな・・・。気がついた点だけれども、この短編は、冒頭にまず、クリスマス時期のできごとから始まる:

「メアリ・ロジャズの一年には二つの大きな祭日、ないしは変わりめがあった。クリスマスの飾りつけが片付けられると、さっそく彼女は二つめの祭日の準備にとりかかった」(p.200)

 「二つめの祭日」とはもちろん夏の休暇旅行のこと。そして、そのあとずっと南仏へのバカンスに向かうエピソードが続く。メアリは結局ずっと不機嫌なままこの南仏の村を去り、イギリスへの帰路の途中、夫婦は鉄道の乗り継ぎの関係でパリに立ち寄る。以下はそこでのできごと。これは、この短編の一番最後の部分でもある:

「夫婦はセーヌ河畔の露天のマーケット近くを歩いていた。そのときメアリが土器を売る屋台のまえで足をとめた。
『あの大きな鉢』とメアリは声を上げたが、それは新たな生気を帯びていた。『あの大きな赤いの、ほら、あそこよ――クリスマス・ツリーにぴったりじゃないかしら』
『ぴったりだね。さあ、買ってきなさい、メアリ』トミーはさっそく同意し、ほっと胸をなでおろした」(p.223)

 すごい細かいところだけれども、この短編小説は、最初にクリスマスが言及されて、そして最後もちゃんとクリスマスについて触れられて終わっている。メインは南仏にバカンスへ行く話なのに、こういう細かいところまで行き届いた配慮。もし深く読むならば、メアリの楽しみは夏の休暇旅行とクリスマスしかない、そういうことを暗に示すための描写とも解釈できる。こんな、細やかな観察力と的確な描写の点で、僕はドリス・レッシングに軍配を上げたい。

笑いの2007年?

 やっぱり二冊いっしょに取り上げると長くなってしまう。こういうふうに欲張ると、書くのもちょっと大変。ところで、前回このブログで取り上げた『イングランドイングランド』も分類的にはコミック・ノベルだったから、今年2007年は、このようにユーモアの側面からスタート。でも、こういうのって、つまりユーモアなんてものは紹介してもなかなかうまく伝えられない。ぜひとも実際に読んでみてください、という感じ。