ジュリアン・バーンズ『イングランド・イングランド』 

古草秀子訳、東京創元社2006)
〔Julian Barnes England, England (1998) 〕

ユーモア満載

 2006年の年末に発売されたバーンズのユーモア小説は、期待にたがわない、とてもおもしろくて、そして読みがいのある作品だった。イギリス的なユーモアとか、イギリスらしさ(いわゆる「Englishness」というやつ・・・学校のイギリス文学の授業ではお勉強する題目のひとつ)に関心のある人は、ぜひ読むべきだろう。

 ポイントは、ただ単に「おもしろい」というだけではないところ。何かで読んだのだけれども、おもいろいだけの小説ならば誰でも書けるのだ。この『イングランドイングランド』を読めばわかるが、意外と詩情のある、味わい深い小説だったりする。バーンズには限らない話だが、現在活躍中の作家は、果たして今後、アカデミックな研究に耐えうるような「ハイブラウ」な作品を書いているのかどうか、評価が難しい。つまり長い歳月を経ても埋没しない「文学」かどうか、にわかに判断しがたい。でも、ジュリアン・バーンズは、僕が思うに、かなりいい線をいっている。100年後も読まれているかどうかは確信がないが、まあ、少なくとも半世紀ぐらいはあれこれ研究される作家になるだろう。

 まずは、この本の「おもしろい」部分から紹介しよう・・・サー・ジャック・ピットマンという富豪実業家が、イギリス南部のワイト島全部を使ったテーマパーク建設に着手する。この「高級レジャー施設」が目指すのは「イングランド」。もうひとつのイングランド、その名も「イングランドイングランド」を、この実業家(僕にはこの登場人物が、ヴァージングループ会長のサー・リチャード・ブランソン氏を思い出させる)はワイト島に造りあげてしまう。

 「イングランド」を目指すのだ・・・ということは、ワイト島に揃えなくてはならないものもおのずと決まってくる。バッキンガム宮殿、ビッグベン、ストーンヘンジ、二階建てバスに黒塗りのタクシー(ブラックキャブ)、食事はイングリッシュ・ブレクファストからパブでの語らいもOK。紅茶にガーデニングも当然楽しめる。さらには歴史上・文学上の登場人物も出現し、ヴィクトリア女王クロムウェル、チャタレイ夫人(!)やロビン・フッドに会うこともできてしまう。そしてついにはイギリスといえばこれ、という最終兵器、「王室」までもが、イギリス本土から移住してしまう。

 ちょっとだけ、笑えるところ、というか、苦笑を誘うイギリス的ユーモアを紹介しておく。まずは、ワイト島に再現されたロンドン塔について。この有名な観光スポットに中には、なぜか最高級デパート「ハロッズ」が店を構えており、買い物を楽しむ観光客には、ビーフィーターがカートを押してくれる、という。(ビーフィーターとは実際のロンドン塔にいる衛兵で、赤いチューダー時代風の格好をしていて、現在ではロンドン塔のガイドなどをしている。)これは、はちゃめちゃ系のユーモア。

 現在のイギリスでは100ペンス=1ポンドというすっきりした形になっているが、1971年までイギリスでは、12ペンス=1シリング、20シリング=1ポンド、という複雑な貨幣システムになっていた。そこで、このテーマパークでは・・・「イングランドの旧貨幣の複雑さに頭を悩ませてみたいという、冒険好きな方のための支払い方法もある。銅貨や銀貨でポケットをふくらませたいというならば、四分の一ペニーのファージング銅貨から半ペニー青銅貨、一ペニー青銅貨、グロート銀貨、タナー白銅貨、シリング白銅貨、フロリン白銅貨、ハーフクラウン銀貨、クラウン銀貨、ソヴリン金貨、ギニー金貨とお望みしだい」(p.179)

 「イングランドイングランドでは、赤い二階建てバスに乗りたいと思えば、あなたがポケットから小銭を探し出し、配車係が呼び笛を唇に当てるよりも早く、二台も三台も矢継ぎばやにやって来る」(p181)これは皮肉っぽい・・・あの二階建てバスが、なかなかやってこないのを、みんな知っているから。バス停で目を凝らしながらバスを待つ経験を、ロンドンでは誰もがしている。

イングランドイングランド』版「主の祈り」

 さて、こういう「イングランドイングランド」のおもしろさばかり紹介していると、この小説の本筋が伝わらなくなる。この本の主人公は、マーサ・コクランという女性で、このテーマパークを開発・運営しているピットマン・コーポレイションに勤務している。小説の第二部は「イングランドイングランド」の話だが、第一部は彼女の少女時代、第三部では、彼女の晩年が描かれる。上で「この小説は味わい深い」と書いたが、つまりこれは、このマーサ・コクランの人生についての描写が、なかなかしんみりとして、深い印象を残すということを言いたかった。

 ここから先は読んだ人ではないとピンと来ないと思うので、以下省略でお願いしたい。

 読んだ方なら、「ああ、あれね」という具合に思い出してもらえると思うが、この『イングランドイングランド』を味わい深く、詩情豊かにしている鍵のひとつとして、キリスト教の「主の祈り」のパロディがある。全体を通じて、とくに「支柱と花と物語とは、汝のものなればなり」というフレーズが、肝心なところで何度も繰り返され、この小説の真髄に近づく大切なポイントのように思える。まず最初に、翻訳された主の祈りのパロディをそのまま引用してみる:

天に屁をひるわれらのヒヒよ
ねがわくは、ヘマをあがめさせたまえ
失敗を、きたらせたまえ
出来心の天になるごとく、地にもなさせたまえ
われらのもめ事の種を、今日も与えたまえ
われらに罪をおかすものを、わられが強請るごとく
われらとともに強請りたまえ
われらをごろつきに逢わせず、灰汁より掬い出したまえ
支柱と花と物語とは、かぎりなく汝のものなればなり
アーメン
(pp18-19)

 で、これはジュリアン・バーンズの原文だと、このようになっている:

Alfalfa, who farts in Devon,
Bellowed be thy name.
They wigwam come.
Thy swill be scum
In Bath, which is near the Severn.
Give us this day our sandwich spread,
And give us our bus-passes,
As we give those who bus-pass against us,
And lead us not Penn Station,
Butter the liver and the weevil.
For thine is the wigwam, the flowers and the story,
For ever and ever ARE MEN.
(pp12-13、Picador版ペイパーバック)


(僕が直訳すれば)
デヴォンに屁をひるアルファルファ
ねがわくは、その名をどなられたまえ
彼らはテント小屋にやってくる
セヴァーン川の近くにあるバースにて、
そなたの生ゴミはカスとなりたまえ
われらにサンドイッチスプレッドを、今日も与えたまえ
われらに対するものに、われらがバス定期券を与えるがごとく
われらにもバス定期券を与えたまえ
われらをペン駅には導かせず
レバーとゾウムシにバターを与えたまえ
支柱と花々と物語は
かぎりなく汝のものなればなり

 ここに現れる「wigwam」とは、調べたところ、「北アメリカの先住民の小屋のように、つる性植物で円錐形を作るようにした自然素材の支柱」とのこと。強引に直訳してみたが(間違っているかもしれない)、最後の「ARE MEN」だけは、どう訳したらいいか、なかなかアイデアが浮かばない。ちなみに、ジュリアン・バーンズがパロディにする以前の、もともとの「主の祈り」とは、このようなものだ:

Our Father, who art in heaven.
Hallowed be thy name.
Thy kingdom come.
Thy will be done
On earth, as it is in heaven.
Give us this day our daily bread.
And forgive us our trespasses,
as we forgive those who trespass against us.
And lead us not into temptation.
But deliver us from evil.
For thine is the kingdom, the power and the glory,
For ever and ever Amen


(日本語訳)
天におられるわれらの父よ
ねがわくは、御名(みな)をあがめさせたまえ
御国(みくに)を、きたらせたまえ
御心(みこころ)の天になるごとく、地にもなさせたまえ
われらの日用の糧を、今日も与えたまえ
われらに罪をおかすものを、われらが許すごとく
われらの罪を許したまえ
われらを試みに逢わせず、悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは、かぎりなく汝のものなればなり
アーメン

 こうしてみると、『イングランドイングランド』日本語版の翻訳者、古草さんは、この「主の祈り」のパロディをかなり工夫して翻訳していることがわかる。なかなかうまい翻訳だと思う。ただし、翻訳がうまいということを紹介したくて、ここに書いたのではない。「支柱と花と物語とは、かぎりなく汝ののものなればなり」というのが印象的なフレーズなので、原文はどういうふうになっているのだろう、とか、パロディになる前の「主の祈り」はどのようなものなのだろう、という興味が僕にはとても沸いてきた。そしてこれが、既に読んでいる方で、同様に興味をお感じの方に、多少のご参考になればと思う。

おすすめできる小説

 2006年の年末から2007年のお正月は、主にこの『イングランドイングランド』を読んで過ごしたが、久しぶりに人に遠慮なく勧められる本を読んだ感じがする。僕がここで取り上げる本は、自分の好みには合うけれども、他人も楽しめるかどうかはちょっと自信がなかったりするものも多い。第一、絶版の本が多くて、ということは、あんまり万人受けしないということの証左ではないかと思ってしまう。

 イギリスに興味のある人なら、きっと楽しめると思う(楽しくなくては読書ではないという方もOK)。イギリスにそれなりに詳しい方なら、あちこちにこめられた皮肉に気付いて面白いと思う。ジュリアン・バーンズ愛好者の方にとっては、いつもの彼の才気煥発ぶりや、「記憶」や「歴史」といった定番のテーマが今回も繰り出されるので、これまた十分楽しめるだろう。そして読書に対し、ある程度のしんみり感や味わい深さ・詩情を求める僕のような人間にも、なかなか満足させられる内容。なんだか東京創元社のまわし者のように絶賛してしまったが、この本は、こんな具合で、なかなか悪くない。