2007年回顧(出版編)

今年の出版物を振り返って

 今年2007年は、お正月からびっくりさせられてスタートした。元旦の新聞に、長らく絶版だった、あのロレンス・ダレルアレクサンドリア四重奏」(高松雄一訳、河出書房新社シリーズが再び出版されるという広告を発見したことだ。その後、春から順調に出版されて、さらに新聞での書評などでも紹介されて、今年2007年前半のイギリス文学関係ではもっとも注目の書籍になったと思う。同じ新聞広告には、さらにこの11月から同じダレルの「アヴィニョン五重奏」シリーズも刊行予定ということだったが、こちらは現在のところまだ刊行されていない。我が身を振り返ってみれば、元旦の計というのはなかなか実現が難しかったりするわけで、「五重奏」の刊行についても長い目で見てあげるべきだろう。あと、ダレルということで言えば、このダレルブーム(?)に便乗するかたちで、これまた長らく絶版だった彼の『黒い本』(河野一郎訳、中公文庫)も復活している。

 僕の個人的な印象だが、今年は文庫本に注目株が多かった。まずは、朝日新聞のコラム(3月6日)で、丸谷才一氏から「もっとモダニズムの本を出したらいいのに」と指摘された岩波文庫から。まず注目は、ジェイムズ・ジョイス『若い芸術家の肖像』(大澤正佳訳)が6月に発売されたこと。ジョイスのこの小説といえば、長らく新潮文庫丸谷才一訳に慣れ親しんできたわけで、新たに発売された岩波文庫版との読み比べはきっとおもしろそうだ。そしてJ.B.プリーストリー『夜の訪問者』(安藤貞雄訳)イングランド紀行』(上下巻、橋本槇矩訳)も刊行されて、こういう作家もいたのだなあという勉強になった。岩波文庫2007年最大の注目だと思うのは、秋から発売されたヘンリー・ジェイムズ『大使たち』(上下巻、青木次生訳)。なんと下巻巻末には「ジェイムズの作品を読み慣れない読者のために」という訳者の解説まで付されている親切な一冊。こうして、ヘンリー・ジェイムズについては、彼の後期三大長編(この『大使たち』のほかに、『鳩の翼』、『黄金の盃』、二作品とも講談社文芸文庫)がすべて文庫本で読めることになった。

 文庫本ではないけれども、岩波書店の話になったのでここで書いておくが、V.S.ナイポール『魔法の種』(斎藤兆史訳)が発売された。同じ出版社と訳者のコンビで2002年にはナイポールの『ある放浪者の半生』も出ているし、2005年には『ミゲル・ストリート』(こちらの訳者は違う人だけれども)も出版されている。2001年に彼がノーベル賞を受賞したことが発端とは思われるが、岩波書店はなぜこんなにもナイポールが好きなのだろうか。

 筑摩書房ちくま文庫では、今年2月発売の中野康司訳ジェイン・オースティン『分別と多感』が良かった。ジェイン・オースティン、とくに『高慢と偏見』はあちこちの出版社から文庫本が刊行されているので、いったいどの訳者のものを選んだらいいのかわからなくなってしまう。というか、オースティンの原文はああいう英語なので、翻訳はどうしても説明風に長々となってしまい難しい作業だろうと想像する。今回、個人的には中野訳がなかなかとっつきやすかったので(ということは、あのドライな原文に、それなりに手が加えられているという意味でもあるが)、同じ訳者による『高慢と偏見』と『エマ』(ともにちくま文庫)も試してみたいと思った。イギリス文学ではないけれども、同じちくま文庫のラインナップにエドガー・アラン・ポー短編集』(西崎憲編訳)が加わったのにも興味を感じている。ポーの短編集は、売れるのかなんだか理由はわからないが、文庫本業界では激戦区のひとつ。でも、僕の好きな本がこのようにして増えるのは歓迎したい。

 他に今年出た文庫本で注目のものをどんどん見ていく。中公文庫ではトマス・ハーディ『日陰者ジュード』(上下巻、川本静子訳)をやっぱり読んでみたい。それと集英社文庫ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』(丹治愛訳)も翻訳が読みやすくて良かった。あのウルフなのに、いたって親しみやすい。早川書房のハヤカワepi文庫からは(イギリス文学ではないけど)クッツエー『恥辱』(鴻巣友季子訳)カズオ・イシグロ充たされざる者』(古賀林幸訳)が出た。『充たされざる者』は文庫本としては異例の分厚さ。きっと、上下巻にすると下巻を買ってくれない人が続出するからなのだろう…ということは、つまらない作品なのだろうか。今度読んでみることにするが、腕が疲れるだろうな。ちなみに、ここまでに紹介した四作品とも、元々は単行本で発売されていたので、厳密には新出のものではない。新出の作品で文庫本なのは、サラ・ウォーターズ『夜愁』(上下巻、中村有希訳、創元推理文庫。まだ読んでいないので、果たしておもしろいのかどうかわからないが、彼女がこの小説のために取り上げた時代(第二次世界大戦前後)のイギリスには興味があるので、どのような具合に描写がなされているのか、それを楽しみに近々必ず読むことになると思う。

 文庫本に関しては変り種も刊行された。出版社はなんとハーレクイン。HQ Fast Fiction、略してHFFシリーズと称して、ジェイン・オースティン『分別と多感』(日向由美訳)高慢と偏見』(田中淳子訳)シャーロット・ブロンテジェイン・エア』(南亜希子訳)エミリー・ブロンテ嵐が丘』(石川久美子訳)の四作品が12月に一気に刊行された。勇気を出して本屋さんのこの手のコーナーに行き、実物を手にしてみると「あれ?薄い!」と感じる。それもそのはず、ダイジェスト版になっているとのこと。どこがどうなってしまっているのだろうか。ある意味、興味津々。ジェイン・オースティンに関しては、なぜ人気の『エマ』ではなくて『分別と多感』なのだろうという疑問もわく。

 続いて単行本をチェック。今年の前半で一番良かったのはウィリアム・トレヴァー短編集『聖母の贈り物』(栩木伸明訳、国書刊行会だろう。この本はなかなか上質な味わいだった。他にジョン・ベイリー『赤い帽子』(高津昌宏訳、南雲堂フェニックス)なる超マイナー作品も出版された。もっとメジャー作家では、ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』(岸本佐知子訳、白水社が注目。ウィンターソンは、なんだか若手の作家という印象だったが、最近はめっきり「文学」として取り上げられるようになってきた。ウィンターソン『パワーブック』(平林美都子訳、英宝社も今年翻訳出版されている。あと、ぜひとも読んでみたいのは、ダフネ・デュ・モーリアレベッカ』(茅野美ど里訳、新潮社)。同じ出版社から違う訳者で文庫版もあるが、こちらは新訳。ダフネ・デュ・モーリアなんて…と馬鹿にしてはいけない、少なくとも『レベッカ』だけは十分に読む価値があるのではないかと僕は思うのだけど、どうだろう。

 年末になって、映画の公開に併せてエリザベス・テイラー『エンジェル』が翻訳されたのは、前回のブログに書いた(単行本は白水社、小野谷敦訳、文庫本はランダムハウス講談社、最所篤子訳)。年末もかなり遅くなって、イアン・マキューアン『土曜日』(小山太一訳、新潮社)も出た。あと、個人的に本当に驚いてしまったのは、アラスター・グレイ『ラナーク』(森慎一郎訳、国書刊行会が刊行されたこと。アラスター・グレイだけは絶対に翻訳されないだろうと思って、密かにチビリチビリと英語で読んでいたのだ。出版社の言うような『重力の虹』や『百年の孤独』に並ぶ傑作かどうかについてはいささか疑問だけど、大作であることには間違いない。不思議な世界が展開するわけだが、まあ、少なくとも『重力の虹』よりはずっと読みやすい小説。

 さて、ここまで一言も触れなったけど、今年2007年の最大のニュースは、ドリス・レッシングのノーベル文学賞受賞だろう。戦後イギリス小説にとっては、久しぶりの快挙。レッシングは必ずしも読みやすい作家ではないので、受賞後にちゃんと記念出版が行われるのか個人的には危惧していたけど、最近になって書店でもかなり充実したラインナップになってきた。基本的にはかつて絶版になっていた作品の重版ばかりだが、中でも水声社から出た三作品、『暮れなずむ女』(山崎勉訳)、『生存者の回想』、『シカスタ』(ともに大社淑子訳)には注目。かつて刊行していた出版社から版権を買い取ったのだと思うが、新たにきれいに体裁良く発売されている。選ばれた作品もなかなか良い。一方、例えば晶文社『草は歌っている』(新装版、山崎勉、酒井格訳)は、かつてのものと中身は一緒で、カバーだけ新しくしたとしか思えない。とはいえ、レッシングの代表作『草は歌っている』がこのように身近になった功績は否定してはいけないだろう。最後に、レッシングについての僕の希望としては、まず新訳を刊行することを期待したい。レッシングには未訳のものがたくさんあるのだから。あと、既訳で絶版の作品のうち、ぜひとも『黄金のノート』の復活をお願いしたい。2008年、どこかの出版社がやってくれないものか。

 次回は、今年の僕のブログを振り返る予定。果たして年内に間に合うのだろうか。