ロレンス・ダレル 『アレキサンドリア四重奏I ジュスティーヌ』 

高松雄一訳、河出書房新社 2007)
〔Lawrence Durrell Justine (1957)〕

異端児ダレル

 僕が興味を持っている時代、つまり20世紀の半ばから後半にかけてのイギリスのことだけれども、オクスフォードかケンブリッジを卒業しているということの持つ意味は、きっと僕たちがなんとなくイメージするよりずっと大きいに違いない。第二次世界大戦以前の日本で「帝大卒」という学歴が意味するところに近いのではと想像する。イギリスでも、戦後新設された大学群が十分根付き、サッチャー流の経済価値観が広まった1980年代以降には、それまで少しずつ変化していた旧来型社会階層システムの崩壊が明白になった。だから以前は「高学歴」「中流階級以上」「富裕層」の三つの要素はおおむねきれいにイコールでつながっていたのだけれども、現在ではその相関関係が必ずしも成り立たない状態になっている。

 しかしかつては、オクスフォードかケンブリッジを出ていれば、とりあえずイギリス社会の主流層(支配的、指導的階層という意味で)としてのスタートを切れることが約束されていた。でも仮に、ある作家の卵が両大学のいずれかを目指していたのに入れなかったとしたら…その後に生み出される作品において、この挫折感は彼/彼女の作風に影響を与えるのだろうか。もっと広い意味で考えるなら、もし「イギリス社会の主流層」に入らない(入れない)イギリス人作家は、「主流層」に迎えられた作家と比べたとき、何か作風に違いがあるのだろうか。

 というのも、ロレンス・ダレルの経歴を読んでいて、次のようなところが気になったからだ。


①インド植民地生まれで、両親もまた植民地で生まれた世代
②イギリスの寄宿学校に送られたがまったくなじめなかった
③個人教授を受けながらケンブリッジ大学を目指すが失敗
④23歳でギリシア領コルフ島に住んで以来、各地を転々とするが、基本的にはイギリスには戻っていない


 これは当時の、社会的成功を収める典型的なイギリス人の経歴とは程遠い。僕はダレルについて、はっきり「異端児」というレッテルを貼ってもいいのではと思う。そしてこういう人こそが、「アレキサンドリア四重奏」に代表されるような、モダニズムの息吹を残す作品を書いているわけだ。

 戦後のイギリス圏では、みんなまるでモダニズムなんて時代は存在しなかったかのように小説を書くのだけれども、その中であってもモダニズムの傾向を残した作家といえばこのダレルのほかに、サミュエル・ベケットマルカム・ラウリー、B.S.ジョンソンなどを思いつく。そして僕は彼らの経歴と作風には何か共通する要素があるなあと感じてしまう。ベケットアイルランド人でずっとフランスにいた人。ラウリーはケンブリッジを出たものの世界を放浪し、イギリスには死ぬときまで戻らない。B.S.ジョンソンは労働者階級の出身で、イレヴン・プラスに落第してしまった(イレヴン・プラス…11歳で受ける学力テスト、これに落ちると大学受験ができるような進学校には入学できない。当時はたった11歳で人生が決まってしまった…ただしB.S.ジョンソンは勉強しなおし、23歳で大学に合格する)。みんなイギリスの主流からは外れた人たちばかり。

 もちろん、本家本元の戦前のモダニズム自体が、ヴィクトリア朝的価値観とリアリズムへのある種の反発を、イギリスの「主流」からは外れた人々が表現したものなのだ。(ちゃんと勉強してみないと断言できないけど。)ジェイムズ・ジョイスアイルランド人、T.S.エリオットはアメリカ人、ヴァージニア・ウルフは当時の女性という立場。もちろんT.S.エリオットは自らイギリスへ渡ってきたのだけれど、戦後のモダニスト作家を含めて、みんなイギリスという国にはしっくりいかなくて、そのなじめなさが、イギリスに典型的なリアリスティックな作品とは相反する手法という形で具現化している…のではないだろうか。

 アントニー・ポウエルのような誰が見ても上流階級的経歴の作家は、ああいう典型的なイギリス的小説を描く。「私は伝統路線でいく」宣言をしたマーガレット・ドラブルも主流路線の経歴。ちょっとずれてるな、と感じる作家は、僕が思うに、経歴や出身階層を見ると納得できそうな気がする。そういう人たちは経歴がやっぱり典型的な「主流」からはちょっとずれているのだ。ジョージ・オーウェルしかり(植民地出身)、アイリス・マードックしかり(アイルランド)、ドリス・レッシングしかり(植民地出身)…。そしてついでに言えば、主に1970年代以降は、逆に植民地出身、といってもイギリス白人支配者層ではない、被支配者側の移民たちやその子孫がイギリス文学に進出するようになり、これ以降、僕の「モダニスト=異端児」説は、社会階層自体の変化とも併せて、あまり唱える意味がない時代をむかえていく。典型的な主流イギリス人的経歴というものが消失し、みんなが異端児の時代。きれいにまとめれば、多様な価値観の時代。

n次元小説

 1957年というから、ちょうど50年前に発表されたこの小説『ジュスティーヌ』は、骨子からいえば(小説に骨子などというものがあるとしての話だけれども)、すこぶる単純だと僕は感じた。パターンとしては「愛する対象の喪失」系のメロドラマ。自分が好きだったり大切にしていたりするものが無くなったり、どこかに行ってしまったりしたら悲しいではないか。それもその喪失の原因が自分にあったりしたら。この小説はその手の物語。

 このメロドラマパターンを形作る登場人物は四人。主人公の「ぼく」、この「ぼく」と付き合っているギリシア人ダンサーのメリッサ、「ぼく」と急速に親しくなっていくジュスティーヌ、ジュスティーヌの夫で富豪のネッシム。これだけでだいたい見当がつくと思うけど、要するに「ぼく」は、愛してくれているメリッサから心が離れてしまい、ジュスティーヌにぞっこんになってしまう。ネッシムは嫉妬にかられ、ジュスティーヌは結局「ぼく」ともネッシムとも離れて失踪する。そんなこんなのうちに、元から体の弱かったメリッサは死んでしまう。二兎を追うものは…ではないけれど、「ぼく」は結局メリッサもジュスティーヌも失うわけだ。

 しかし、あくまでもこれは骨子で、実際のストーリーはアレクサンドリアの下町の路地みたいにもっと細かく複雑な迷路のようになっている。「ぼく」が回想する形式の、一人称の視点の小説だから、読者は彼の言葉だけから事情を読み取っていかなくてはならないし。実際のところ、僕はこの小説、最初のうちはわけがよくわからなかった。眠くなるのをこらえてガマンして読み続けていくうちに、やっとだんだん読みやすく感じられてくるようになった。最後のほうにはちゃんと「全員集合の場面」もあって、ストーリーも盛り上がる。(「全員集合の場面」…個別に登場していたキャラクターたちが一堂に会する場面のことを指す僕の勝手な命名。全員集合という性質上、パーティー系宴会の場面であることが多い。この『ジュスティーヌ』では狩猟大会となっている。)そして二回目に読むときは、一回目の疑問点も解消し、最初から納得して読むことができるようになった。

 さて、メロドラマはさておき、読みながら感じたことがあって、これはこの小説『ジュスティーヌ』が「小説を書く」ということに対して、あちこちで野心的な態度を表明している点。僕が思うに、つまりこれはロレンス・ダレル自身の小説作法への野心的態度が反映しているせいだろう。素直にストーリーを描いていけばいいところを、たまに「こんなふうに小説を書きたい」みたいな要素が顔をのぞかせる。具体的にはまず、ジュスティーヌが洋服屋さんの鏡の前に立ち、語るせりふ:

見てごらん!ひとつのものが五つの違う形になって映っている。わたしが小説家なら性格の描写に多次元的な効果を出してみたいと思うところね。プリズムを通して見るみたいに。人が一時にひとつのプロフィールしか見せてはならないってこともないでしょ(p.30)

 登場人物を「多次元的な効果」で表現したいと言っているけど、この「多次元」という言葉がくせもの。他の例としては、『ジュスティーヌ』には『風俗(ムール)』というタイトルの小説が内包されるかたちで長々と引用されるのだが、その一部分:

すべての人物は時間によってある次元に縛りつけられているが、それはぼくらがそうであってほしいと望むような現実ではない――作品の必要によって作られた現実だ。なぜなら、あらゆる劇は束縛を作りだし、そして人物は縛られている度合いに応じて意味をもつだけだから(p.92)

 また「次元」が出た。そしてこの『ジュスティーヌ』には、一番最後に「作品の要点」という章が添えられている。(こんな章のある小説は普通じゃない。やっぱり異端児だ。)ここで語られる一節:

「n次元小説」三部作についてパースウォーデンが言う。「物語の進行運動量は過去に言及するたびに押し戻される。つまりaからbへと進行するのではなく、時間の上に立って、おのれの軸のまわりをゆっくりと旋回しながら、模様の全体を包みこんでゆく、という印象を与えるのがこの本だ。事件のすべてが前へ進行して別な事件に繋がってゆくのではなく、そのあるものは過去の事件に逆戻りする。過去と現在が結婚して、多種多様な未来がぼくらに向かって飛んでくる。とにかく、それがぼくの考えだったんだがね」(p.304)

 パースウォーデンとは、この小説に登場する人物のひとりで、小説をいくつか書いているが自殺したらしい(明確には描かれていない)。とまあ、ここでもまた「次元」が出た。つまりそれぞれの文脈こそ違えど、どうやらダレルは「多次元」みたいなことに興味があるらしいとわかる。それも「多面的」という言葉ではなく、数学用語でわざわざ語らせている。もっと素直に言うならば、ダレルは小説というものが過去から未来へと進む時間の流れに縛られていることが気に入らないみたいで、これをどうにかしたい、もっと時間に拘束されない描き方をしてみたい、そういう野心がここから感じられる。実際、『ジュスティーヌ』は時間軸にはきちんと並ばない多くのエピソードの集成という体裁の作品となっている。どうりで読みづらいわけだ。

ダレル再評価?

 現代の日本でもそうだし、きっと世界中で言えることなのだろうけど、「こういう人生を送るべきだ」みたいな「正統な」人生とか、典型的なパターンみたいなものは、価値観の多様化の前に崩壊しつつあると思う。もちろん、お金持ちになって、不自由なく暮らせれば誰でもハッピーだろう。でも、「金銭=幸福」という考え方には疑問を持つ人だっているわけだ。いろいろな価値観や宗教の人々と共存する社会…結局、望むと望まざるとに関わらず、これだけ世界中を人々が行き交うわけだから、こういう「多様な価値観との共存」みたいなことが、社会のテーマになっていく。

 僕はダレルのことを「異端児」と呼んだが、異端がいれば正統もいる。正統とはつまり、いわゆる「正典」と呼ばれるような本や作家のこと。イギリス文学の正典といえば、なんだろう…シェイクスピアとか、オースティンとか、ディケンズとかかな。でも、よく言われているように、正典なんて誰が決めたんだということが問題で、何が正統で、何が正統ではないなんて勝手に決めるなということだ。社会が変遷し、いろいろな読み方や価値観があるのだから、ある人にとっては正典扱いの作品でも、他の人にとっては目の上のたんこぶのような、異端の一冊かもしれない。

 だからロレンス・ダレルも、もしかすると20世紀イギリス文学の中ではかなり個性的で、これまでは異端、ないしは傍系扱いだったかもしれないが、発表から五十年が経過した今、主流(正統あるいは正典)になるとは言えなくても、英文学の多様性の「先駆」とか、「一翼を担う」みたいな形で、もっと評価されるようになっても良いと感じてしまう。そして彼の本を読むにあたり、僕はダレルの、「あいつら(イギリスの普通の作家)になんか負けないで、なんとかしてユニークな小説を創ってやろう!」みたいな野心的な挑戦を、興味を持って楽しんでいきたい。「アレキサンドリア四重奏」シリーズは、まだあと三作品も続く。