ジョン・ベイリー 『赤い帽子』 

(高津昌宏訳、南雲堂フェニックス2007)
〔John Bayley The Red Hat 1997〕

フェルメール

 フェルメールの絵を実際に観たことがあるだろうか。かつてロンドンで行われた「フェルメールとデルフト派展」に行き、僕は初めて彼の作品に遭遇したのだが、そのときの第一印象は、なんといっても「絵が小さい」ということ。一メートル四方くらいのキャンバスに描かれているものもあったが、例えばあの有名な『牛乳を注ぐ女』なんて、50センチメートル四方もない。どの作品も、こんな小さなキャンバスに細かく精密に描かれている。そして会場ではそれをじっくり鑑賞しようと、狭いスペースに人が多く群がり、人口密度が異様に高まってしまう。混んでいるところに巻き込まれるのは常に遠慮したい僕としては、せっかくのフェルメール鑑賞も、なかなかの難行苦行となってしまった。世界に三十数点しか残っていない作品のうち、十三点も集めた記念すべき展覧会だったそうだが、五年以上経過した現在、もはや鑑賞した記憶もかなり薄らいできている。

 この「フェルメールとデルフト派展」の会場には、『赤い帽子の女』という絵もあったはずだ…といっても、僕ははっきり覚えていないのだが、記録を調べるとそういうことになっている。大きさは22.8x18センチメートルというとても小さな肖像画フェルメールの真筆かどうか疑問の声も多いらしく、そういうことを知っていれば、もっと僕もしげしげと、人ごみに負けずに鑑賞しただろう。そして、この一枚の小さな絵から、ジョン・ベイリーはひとつの中篇小説を作り上げた。これが『赤い帽子』という作品。(ただし、ジョン・ベイリーのこの小説の発表は1997年。ロンドンのナショナル・ギャラリーでのフェルメール展は2001年。)

 作者のジョン・ベイリーだが、僕にとっては(そして多くの人にとってもそうだと思うけれど)なんといっても、あのアイリス・マードックのご主人ということで名高い。彼女との結婚生活と、彼女が侵されたアルツハイマー病の経緯を描いた回想記は有名だし(邦訳あり)、その映画版である『アイリス』はもっと有名。ジム・ブロードベントが演じた、あの優しいけれど、かなり無器用そうなジョン・ベイリー像が印象に残っている。こんな具合で、マードックのご主人というイメージばかりが先行するが、彼は長らくオクスフォードで英文学の先生をしていた文芸批評家。最近の批評の本などではあまり登場してこないけど、一昔前、たとえば、バーナード・バーゴンジーの戦後英文学についての名著『The Situation of the Novel』(1970)を読むと、ベイリーの名がたくさん言及されている。

 文芸評論家としても名高い大学の先生が、小説も書くというパターン…ぱっと思いつくだけでも、マルカム・ブラドベリとか、デイヴィッド・ロッジがいる。この二人の小説はなかなか面白いし、そして立場上、作品も創作技法にかなり意識的だ。ブラドベリの『超哲学者マンソンジュ氏』なんて、明らかに大学の先生が面白おかしく作った(ただし真面目な顔つきを装っている)という感じだし、ロッジの本も、とくに以前の作品には、文学を研究している人々がよく登場する。では、ジョン・ベイリーの『赤い帽子』は果たしてどんな小説なのか。

謎を残して

 この本は第一部と第二部からなり、第一部ではナンシーという主人公が友人たちと一緒にオランダのハーグを訪れ、フェルメールの絵を観に出かけた顛末が語られる。第二部では、ナンシーによるハーグでの奇妙な体験談に興味を持ったローランドという男性が、ナンシーを南仏の小さな村まで追いかけ、そこでまた不思議な事件が発生するというストーリー。第一部はナンシーによって、第二部はローランドによって語られ、どうやら、彼らは必ずしも真実を述べていないようだが(彼ら自身が真実を把握していないようでもある)、読者は彼らの言葉からしか物語を知ることができない。いわゆる「信用できない語り手」というパターン。

 とくに第一部でのナンシーの語りがとても不思議に感じられる。ナンシーはハーグで「浅黒く、ハンサムな男」(名前はわからない)に夢中になってしまい、その男が勝手にホテルの自室に入ってきても騒がないし、なんと彼に首を絞められ殺されそうになっても、このような感じだったりする:

彼が実際やっていたことは、わたしの首を愛撫し、まさに快感が得られるように適切な箇所を締め上げることだった。わたしは気を失いつつも、天にも昇る気持ちだった。彼にもそれがわかっていたに違いない。おそらく十分な経験があったのだろう。わたしは極めて自然に呼吸し、呼吸しながら体に当たっている彼の厚い胸を感じ、まさに眠りに落ちるときの気分だった。真の「愛=死」だった。(p132)

 首を絞められて快感というのは、いったいどういうことなんだろう、苦しくなるはずなのに…こういうふうに疑問を感じるのが普通の読み方だと思う。つまり、首を絞められて快感を得ているナンシーが、普通の人とはちょっと違って異常な状態にあるということだ。だから、彼女の言うことがあんまり信用できなくなる。また、この引用でも「に違いない」とか「おそらく…だろう」という言葉が使われているとおり、ナンシー以外の事柄でも、彼女自身の類推・観察でのみ表現されているわけで、作者ベイリーが読者に与える情報はかなり限られている。

 『赤い帽子』を最後まで読んでも「それで、本当のところはどういうこと?」という疑問には、結局ベイリーは答えてくれていない。ナンシーと謎の男の関係はわからずじまい。むしろ、それまでオランダとフランスを舞台としていたところに、今度はナンシーがロンドンに現れるらしいぞ、という新たな展開を予感させるところで物語が終わる。日本で読書しているとわかりづらいが、これはイギリス本国の読者にとっては、ナンシーと謎の男のミステリーがイギリスにも忍び込んでくるぞ、と突然現実味を帯びさせている終わらせかた。幽霊小説とかで「この霊は、じつはあなたの身の回りにも今度現れるかもしれません」というふうに終わらせているのと一緒の技法だろう。

 いずれにしても、謎を多く残したまま物語は終わる。そういえば、フェルメールの『赤い帽子の女』も、本当にフェルメールの手によるものなのか、謎が残っている。また、この絵に描かれた人物像が、果たして女性なのか、それとも女装した少年なのか、これも判然としない。さらに、研究者がこの絵にX線を照射して観察してみると、上下さかさまになった男性の肖像画が現れてきたそうだ。

マニアックなベイリーファン向け

 「愛=死」なんて書いてある部分を引用したので、『赤い帽子』がなんとも奥深い文学であることを想像されたかたもいるかもしれないが、この本は実際のところかなり気軽に読める。同じ「愛と死」でもワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』みたいな、深遠な世界を連想してはいけない。一気に読めばそれほど時間もかからない、かなり軽めの本。なので、正直言うと、ちょっと価格が高いかもしれないと感じてしまった(2,940円)。ジョン・ベイリーのファンにとっては、この値段でも読む価値があるのだろうけれど、果たしてそういうマニアックな人は日本にどのくらいいるのだろう。