ダフネ・デュ・モーリア 『レベッカ』

(大久保康雄訳、新潮文庫1971)
(茅野美ど里訳、新潮文庫2008)
Daphne du Maurier Rebecca 1938

 不安にかられる瞬間がある。家を出るのが遅くなってしまったが、約束の時間に間に合うだろうか――マイペースな僕はこの種の不安には、残念ながらよく襲われる。また、出かけるということでいえば、こんな格好で出てきてしまったけど、果たしてふさわしい服装だっただろうかという不安にとらわれることもある。着ている服が似合う/似合わないという問題もあるが、ちょっと改まった場所に向かう際などは、襟がついている服のほうが良かったかな、とか、いっそのことスーツが良かったかなとか、いろいろ考え始めるときりがない。こういう場合は、「誰も僕の服装なんか注目しないから大丈夫、自意識過剰になるな」と自分を諫めて不安を解消させることにしているが。

 おかげさまで方向感覚はしっかりしているほうなので、道に迷うことはほとんどない。知らない地下鉄の駅から地上に出るときも、ちゃんと構内の地図を見てから外に出る。でも、人によっては、道に迷うとか、目的地にたどり着けないというのも大きな不安の原因になるだろう。あともちろん不安といえば、仕事がうまくいくかどうかという不安感は常に少しずつつきまとっている。自分に責任のある会社の取り組みが果たしてうまくいくかどうか――まあこれは、学生時代の試験勉強に近いものがある。やるべき準備をしっかりやって本番に臨む、これしか不安を解消する手はない。あと、ちょっと(かなり?)お気楽な僕としては、こうも考える――べつにこの仕事に失敗したとしても命を失うわけじゃないしさ、と。

 でも、服装だとか、約束の時間に間に合うかとか、方向感覚とか、こういった不安感に日々さいなまれるとしても、まだまだたいしたレベルではないのかもしれない。人によっては、お金がないとか、さらには、食べるものがないとか飲む水がないとか、住む家がないとか、そういう生存にかかわる不安に直面している人だっているのだから。手を差し伸べたくなる事態である。しかしさらに一歩進んで、巨大隕石が地球を直撃するとか、UFOに連行されるとか、ブラックホールに吸い込まれるとか、そういうとてつもない不安感に恒常的に悩まされている人もいるようだが、ここまで至ると僕にはその不安解消のためにお手伝いしたいという同情の気持ちは、あまり湧き上がってこない。大きな不安でも些細な不安でも言えることだが、不安がっている人を客観的に見た場合、第三者からはおもしろおかしく見えてしまうことがある。つまり、不謹慎だが、不安にかられている人が少し滑稽に見えてくることがある。

 ダフネ・デュ・モーリアの『レベッカ』は、若い女性の主人公(最後まで名前は明かされない)がいつも不安にかられている小説ともいえる。私はこんな立派な人と結婚してよかったのだろうか、こんな立派なお屋敷に住んでいいのだろうか、この屋敷の女主人としてどのように振舞えばいいのだろうか、どういう服を着ればいいのだろうか、何を話せばいいのだろうか、云々。こうした主人公の不安感を幾度も繰り返し表現し、その感覚を読者にも伝播させることで、なんだか読んでいるほうもちょっと不安になっていく――これがゴシック・ノベルとしての『レベッカ』の作戦なのだろう。ところで、ゴシック小説とかゴシック・ノベルというものはいったい何ぞやという問題があるのだが、僕個人としては、怖くておどろおどろしい印象を読者に与えようとしている小説のこと、くらいに考えている。

 でも、デュ・モーリアが主人公の不安感を書き連ねたからといって、読者のすべてがそのゴシック小説的効果を真に受けるとは限らない。上に書いたように、不安に駆られている様子が、場合によっては滑稽に見えてしまうこともある。『レベッカ』の若い女性主人公は、結婚し、立派なマンダレーという名前の邸宅に暮らすようになってから、あれこれ不安にかられて常に動揺しまくっている。そして動揺のあまり、いろいろな失敗をしでかしてしまう。ここではその三つ列挙してみる:

1. つまずく

食堂を出ようとして、わたしは、ぼんやりと、あらぬ方に目を走らせていたので、階段につまずいて、よろよろとよろめいた。するとフリスが駆けよってきて、わたしのからだをささえ、落ちたハンカチを拾ってくれた。カーテンのかげに立っていた若い従僕のロバートが、笑い顔をかくすために、あわてて向こうをむいた。(大久保康雄訳、上巻p.161-162)

2. グラスを倒す*1

わたしは、すぐに立ち上がったが、あわてていすをどける拍子に、食卓をぐらつかせて、ガイルズのぶどう酒の杯をひっくりかえしてしまった。(同p.195)

3. 陶像を壊す

わたしは、その書物を、書卓のいちばん上の列にならべた。書物は、たがいによりかかりあいながら、あぶなっかしくゆれた。わたしは飾りぐあいを見るために、すこしうしろのほうに身をひいたが、たぶん、わたしの動きかたが早すぎたので、ぐらついたのだろう、いちばん前の一巻が落ちると、他の書物も、そのあとからすべり落ちてしまった。そのために、燭台をのぞくと、それまで書卓の上のたった一つの飾りであった小さな陶器製のキューピッドが、ひっくりかえった。そして、床に落ちると、紙くず籠にぶつかってみじんにこわれてしまった。(同p.284)

 きっと僕が素直ではないせいかもしれない。主人公はおどおどしているあまり、このようにつまずいたり、グラスをひっくりかえしてしまったり、物を床に落として壊してしまったりするのだろう。それはそうなのだが、僕にはこれらの失敗が、なぜかかなりおかしく、ユーモラスに思えてしまう。以前、子供のころにテレビの『8時だよ、全員集合』を毎週楽しみに観ていたが、ドリフターズのメンバーたちがするコントも、ずっこけたり、壊したり、粗相をしたりという内容が多かった。『レベッカ』からドリフターズを連想したりして、作者のデュ・モーリアには申し訳ないような気がするけど、でも、主人公の振る舞いには絶対にコメディーの要素が混じっている。少なくとも僕自身はそう感じ取ってしまった。それにそもそも、主人公が階段でつまずいたときに従者のロバートが思わず笑ったと書いている点からすれば、デュ・モーリアだってこのようなコミカルな側面に気がついていたのだろう。

 不安を煽ったり、真剣に怖がらせようとすると、かえって滑稽に見えたりユーモラスに感じられてしまうということが他の小説でもあるのだろうか。他のゴシック小説を読んでみると、意外と笑える要素があったり、ツッコミどころ満載だったりするのかもしれない。ジェイン・オースティンの『ノーサンガー・アベイ』は、当時流行していたゴシック小説をオースティン流にかなり皮肉った小説だが、主人公のキャサリンがアベイ(修道院)だったお屋敷で、嵐の夜中に一人で謎の箪笥を検分していたら隠れた引き出しが見つかり、その引き出しから何か不思議な紙の束が見つかった!!というところで、ランプが消えて明かりがつかなくなってしまう。いったいあの紙束は何なのだろう、何かいわくつきの由来のある古文書なのでは、と興味で悶々としながらやっと寝付いたキャサリンは、翌日、朝日の下でその紙をチェックしてみると、それはなんと、単なる洗濯物の請求書だった、というかなりズッコケる展開。こんな小説を書くくらいだから、オースティンもまた間違いなく、ゴシック小説の笑えてしまう側面を見抜いていたのだと思う。

*1:じつは主人公は以前、モンテカルロでマキシムに出会う際、ホテルのレストランのテーブルでも花瓶をひっくりかえしてしまうという失敗をしている。これがきっかけで、主人公とマキシムの交際が始まった。ただし僕個人としては、主人公のこの粗相は意図的なもので、有名人と知り合い近づきになりたいという主人公の意識的/無意識的な願望が、ヴァン・ホッパー夫人以上にいやらしい形で実行されてしまった一例と解釈してみたい。