『論座』2008年4月号の特集「理想の書評」

日参加した会社の会議で、「採用面接で質問してはいけない事項一覧」というプリントが配られた。同和問題等で出身地を問いただすのはよろしくないということはわかっていたけれども、他にもあれこれ項目があり、僕が就職活動をしていた一昔前に比べて、最近はもっとセンシティヴになっていることを感じた。たとえば、尊敬する人は誰ですか、といった質問。これはつまり、ある種の宗教を信じているとか、特定の政治思想を持っていることなどを理由に採用・不採用を決定してはいけないという点がポイントになっている。だから、ある志願者が尊敬する人として、宗教指導者や政治家の名前を挙げた場合、それが理由で就職できなかった…と不採用通知後に訴えられないようにするためだ。

 他にもあって、「愛読書」を質問するのもよろしくない。たとえば、志願者が「愛読書は聖書です」と答えたとしたら、面接官の僕はどのようなリアクションを取ったらよいか確かに困ってしまうだろう。でもまあ、僕が志願者だったとして素直に「ウィリアム・ゴールディングです」とか「アイリス・マードックです」と答えても、面接官はわけもわからず狼狽することは必至なわけで、こういう「愛読書」なるものは面接ではお互いに遠慮したほうがよさそうだ。人が何を「愛読」するかは自由なのだ。みんな好きなものを読めばよい。同様に「愛読紙」も尋ねてはいけないとのこと。特定の宗教や政党色を帯びた新聞が存在するからだ。

 採用面接というのは公平性がとても求められる場だけに、このように非常に慎重な対応が必要になるのだけど、普段の会話でもこの手の内容はちょっと気をつけるようになる。新聞は何気ない日常の存在なのに、意外にもみんなはっきりとした好き嫌いがあったりする。たとえ自分が大嫌いな新聞を友人が読んでいるからといって、その友人のことを嫌いになってしまうことはないと思うけど、でもやっぱりそれを知ったあとからは少々気になってしまうかもしれない。だから僕がここに自分の愛読紙(物心がついて以来、ずっと同じ新聞を読み続けている)の紙名を披露するのが、果たして適切な行為かどうかわからなくもあるのだが、それは朝日新聞だ。――というわけで、このように開陳してしまったが、えーと、このブログの読者の皆様におかれましては、もしかすると朝日新聞は見たくもないし、触りたくもないという方もいらっしゃるかもしれませんが、今後もこちらのブログのほうはよろしくお付き合いくださいませ。

 しかし、愛読紙が朝日新聞だからといって、この新聞の書くことや為すことに諸手を挙げて全面的に賛成しているわけではない。愛しているからこそだと思うのだが、この新聞に対して言いたいことやムカつくことが頻繁に生じる。たとえば、最近の話題で言えば、今度変更される印刷される文字の大きさのこと。確か、何年か前に文字を大きくしたばかりではなかったか。なんでまた、文字を大きくするのか!! 僕個人としては非常に残念だ。だって、文字が大きくなるということは、ページが増えるわけではなさそうなので、文字数が、そして情報量が減るということではないか。きっと記者のみなさんは楽チンになっていいだろうが、僕は言いたい、「だったら、値下げしろ!」と。新聞の記事は短いものが多くて、確かにまあ、ニュースなどは短く簡潔でもいいだろうが、でも、もっと長く追求した内容にすればずっと面白いはずなのに、と思われる記事も多い。日本の新聞記者は書くのが面倒くさくて楽をしているのではないかと、僕は少々勘ぐってしまったりもする。ちなみに今、「日本の新聞記者は」と敷衍して書いたが、毎日新聞の文字は最近大きくなったばかりだし、読売新聞も朝日新聞と同時期に文字を大きめにする予定であるのは、みなさんもご存知かもしれない。



れとは別に、常々、朝日新聞に対して文句の投書をしてやろうかと思ってしまうことなのだが、それは書評欄について。日曜日の紙面には書評面があるのだが、その書評の長さがあまりにも短いことについてはもう諦めているから別にいい。問題はそこで取り上げられる本に偏りがあること。つまり具体的にはノンフィクションばかり取り上げられていて、フィクションの書評が少ないことだ。もっとフィクションの書評を充実させろと言いたい。もちろんこれは、僕が「役に立つ」本を毛嫌いしているという、個人的な趣味志向が反映している主張であることは認める。でもさあ――と僕は言いたい――本というのは一種の芸術なんだからさ、素晴らしいフィクションが持っている、そのすぐれた想像力やクリエイティヴィティを新聞という公共的な場でもっともっと紹介してあげなきゃだめなんだよ!絵や音楽を鑑賞するのと同じで、良いフィクションを読むことは生活を豊かにすることができる(はず)なのだから。

 ところで、上で「書評の長さが短い」と書いたが、これは何と比較して短いのかというと、もちろん欧米の新聞書評と比較してということ。雑誌『論座』(これも朝日新聞社が出している雑誌だった…)の四月号に「理想の書評」という記事が掲載されていて、ここでは小野寺健さん他執筆者の皆様方が、イギリスでも長い、アメリカでも長い、ドイツでも長い、フランスでも長い、という具合に畳み掛けるようにして、それぞれの国における書評の長さを誇って(?)いる。誰もはっきりとは書いていないが、これはつまり新聞書評であっても「理想の書評」は十分な長さがとられるべきで、日本のものは短すぎるということだ。

 この特集内にある小野寺健さんの記事「理想の書評に追求してほしいもの」では、なぜ日本の書評が短いのかについて、二つの理由が考察されている。一つは「議論」や「論争」の伝統の欠如。もう一つは「散文」の伝統の欠如、だそうだ。この場合の「散文」とは、「理論と遊びが融合したエッセー」という意味で小野寺さんは述べている。まあ、確かにそうですよね、と僕は思う。日本の新聞書評で(といっても、朝日新聞しか読んでいないので、僕がこのように日本全般の新聞について敷衍できるのか説得力に欠けるが)、著者に喧嘩をふっかけるような書評を読んだためしがない。だいたいは、内容を紹介して褒めておしまい。何事においてもそうだが、欠点を指摘するのは勇気がいる。議論・論争の伝統がないせいかもしれないが、むしろ日本の書評者たちは勇気がないせいなのかもしれない。それと「散文」に関していえば、真面目かつユーモアあふれる名文を書く人は日本でもたくさんいるのに、それが書評という場にはあまり適応されていないとは思う。書評欄は本を簡潔に紹介する場であって、べつに読んで面白いことが書いてあるわけではないという前提ができあがっていることに問題があるのだろう。



本の新聞書評はなぜ短いのか。今回の『論座』の執筆者たちは誰も指摘していないが、僕には思い当たるフシがある。ロンドンで暮らしていた頃、僕はろくに英語ができないにも関わらず新聞『ガーディアン』を毎日買い(日曜日は休刊なので姉妹紙『オブザーバー』)、仕事の合間や家に帰ってから読むようにしていた。『ガーディアン』を買い始めて気がついたのは、とにかく分厚いこと。必ず「G2」(「ガーディアン第二部」ということだろう)と題された別刷り版が入っているし、とくに土曜日には別刷り「サタデイ・レヴュー」のほかに雑誌が二冊(「ウィークエンド」「ガイド」)が入っていて(もしかすると、スポーツ面も別刷りだったかもしれない…もうしばらく前のことなので正確には忘れてしまった)、さながら日本の正月元旦の新聞のような状態になる。この分厚さの結果は、当然だが情報量の多さ、すなわち記事の長さに行き着くと僕は思う。平日版に毎日入っている付録の「G2」はタブロイド版の大きさで、10ページほどのちょっとした読み物特集のような体裁だった。記事は日本だと「アエラ」とか「読売ウィークリー」といった雑誌に載っているような内容、つまり、ニュースというほど緊急性の高い情報ではないけど、時事的な読み物という感じだった。一本の記事の長さも「アエラ」などの雑誌の平均的な記事の長さとほぼ同じくらいだった。

 「G2」のような、このくらいの長さの読み物付録が毎日入っている…ということは、新聞に対して時間をかけてじっくり丹念に読む人がいるということだ。ましてや土曜日の紙面だと、あれを全部しっかり読むには相当な時間(二、三時間?)がかかるだろうなあと思う。『オブザーバー』や『タイムズ・オン・サンデイ』などの日曜紙も、毎週が日本のお正月新聞のようにとても分厚くて別刷りがたくさん入っているから、これまた読むのに相当な時間がかかる。日本の新聞の週末版にも別刷りが入っているが、朝日新聞で言えば土曜日にも日曜日にも二部ずつの別刷りが挟み込まれているものの、いずれもとっても薄くてペラペラで、全部読みきるのに数時間かかるなんていうことは考えられない。

 でも、僕はここで、イギリスの新聞は量が多くて素晴らしいのに対し、日本の新聞は内容が乏しくてよろしくない、ということを言いたいのではない。なぜこのように新聞の体裁が異なるのかといえば、結局、読者が新聞に求めるものが違っているからに他ならないと僕は思う。イギリスの新聞読者は新聞に「読み物」的傾向を期待して、じっくり時間をかけて読んでも良いと思っているわけだ。だから、各社ともこぞって立派な別刷りをオマケして読者をひきつける。でも一方、日本の読者は別に新聞に対して「読み物」を期待していないわけだ。簡潔なニュース。簡潔な内容。読むのに何時間もかかるような記事は期待されていないから、おのずと紙面も短くなるのだろう。

 こういうところが、いつでもあわただしく流行の回転が速くて、何事にも刹那的な傾向のある日本らしい特徴だと思うが、新聞記事というのはじっくり取り組むべき「読み物」とみなされていないわけだ。だからこそ、書評面だって短くなる。みんなが欲しいのは新刊の情報。いま何を読むべきか、できるだけ早く、手っ取り早くその答えが欲しい。別にその解答の理由なんかいらない。理由を読んでいる時間なんかもったいないのだから。イギリスの書評面のように、一冊の本をいろいろな角度からじっくり検討し、読むべきか読まざるべきかは自分で考えなさい――なんて悠長なことを言っていられないのだ。答えだけが書かれていることが期待されている日本の新聞書評はかくして短かくなっていく。



ここでイギリスの新聞書評が長くて充実しているのは、日本と異なりイギリスには新聞に「読み物」としての文化があるからだ――僕はこのように書いたけど、こういう結論の一般化には常に危険が伴う。今回の場合、僕が強引に一般化してしまっているのは「イギリスの新聞」というキーワード。僕はイギリスの事情しかわからないが、新聞書評として例に挙げられる新聞は、だいたい『タイムズ』、『ガーディアン』、『インディペンデント』、『サンデイ・タイムズ』、『オブザーバー』など。でも、イギリスには全国紙だけでももっと多くの種類の新聞が発行されている。日本のように、朝日、読売、毎日、日経の四紙を確認すればそれでOKとはいかない。以下の数字は、各紙の発行部数の一覧。2001年10月の記録で、僕の手許にはこれより新しい数字がないけれど、今でも各紙の読者のバランスはそんなに変化していないのではないかと想像する。

平日新聞(Dailies)
『サン』 Sun  3,451,746
『ミラー』 The Mirror  2,180,227
『デイリー・スター』 Daily Star  725,552
『デイリー・レコード』 Daily Record  564,556
『デイリー・メイル』Daily Mail  2,421,795
『エクスプレス』 The Express  877,735
『デイリー・テレグラフ』 Daily Telegraph  974,362
『タイムズ』 Times  678,498
フィナンシャル・タイムズ』 FT  446,271
『ガーディアン』 Guardian  424,132
『インディペンデント』 Independent  203,402


日曜新聞(Sundays)
『ニューズ・オブ・ザ・ワールド』 News of the World  4,104,227
『サンデイ・ミラー』 Sunday Mirror  1,844,932
『ピーピル』 People  1,364,110
『サンデイ・メイル』 Sunday Mail  692,280
『メイル・オン・サンデイ』 Mail on Sunday  2,323,926
『サンデイ・エクスプレス』 Sunday Express  823,813
『サンデイ・タイムズ』 Sunday Times  1,422,208
『サンデイ・テレグラフ』 Sunday Telegraph  795,654
『オブザーバー』 Observer  454,735 
『インディペンデント・オン・サンデイ』 Independent on Sunday  218,511
(『ガーディアン』2001年11月12日紙面の「全国紙発行部数」から)

 もちろん注目したいのは、『タイムズ』や『ガーディアン』の読者の少なさ。新聞書評といえば、なんといっても『オブザーバー』が有名だが、同じ日曜新聞でいえば有名なタブロイド新聞の『ニューズ・オブ・ザ・ワールド』のおよそ十分の一程度の販売部数でしかない。イギリスから離れて日本にいると、ましてや書評や文化関連の興味を持っていると、どうしても『タイムズ』とか『ガーディアン』、『オブザーバー』という名前ばかりが聞こえてくるが、イギリスの新聞全体で考えるとこうしたいわゆる「高級紙」は少数派にすぎない。少なくとも販売部数から推測する限り、多くの人は記事自体もそれほど長くないタブロイド形式の『サン』や『ミラー』を読んでいる。だから、『オブザーバー』に掲載されるような長い書評は、イギリスの中でも、かなり偏った人びとに向けて、嗜好を提供しているにすぎないということだ。

 一方、日本の新聞は販売部数が比較にならないほど多い。(以下の数字は朝刊のみ)

『読売新聞』 10,047,992
朝日新聞』 8,066,707
毎日新聞』 3,973,826
日本経済新聞』 3,040,509
産経新聞』 2,191,587
(インターネット上の各社サイトより)

 こんなふうに読者数が多いということは、すなわち、日本の新聞は多様な読者を抱えているということだろう。この読者の中には、本が大好きな読書中毒患者もいるだろうし、本なんか触りたくもないという人だっていると考えられる。そんな本嫌いの人にとっては、書評面なんて新聞代金の無駄遣いとしか思えないに違いない。多くの人の好みを満足させなくてはならないという現実のために(各紙の販売部数獲得競争とも密接な関わりがある)、紙面は、その長さも内容も、おのずと穏便な差しさわりのない内容になっていく。最大多数の最大幸福。各紙がこぞって字を大きく「読みやすく」するのもこの一環。そして新聞書評もまた、喧嘩をふっかけるような物騒な内容をかもし出すこともなく、ほどほどに短くて、有用な(と、一瞬思わせる)内容に収斂してしまう。



し日本にもイギリスのように、「知的な」かなり偏った人向けの新聞があれば、その新聞書評は長く、充実したものになるのかもしれない。でも、そういう読者が存在して、商業ベースに乗るほどの存在規模があったならば、きっとそんな新聞はもうとっくに発行されていたことだろう。だから、日本にはそういう読者がいない、少なくとも、採算が取れる新聞を発行できるほどにはいない、ということだ。理想的な読者がいれば、理想的な書評が理想的な新聞に掲載されていることだろう。読者がいないのだ。読者の不在。『論座』の中で小野寺健さんはこのように書いている。

さいごに、日本での書評不振のいちばんの手ごわい障害――読者がいないという現象について考えておきたい。「いない」理由についてはいろいろ考えてきたが、この問題の根はきわめて深いのである。この場合の読者とは、多分に排他的・閉鎖的な知的集団を意味するからだ。かつての文壇のような集団を、さまざまな知的分野に想像してみよう。英国にはそういう閉鎖的集団が存在して、彼らはTLSに自分の、あるいはそれ以上に他人の著書が取り上げられるか、どんな評価を受けたかに想像以上に関心をもち、話題にする。この現象は英国社会の差別的階層性とむすびついていて、知的集団には排他的、閉鎖的エリート意識がつよい。こういう社会で生きのびていくには、仲間の業績や評価に通じていなければならない。書評はその情報源の役目も果たすのである。だが日本では、こういう集団と書評の関係が希薄なのだ。

 ここで僕はこの小野寺さんの言葉にどうしても付け加えたい、というか、修正したくなるところがある。最後の部分「書評はその情報源の役目も果たすのである。だが日本では、こういう集団を書評の関係が希薄なのだ」というところ。ここは、僕なら「書評」という言葉を「新聞」という言葉に置き換える。日本の新聞書評がイギリスの新聞書評のように充実していない理由は、いままで見てきたいように、むしろ新聞そのものに原因があるのだから。日本の「知的集団」(なるものが、存在するとしての話だが)だけが好んで読む新聞は今のところ存在しない。つまり日本の「知的集団」は新聞をその情報源としても期待していないし、積極的な関心を持つような関係を新聞と築いてもいない。だから書評欄は万人向けの短く無難な内容になる。そしてこれは書籍に限らず、美術展のレビューもコンサートのレビューも、すべてそう。圧倒的な読者数と多様な嗜好の読者を抱える日本の巨大な新聞が、排他的な「知的集団」だけに媚びいり、その仲間内だけで盛り上がるような記事を載せられるはずがない。

 でも、もし排他的な知的エリート向けの新聞があったとしたら――ここでそんな想像をしてみる。そしてあなたはその新聞の愛読者だ。場面は採用面接会場。不慣れで無神経な面接官がこともあろうに、あなたに愛読紙を質問してきた。さて、あなたはどう答えるか。無難に、日本の大新聞の名前を答えてその場を切り抜けるか。それとも、正直に「排他的知的エリート新聞」の名前を伝えるか。べつにそういう新聞を読んでいるからといって、特定の宗教や政治思想を帯びていることを指し示すことにはならない。にもかかわらず、もしかすると正直に答えることがためらわれるとしたら…。このあたりには、イギリスの階層社会とは異なる日本社会のまた別の問題――出る杭は打たれる、のような――が、透けて見えてくる。

 ジェイムズ・ジョイス『ダブリンの人びと』

(米本義孝訳、筑摩書房ちくま文庫、2008)
James Joyce Dubliners 1914

超マニアのための入門書

 今年の二月にちくま文庫版『ダブリンの人びと』が新訳として発売になった。ジェイムズ・ジョイスの『Dubliners』は岩波文庫でも新潮文庫でも発売されているから、消費者にとっては三つの選択肢から翻訳を選べることになった。古書でもよければ、福武文庫版というものも存在する。調べていないけど、文庫本のほかに単行本も手に入れられるのかもしれない。ジェイムズ・ジョイスといえば二十世紀文学の最高峰として注目される『ユリシーズ』と『フィネガンズ・ウェイク』があるけど、こういうのを読むのはいろいろな意味でかなりしんどい。じゃあ、もっと親しみやすい作品はないのか…ということで、出版社はジョイス文学への入門編として『ダブリナーズ』に白羽の矢を当てるのだろう。また、同じジョイスには『ある若き芸術家の肖像』という小説もあるが、これは長編小説。『ダブリナーズ』のほうが短編集でとっつきやすい。

 ところで、この本のタイトルは『ダブリンの人びと』であるべきか、『ダブリンの市民』であるべきか。それとも助詞の「の」をはずして『ダブリン市民』であったほうがいいのか、僕にはなんともいえないし、どれかを選んで語るとその出版社の版をひいきにしているみたいに(自分の中で)思えてくるので、とりあえず今日のブログでは、僕はこの本のことを『ダブリナーズ』と書く。

 さて、しかしながら実際のところ、このジョイスの『ダブリナーズ』は本当に「入門編」だろうか。読んでみると「楽しい」と思うような短編集ではない感じがする。いったい何が起こるんだろう、ワクワクドキドキ、こんなストーリーは見つからない。登場人物たちはダブリン市内を移動しおしゃべりする。日常の出来事やちょっとしたドラマ(当人からすれば重大だが、他人から見ればどうでもいいようなこと)がいたって地味に述べられていく。そう、地味なのだ…当時のダブリンの世相がそうだったのかもしれないし、ジョイスがダブリンでの生活に楽しい思いを感じなかったせいかもしれない。比較的読みやすい作品がある一方で、場合によっては短編集の最後まで読むのがかなり大変に思われるような、ある意味、退屈と言っても過言ではない作品もある。

 さらに、この短編集は往々にして「閉鎖的」「麻痺状態」「陰鬱」などという、なんとも極端な言葉で評されていることが多くて(本当に陰鬱で閉鎖的かは読んでみてご確認ください…僕にはここまで悪印象な感じはしないけど)、こんな不健康な言葉を羅列していったい誰が読みたがるのだろうと思わず感じてしまう。ただし、文学愛好家を自認する人びとは、これまた往々にして、若干ながら、不健康で暗い性格を自らの中にある程度認めている人も多かろうと思うので(なんといっても読書は孤独で、ろくすっぽ体も動かさない行為だから)、逆にこういう鬱々とした紹介文に惹きつけられてしまうという、ちょっと病的でヤバめの人もいるのかもしれない。

 『ダブリナーズ』の暗さや地味さに注目してしまったが、一方で、こうした「文学愛好家」の中でも、大上段に構えて「文学」を語るような、なんともスノビッシュな方々にとっては、『ダブリナーズ』はなかなか深みのある一面を見せる。まず、この本のバックボーンにはアイルランドという一大テーマが控えている。「緑色」とか「ハープ」が文中に登場すると、これらには注釈が添えられ、アイルランドの象徴として解釈されてしまう。そしてイギリス本土とのややこしい、複雑で不幸な歴史。そしてこれをさらに難しくするカトリックプロテスタントの存在。こうした、アイルランドの文化・政治そして宗教のことを考慮していくだけで、『ダブリナーズ』には膨大な脚注がついてしまう。加えて、当時のダブリン市のこまごまとした内容にも説明が欲しくなる。有名な話だが、ジェイムズ・ジョイスは『ダブリナーズ』において、ダブリン市内の通りを正確に描写している。登場人物が存在しない通りに入っていったり、あらぬ方向に曲がってしまうようなことはない(らしい)。でも、現代の日本の私たちにはダブリン市内の道路状況なんてわからないから、こういう面を正確に把握したいと思ったらおのずと説明が、つまり脚注が必要になる。

 要するに『ダブリナーズ』というのは、とことん凝って創られたマニアックな本なのだ。『ユリシーズ』なんかと比べたら読みやすそうな短編集を装ってはいるし、実際文体的には読みやすくはあるけど、『ユリシーズ』的なさらなる超マニアック世界のための入門編であって、ざーっと読んで「はい、おしまい」では済みそうにもない。この点は今年出版されたちくま文庫版の『ダブリンの人びと』を手に取ってみれば明らか。研究者向けではないと思うのだが、見事にたくさんの脚注がつき(短編のひとつ「死者たち」には87箇所にも注が付く)、それぞれに充実した解説が添えられている。ここで唐突だけど質問。あなたは、こういう豊富な脚注を見て、どうだろう、ゾクゾクと興奮してくるだろうか。してくる?…そういうマニアックなあなたには、『ユリシーズ』と『フィネガンズ・ウェイク』という輝かしい道のりがまっすぐに続いているので、お楽しみに。よかったね。僕はまだしばらく遠慮しとくよ。

アラビー

 でも僕には、ちくま文庫版『ダブリンの人びと』におけるあまりにも豊富に添えられた脚注が、ちょっとうるさくも感じられた。もちろん訳者自身としては「作品に必要と思われる必要最小限の註解を選び抜いて付けた」のであって、「読者はそれにわずらわされないで、必要に応じて参照され」ればいいのだが、でも、こんな注が付いていたら、無視したくても気になってしまうではないか。

―――あんたはいいわね(19)、と彼女は言った。(p.51)

(パソコンの画面だとうまく表示できないので「あんたはいいわね(19)」となってしまうが、実際には言葉の右側に、通常の脚注同様小さく表記されている。)
この場合、注が付けられているのは、人名や地名といった固有名詞ではないから、そういったものの説明ではないことがわかる。じゃあ、いったい何だろう?「あんたはいいわね」の一言に、実はとっても深い意味が隠されているのか…ついつい、気になってしまうではないか。だから、今読んでいるところはいったん中断。指でページを挟んでおきながら、本の後ろのほうをわざわざ開いて、この注についての説明を探すことになる。これは昔、中学生や高校生のころ、英語とか数学の問題集を勉強していた状況に似ている。やり終わった問題の答え合わせをするときに、問題の載っているページがわからなくならないように指で押さえながら、巻末の解答を参照しなくてはならなかった。ページを行ったり来たりしなくてはならないという面倒。別刷りの解答集が添えられているタイプもあったが、そういうほうが、確かにやりやすかった。『ダブリンの人びと』もこれだけ注を添えるなら、巻末に入れるのではなく別刷りでも良かったかもしれない。

 とにかく、脚注が一見いらなさそうな言葉にまで注の番号が添えられているので、かえって気になってゆっくり読書ができない。答え合わせをしなければ先に進めないような気分。これは、とくに「アラビー」のような作品を読むときには、格別にうっとおしい。十五編からなる短編集『ダブリナーズ』のうち、「アラビー」は僕が一番好きな短編なのだが、とにかく静かな雰囲気で読みたい。理想的な環境としては、まず、晴れた冬の日の夕暮れ時がいいと思う。だんだん辺りが暗くなっていくタイミングで。時間はまだ遅くないのに、日が沈むのが早いという印象が欲しい。「アラビー」はどちらかというと夕暮れから夜にかけての(evening)の物語だから。そしてなんといっても静けさと孤独感。周りには誰もいないこと。静けさについては、書き出しからして、この短編がいかに「しーん」と静まりかえっているかが伝わってくる。

リッチモンド通りは、袋小路になっていて、クリスチャン・ブラザーズ学校が生徒たちを解放する時間を除けば、ひっそりとした通りだ。(p.47)

生徒たちのわいがいがやがやと騒ぐ声の存在を指摘しているからこそ、かえってこの道が普段いかに静かかが強調されていると思う。主人公の「ぼく」は近所の子供と一緒にこの道で遊ぶのだが、そういうときの叫び声の描写も同じ効果を見せている。

冬の短い日々が訪れると、ぼくらが昼食をちゃんと済ませないうちに、もう薄暗くなる。ぼくらが通りに集まるころには、家並みはすっかり黒ずんでいた。頭上にひろがるすみれ色をした空は刻々とその色合いが変わっていき、空に向かって街路のガス灯が弱々しい明かりを掲げている。冷たい空気が肌をさすと、ぼくらは体がほてるまで遊んだ。叫び声はしんと静まった通りにこだました。(p.47-8)

長く引用してしまったけど、「アラビー」にはこういう雰囲気に包まれている。なかなか詩的情緒に富んだ短編だと僕は思う。だからこそ、一人で静かに、よく耳を澄ませながら「アラビー」を読みたい。

 主人公の「ぼく」という少年は、近所の友達のお姉さんに恋をしてしまうのだが、内面では超悶々としているのに、実際に作品内で発する言葉数はとても少ない。静かで内気な少年という感じがする(「この心乱れる熱愛の気持ちをどうやって彼女に伝えたらいいかわからない」同p.50)。そして、ついに「ぼく」は彼女と言葉を交わし、その会話から、アラビーというバザーに行って何か彼女のために買い物をしてこなくてはいけないと決意する。それ以降「ぼく」は一人でアラビーのことばかり考えてしまい、勉強とか、そういう日常の瑣事に手が付かなくなってしまうが、一緒に暮らすおじやおばにアラビー行きの許可を念押しすることを除けば、彼が周囲の人に騒ぎたてるようなことはない。あくまでも一人きりで、静かに悶々として過ごす。

 やっとアラビーに向けて出発することができても「ぼく」の孤独は続く。アラビーに向かう列車の中でも一人きりだった(途中駅で列車に人びとが殺到したのに乗ってこない描写があるが、これがまたかえって彼の孤独を引き立てる)。念願のアラビーに着いても、残念なことに、もはや閉場時間でほとんどのお店は閉まり、会場内は静まりかえっている。唯一開いているお店に近づいたが、そこにいる大人からはほとんど相手にされない。もちろん買い物も果たせず、そうこうしているうちに、会場の明かりはもっと消されてしまう。そして、この短編の有名な終わりの一文が現れる:

その暗闇を見上げながら、ぼくは自分が虚栄心に駆り立てられ、それの笑いものになった人間であることに気がついて、ぼくの目は苦悩と怒りに燃えた。(p.57)
(Gazing up into the darkness I saw myself as a creature driven and derided by vanity; and my eyes burned with anguish and anger.)

「anguish and anger」と、「a」の音を響かせながらこの短編は幕を閉じる。暗くなった会場でしーんと静まりかえっている中、誰からもろくに相手をされず、目的も果たせなかった「ぼく」は、一人きりで、こんな気持ちになって佇んでいる。どうだろう…これを読む僕たち読者も、暗く静かなところで落ち着いて読むべきだと思うのだけど。「アラビー」はなかなか幻想的で、ノスタルジックな味わいの深い一編なのだ。せっかく読むなら明るくない静かな場所で、孤独に、そして脚注にも邪魔されずに、「ぼく」のように誰からもほっておかれながら読んだほうがいい。

 アンジェラ・カーター 『ワイズ・チルドレン』

(太田良子訳 ハヤカワ文庫2001)
Angela Carter Wise Children (1991)

 イギリス文学っていうのは、ちょっと「お地味」ではないかと思うときがある。とくに第二次世界大戦後の小説を読んでいるときに感じる。「華やかさ」というよりは、「暗さ」のほうが目に付く。例えば、アイリス・マードック…なんだか、おどろおどろしい世界が毎回広がっている。ミュリエル・スパーク…ユニークなストーリー展開は面白いが「健康的」という感じはしない。マーガレット・ドラブル…なんだか暗めで、現実的なストーリーが多い。ウィリアム・ゴールディング…とにかく真面目な内容。『蝿の王』の舞台は南海の楽園なのに、登場人物たちの行動が健全ではない。アントニー・バージェス…暗くて、ジメジメしている。有名な『時計仕掛けのオレンジ』のような、あんな印象。キングズリー・エイミス…『ラッキー・ジム』は面白いし、実際、画期的なコミック・ノベルだけれども、でも、あの本のことを「華がある」とは言わないだろう。

 まあ、はっきり言ってしまえば、戦後のイギリス自体に暗くて地味、みたいなところがあるのだ。戦後直後の窮乏時代はともかく、50年代半ばから上に書いたような作家が台頭し、文化的には充実してくるのだれけど、それでも作品の印象はなんだか晴れ晴れしく感じられない。晴れてすっきりという具合ではなく、非常にイギリス的といえばイギリス的な、どんより曇っていて、肌寒いような気配が濃厚。60年代はまだ賑わいのある時期だったが、70年代に入り景気が悪化し、労働争議など、社会情勢が暗くなってくると、作品も寒々しい感じになっていく。マーガレット・ドラブルはこの時期に、その名もまさに、小説『氷河時代』(1977)を発表しているわけだ。また、いつだったかここでとりあげたアントニー・バージェスの『1985年』(1978)も重苦しい70年代の時世を色濃く反映している。

 ところが80年代に入り、世の中の気配が変わってくる。イギリスで1980年代といえば、まさにマーガレット・サッチャー首相の時代(在任1979-1990)のことを指すわけだが、彼女の民営化、自由競争、利益至上主義の政権運営は良くも悪くもイギリス経済を活性化させ、社会は目覚しく生き生きとしてきた。(一方で、サッチャー首相ほど不人気な首相もいないのではと思うが、彼女のことを快く思わない人は、こうした政治の下、貧富の格差の拡大、教育や文化への補助金の削減、治安の悪化、麻薬の蔓延、などを指摘する。)

 世の中が活性化してくると、おもしろいことに、小説に描かれる世界も生き生きと華やいでくる。僕自身は今までアンジェラ・カーターの小説とは疎遠だったが、今回彼女の『ワイズ・チルドレン』を読み、「ああ、これこそ80年代を経た小説だなあ」と思った。陽気で楽しい主人公の語り口もあって、この小説では賑やかで華やかな世界が広がっている。戦後のイギリス小説は地味で嫌いという人には、この本がいいかもしれない。それと、ただ楽しくて面白いだけの本だったら「ちょっとね…」と思ってしまうのだが、アンジェラ・カーターはなかなか読み応えもある。何といっていいかわからないが、いわゆる読書の「深み」というやつ。かつ、作者自身の博識ぶりにも驚かされてしまうのだが、それはこの文庫本に丁寧に附せられた訳者による注を参照すれば明らか。

 ところで、テレビの話。テレビが各家庭にまで普及してくるようになると、今度はテレビの害を説く声が高まってきたのは世の東西を問わないようだ。多くの場合、こんな番組は子供には見せたくないとか、下品で質が良くないとか非難される番組があって、そしてそういう番組に限って視聴率は良かったりするわけだが、小説『ワイズ・チルドレン』にもそういうテレビ番組が登場する。その番組は、題して『バッチリ、ゲンナマ』。司会者であるトリストラム・ハザードの「ハーイ、ようこそ、マネー大好きのみなさん!」という景気の良い掛け声で番組は始まる。そしてこの番組の参加者が、何か好きな番号を言い、巨大なルーレットのような数字のついた車輪をぐるぐる回す。そしてその車輪が止まったとき、矢印のところにさっきの番号が該当していれば成功。この時点で500ポンドがもらえる。これが第一ラウンド。

第二ラウンド。金が二倍になり、三倍になり、あとは矢が指す番号しだいで四倍になるか全額パーになるか。バカみたいに単純。欲望だけのゲーム。カメラは会場の客の大きく見開いた目を映し、開いた口から流れるよだれを映していく。金!濡れ手にアワの金!トリストラムの「バッチリ、ゲンナマ」で優勝すれば、文官俸給表の年金と同額の金がタナボタなのだ。
 トリストラムは、車輪が回り出すとゆっくりとうたうような声で拍子を取り、会場は拍手でそれに応じる。「バッチリ、ゲンナマ!」
 私はこれを見るたびにアタマにくる。(p.86-7)

 お金。現金至上主義。儲かればOK。お金を持っていれば、それでよし。主人公が「アタマにくる」と言っているように否定的な取り上げ方ではあるが、こういう番組が描かれること自体、80年代のイギリス、いかにもサッチャー時代のイギリス、という感じがする。人々から古き良きストイックさが徐々に失われていき、活発な経済活動に裏打ちされた豊かな社会の到来。これが良いか悪いかは別として、この時期を境に、イギリスの小説も少しずつ変わってきたような感じがする。その名も『マネー』という小説が、マーティン・エイミスキングズリー・エイミスの息子)によって発表されたのも、この頃のこと(1984年出版)。ところで、『バッチリ、ゲンナマ』の原題は「Lashings of Lolly」となっていて、生々しくいやらしいニュアンスが出ているあたり、なかなか工夫された訳だなあと感心する。

 『ワイズ・チルドレン』にはもうひとつ80年代らしい特徴があって、それは「歴史」の扱い。多くの人が多くのところであれこれ書いているので、興味のある人はそういうのを参照されたらいいのではないかと思うが、とにかく、この頃のイギリス小説は、なぜか「歴史」のオブセッションにとりつかれる。一人称の主人公「私」が、現在の立場から過去の経緯を振り返っていく…こんなパターンが多い。サルマン・ラシュディーの『真夜中の子供たち』(1981)や、カズオ・イシグロの『日の名残り』(1989)とかがその好例。そしてこの『ワイズ・チルドレン』でも、主人公の女性ドーラ・チャンスが、自らの一族の歴史を振り返っていくというもの。

 そして最後に、シェイクスピア。こういうところは、やっぱりイギリスの小説だなあと思う。『ワイズ・チルドレン』にはシェイクスピアの作品について、明に暗に数多くの引用・言及がなされていて、小説を読むと、自分のシェイクスピアの理解度までが試されるような気がする。とはいえ、この小説はいい読書経験になった。彼女のほかの小説もぜひ読んでみたいと思った…これが僕からの何よりの賛辞ということで。

サイモン・アーミテイジ 「叫び」

The Shout


We went out
into the school yard together, me and the boy
whose name and face


I don't remember. We were testing the range
of the human voice:
he had to shout for all he was worth,


I had to raise an arm
from across the divide to signal back
that the sound had carried.


He called from over the park- I lifted an arm.
Out of bounds,
he yelled from the end of the road,


from the foot of the hill,
from beyond the look-out post of Fretwell's Farm-
I lifted an arm.


He left town, went on to be twenty years dead
with a gunshot hole
in the roof of his mouth, in Western Australia.


Boy with the name and face I don't remember,
you can stop shouting now, I can still hear you.


Simon Armitage



「叫び」


二人いっしょに
校庭へと出た僕とその少年の
名前と顔は


覚えていない。人間の声が届く範囲を
試すところだった。
彼は力のかぎり叫び、


僕は腕を上げ
隔たりを超えて声が届いたことを
合図する。


彼は公園の向こうから声をあげ―僕は腕を上げる。
敷地を出て、
通りの端から彼は叫び、


丘のふもとから、
フレットウェル農園の見張台の向こうから―
僕は腕を上げる。


彼は街から去って、そのまま二十歳で死んだ
西オーストラリアにて
口蓋に銃の穴をうがつことで。


名前も顔も覚えていない君よ、
もう叫ぶのをやめてもいい、僕にはまだ聞こえている。


サイモン・アーミテイジ


 僕たちの声はどこまで届くのだろうか。大声を張り上げても、世の中に響くとは限らない。空気の振動はやがて途絶えてしまう――比喩的にも、物理的にも。1977年に打ち上げられたアメリカの宇宙探査機ボイジャー1号ボイジャー2号には、人間の声なども収録した金属板が取り付けられている。無限ともいえる広大な宇宙で、この探査機が人類以外の何者かに受け取られる可能性はほとんどない。探査機が比較的近い恒星に到達するのにも、約四万年もの時間がかかるのだそうだ。にもかかわらず、人間の声を届けようというこの取り組みにこそ、この詩に通じるところと同じ意味があると僕は思う。

 詩は各連が「短長短」「長短長」の三行の繰り返しで、最後だけ二行からなっている。とくにこの短い部分が印象的で(五行目の「of the human voice」とか)、こういう言葉のすごみは、とても翻訳では伝えることができない。あと、詩としては比較的よくある技法のように思うが、校庭、道路、丘、農園というふうに舞台がどんどん広がっていき、最後には地球の裏側まで到達してしまう、空間の広がりが味わいどころ。

 ところで、名前も顔も思い出せないような人のことなのに、どうしてオーストラリアで自殺したことは知っているのだろう、という疑問がわく。何らかのかたちでその死を伝え聞き、「僕」はその少年のことを思い出したのかもしれない。あるいは、そういう厳密なものではないのかもしれない。小学校時代の友達なんて、僕ももう今では誰が誰だかはっきりしないのだから。

2007年回顧(このブログ編)

やる気なし!?

 さっそく振り返ってみるとしよう。まずは更新ペースの問題から。以前は時間のあるときに不定期で更新していたこのブログだけれど、今年の二月から金曜日更新ということに決めてみた。この作戦、六月までは順調だった。ちゃんと毎月四回更新できていたのだから。ところが、七月くらいから隔週にペースダウン。そして、ご存知のかたは既にご承知のとおり、最近はこの二週間おきのペースさえ守れなくなっている(便宜上、日付だけは隔週金曜日に設定しているが、実際のところ遅れて更新してしまっている)。

 さてはタイセイ、ついにやる気をなくしたか?…このようにお感じの方もおられると思うが、うーんと、べつにやる気がないわけではなくて、他のことに費やす時間が今年後半から多くなってきて(水泳とか)、パソコンの前に何時間も座る機会が減ってしまっていることが大きな原因。その「他のこと」に夢中になるのではなくて、このブログにもっと時間をかければいいじゃん、と言われてしまえばその通りなのであって、何を言っても結局は言い訳に過ぎないのだけれども。ちなみに、昨年2006年は前夜に飲みに誘われて徹夜してしまい、翌日の休日はとてもブログどころの健康状態(精神状態)ではなかったという事態が頻発したが、その上司も会社を去り、今年はそのようなアルコール性の更新障害は発生しなかった。あんなに夜中にお酒を飲んだことが最近ではむしろ懐かしいくらい。

2007年の読書傾向

 今年この場で取り上げた小説をざっと羅列してみると:

★ ジュリアン・バーンズ 『イングランドイングランド』 (1月8日)
★ オルダス・ハクスリー 『すばらしい新世界』 (2月16日)
★ ウィリアム・トレヴァー 短編集『聖母の贈り物』 (2月23日)
★ B.S.ジョンソン 『老人ホーム――一夜のコメディー』 (3月2日)
★ ジョン・ベイリー 『赤い帽子』 (3月16日)
★ グレアム・グリーン 『権力と栄光』 (4月13日)
★ ロレンス・ダレル 『ジュスティーヌ』 (4月27日)
★ ジョージ・エリオット 『ミドルマーチ』 (5月)
★ ヴァージニア・ウルフ 『灯台へ』 (5月25日)
★ マーガレット・ドラブル 『夏の鳥かご』 (6月1日)
★ ジュリアン・バーンズ 『太陽を見つめて』 (6月22日)
★ A.S.バイアット 『ゲーム』 (6月29日)
★ アイリス・マードック 『天使たちの時』 (7月6日)
★ アントニー・バージェス 『エンダビー氏の内側』 (7月20日
★ アンガス・ウィルソン 短編集『悪い仲間』 (8月3日)
★ ヴァージニア・ウルフ 『ダロウェイ夫人』 (8月31日)
★ マーガレット・ドラブル 『針の眼』 (9月7日)
★ ジェイン・オースティン 『分別と多感』 (9月21日)
★ アントニー・バージェス 『1985年』 (10月5日)
★ D.H.ロレンス 『恋する女たち』 (10月〜11月)
★ エリザベス・テイラー 『エンジェル』 (12月14日)

 改めて書き出してみると、今年もあれこれ読んだなあと感じる。このブログでは、第二次大戦後のイギリス小説をメインにとは思っているけど、2007年は1945年以前の小説が多くなってしまったかもしれない。今まで読んだことがなかったジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』と、D.H.ロレンスの『恋する女たち』をじっくり読むことができたのはいい経験だった。それと、敬遠していたヴァージニア・ウルフが身近に感じられたのもよかった。しかし、こういういわゆる「大作」は、ブログに感想をまとめるのが大変だった。よく知られている作品だけに、ありがちなことを書いても意味がないと思うし、でもかといって個性的なことを書くのも難しい。

 それと、別に当初から意図していたわけではなかったけど、「姉妹」が登場する小説を好んで選択する結果にもなった。とくに、実際に姉妹でもある二人の作家、マーガレット・ドラブルとA.S.バイアットが、それぞれ姉妹関係をテーマとして書いた小説『夏の鳥かご』と『ゲーム』を読み比べる作戦は、個人的にはなかなかおもしろかった。こういう「姉妹」テーマのほかに、新たに刊行された翻訳作品のうち、興味がわいたものをニュース的に取り上げるようにもしている。2007年のブログでいえば、『イングランドイングランド』、『聖母の贈り物』、『赤い帽子』、『ジュスティーヌ』、それに『エンジェル』はこの方針で書いたもの。

 しかし…第二次世界大戦後のイギリス小説というのは、それほどメジャーな文学ジャンルではないと思うのだが、それでも、本当に星の数ほどの作品が存在する。常々、翻訳が少なすぎる、もっともっと翻訳されるべきだ、と感じているが、それでも僕はここで翻訳されたもの(それも、紹介するに値すると自分が感じる作家のもの)を全部ここで取り上げようと考えると、気が遠くなりそうだ。2005年の秋にこのブログを始める以前、僕はアイリス・マードックにどっぷり浸っていたが、彼女の、あのたくさんある小説をもっと紹介して、魅力をもっと書いてみたいなあと思う。それに、ちょうど今から十年くらい前、僕はデイヴィッド・ロッジを愛読していたが、あの熱中した経験もこのブログに復活させてみたい。それと、やっぱりドリス・レッシング。今、旬の作家ということもあるが、『シカスタ』のように、僕の二つの好きなテイスト、つまり「イギリス文学」と「SF」が融合する稀有な作家でもある。時間をかけてゆっくり読書したいなあと思う。

2008年の展望

 以下は、2006年末に書いたもの。

 我が家の本棚には、まだじっくりと読んでいない本が、今や遅しと順番を待っている状態。一日24時間、週休二日ではとても追いつけない。それなのに、新しい本が続々と本棚に到着する。そんな中でも、一応読んでみたいと思っているのは、まず、戦後の男性作家たち。とくにアンガス・ウィルソンは何冊かあるので、試してみたい。(想像するに、きっとかなり地味な感じの作風だと思うが、20世紀イギリス文学という観点からは、やっぱり興味がある。)他に、アントニー・バージェスとキングズリー・エイミスとか。もし僕が、ローレンス・ダレルとアラン・シリトーとジョン・ファウルズを取り上げたら、苦手な食べ物もがんばって食べているということで、褒めてやってほしい。


 女性作家だと、スパークとマードックとドラブルの本で取り上げていないものが、まだたくさんあるので、そういうのを紹介することになると思う。あと先日、ドリス・レッシングの『草は歌っている』(翻訳)を入手したので、それも読んでみたい。自分で言うのもなんだが、これは入手困難な一冊。かなり探した。

 
 さらに、戦前から戦後の作家でちょっとマイナーな人たちもいる。L.P.ハートリーや、C.P.スノー、アントニー・ポウエル、それにエリザベス・ボウエン、エリザベス・テイラー、コンプトン=バーネットなど。こういう人たちも、いい機会があればぜひ。


 新しい世代の作家の「味見」も続けていく予定で、既に登場したイアン・マキューアンジュリアン・バーンズに加えて、マーティン・エイミスとかも。あと、デイヴィッド・ロッジとマルカム・ブラッドベリについても。

 というか、2008年も、このまんまじゃんって思う。アンガス・ウィルソンももう一冊読んでみたい。ダレル、シリトー、ファウルズに、エイミス親子、スパーク、ドラブル、マードック、レッシング。「マイナーな人」もメジャーな人も…みんな大集合の2008年、になればいいな、と。

2007年回顧(出版編)

今年の出版物を振り返って

 今年2007年は、お正月からびっくりさせられてスタートした。元旦の新聞に、長らく絶版だった、あのロレンス・ダレルアレクサンドリア四重奏」(高松雄一訳、河出書房新社シリーズが再び出版されるという広告を発見したことだ。その後、春から順調に出版されて、さらに新聞での書評などでも紹介されて、今年2007年前半のイギリス文学関係ではもっとも注目の書籍になったと思う。同じ新聞広告には、さらにこの11月から同じダレルの「アヴィニョン五重奏」シリーズも刊行予定ということだったが、こちらは現在のところまだ刊行されていない。我が身を振り返ってみれば、元旦の計というのはなかなか実現が難しかったりするわけで、「五重奏」の刊行についても長い目で見てあげるべきだろう。あと、ダレルということで言えば、このダレルブーム(?)に便乗するかたちで、これまた長らく絶版だった彼の『黒い本』(河野一郎訳、中公文庫)も復活している。

 僕の個人的な印象だが、今年は文庫本に注目株が多かった。まずは、朝日新聞のコラム(3月6日)で、丸谷才一氏から「もっとモダニズムの本を出したらいいのに」と指摘された岩波文庫から。まず注目は、ジェイムズ・ジョイス『若い芸術家の肖像』(大澤正佳訳)が6月に発売されたこと。ジョイスのこの小説といえば、長らく新潮文庫丸谷才一訳に慣れ親しんできたわけで、新たに発売された岩波文庫版との読み比べはきっとおもしろそうだ。そしてJ.B.プリーストリー『夜の訪問者』(安藤貞雄訳)イングランド紀行』(上下巻、橋本槇矩訳)も刊行されて、こういう作家もいたのだなあという勉強になった。岩波文庫2007年最大の注目だと思うのは、秋から発売されたヘンリー・ジェイムズ『大使たち』(上下巻、青木次生訳)。なんと下巻巻末には「ジェイムズの作品を読み慣れない読者のために」という訳者の解説まで付されている親切な一冊。こうして、ヘンリー・ジェイムズについては、彼の後期三大長編(この『大使たち』のほかに、『鳩の翼』、『黄金の盃』、二作品とも講談社文芸文庫)がすべて文庫本で読めることになった。

 文庫本ではないけれども、岩波書店の話になったのでここで書いておくが、V.S.ナイポール『魔法の種』(斎藤兆史訳)が発売された。同じ出版社と訳者のコンビで2002年にはナイポールの『ある放浪者の半生』も出ているし、2005年には『ミゲル・ストリート』(こちらの訳者は違う人だけれども)も出版されている。2001年に彼がノーベル賞を受賞したことが発端とは思われるが、岩波書店はなぜこんなにもナイポールが好きなのだろうか。

 筑摩書房ちくま文庫では、今年2月発売の中野康司訳ジェイン・オースティン『分別と多感』が良かった。ジェイン・オースティン、とくに『高慢と偏見』はあちこちの出版社から文庫本が刊行されているので、いったいどの訳者のものを選んだらいいのかわからなくなってしまう。というか、オースティンの原文はああいう英語なので、翻訳はどうしても説明風に長々となってしまい難しい作業だろうと想像する。今回、個人的には中野訳がなかなかとっつきやすかったので(ということは、あのドライな原文に、それなりに手が加えられているという意味でもあるが)、同じ訳者による『高慢と偏見』と『エマ』(ともにちくま文庫)も試してみたいと思った。イギリス文学ではないけれども、同じちくま文庫のラインナップにエドガー・アラン・ポー短編集』(西崎憲編訳)が加わったのにも興味を感じている。ポーの短編集は、売れるのかなんだか理由はわからないが、文庫本業界では激戦区のひとつ。でも、僕の好きな本がこのようにして増えるのは歓迎したい。

 他に今年出た文庫本で注目のものをどんどん見ていく。中公文庫ではトマス・ハーディ『日陰者ジュード』(上下巻、川本静子訳)をやっぱり読んでみたい。それと集英社文庫ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』(丹治愛訳)も翻訳が読みやすくて良かった。あのウルフなのに、いたって親しみやすい。早川書房のハヤカワepi文庫からは(イギリス文学ではないけど)クッツエー『恥辱』(鴻巣友季子訳)カズオ・イシグロ充たされざる者』(古賀林幸訳)が出た。『充たされざる者』は文庫本としては異例の分厚さ。きっと、上下巻にすると下巻を買ってくれない人が続出するからなのだろう…ということは、つまらない作品なのだろうか。今度読んでみることにするが、腕が疲れるだろうな。ちなみに、ここまでに紹介した四作品とも、元々は単行本で発売されていたので、厳密には新出のものではない。新出の作品で文庫本なのは、サラ・ウォーターズ『夜愁』(上下巻、中村有希訳、創元推理文庫。まだ読んでいないので、果たしておもしろいのかどうかわからないが、彼女がこの小説のために取り上げた時代(第二次世界大戦前後)のイギリスには興味があるので、どのような具合に描写がなされているのか、それを楽しみに近々必ず読むことになると思う。

 文庫本に関しては変り種も刊行された。出版社はなんとハーレクイン。HQ Fast Fiction、略してHFFシリーズと称して、ジェイン・オースティン『分別と多感』(日向由美訳)高慢と偏見』(田中淳子訳)シャーロット・ブロンテジェイン・エア』(南亜希子訳)エミリー・ブロンテ嵐が丘』(石川久美子訳)の四作品が12月に一気に刊行された。勇気を出して本屋さんのこの手のコーナーに行き、実物を手にしてみると「あれ?薄い!」と感じる。それもそのはず、ダイジェスト版になっているとのこと。どこがどうなってしまっているのだろうか。ある意味、興味津々。ジェイン・オースティンに関しては、なぜ人気の『エマ』ではなくて『分別と多感』なのだろうという疑問もわく。

 続いて単行本をチェック。今年の前半で一番良かったのはウィリアム・トレヴァー短編集『聖母の贈り物』(栩木伸明訳、国書刊行会だろう。この本はなかなか上質な味わいだった。他にジョン・ベイリー『赤い帽子』(高津昌宏訳、南雲堂フェニックス)なる超マイナー作品も出版された。もっとメジャー作家では、ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』(岸本佐知子訳、白水社が注目。ウィンターソンは、なんだか若手の作家という印象だったが、最近はめっきり「文学」として取り上げられるようになってきた。ウィンターソン『パワーブック』(平林美都子訳、英宝社も今年翻訳出版されている。あと、ぜひとも読んでみたいのは、ダフネ・デュ・モーリアレベッカ』(茅野美ど里訳、新潮社)。同じ出版社から違う訳者で文庫版もあるが、こちらは新訳。ダフネ・デュ・モーリアなんて…と馬鹿にしてはいけない、少なくとも『レベッカ』だけは十分に読む価値があるのではないかと僕は思うのだけど、どうだろう。

 年末になって、映画の公開に併せてエリザベス・テイラー『エンジェル』が翻訳されたのは、前回のブログに書いた(単行本は白水社、小野谷敦訳、文庫本はランダムハウス講談社、最所篤子訳)。年末もかなり遅くなって、イアン・マキューアン『土曜日』(小山太一訳、新潮社)も出た。あと、個人的に本当に驚いてしまったのは、アラスター・グレイ『ラナーク』(森慎一郎訳、国書刊行会が刊行されたこと。アラスター・グレイだけは絶対に翻訳されないだろうと思って、密かにチビリチビリと英語で読んでいたのだ。出版社の言うような『重力の虹』や『百年の孤独』に並ぶ傑作かどうかについてはいささか疑問だけど、大作であることには間違いない。不思議な世界が展開するわけだが、まあ、少なくとも『重力の虹』よりはずっと読みやすい小説。

 さて、ここまで一言も触れなったけど、今年2007年の最大のニュースは、ドリス・レッシングのノーベル文学賞受賞だろう。戦後イギリス小説にとっては、久しぶりの快挙。レッシングは必ずしも読みやすい作家ではないので、受賞後にちゃんと記念出版が行われるのか個人的には危惧していたけど、最近になって書店でもかなり充実したラインナップになってきた。基本的にはかつて絶版になっていた作品の重版ばかりだが、中でも水声社から出た三作品、『暮れなずむ女』(山崎勉訳)、『生存者の回想』、『シカスタ』(ともに大社淑子訳)には注目。かつて刊行していた出版社から版権を買い取ったのだと思うが、新たにきれいに体裁良く発売されている。選ばれた作品もなかなか良い。一方、例えば晶文社『草は歌っている』(新装版、山崎勉、酒井格訳)は、かつてのものと中身は一緒で、カバーだけ新しくしたとしか思えない。とはいえ、レッシングの代表作『草は歌っている』がこのように身近になった功績は否定してはいけないだろう。最後に、レッシングについての僕の希望としては、まず新訳を刊行することを期待したい。レッシングには未訳のものがたくさんあるのだから。あと、既訳で絶版の作品のうち、ぜひとも『黄金のノート』の復活をお願いしたい。2008年、どこかの出版社がやってくれないものか。

 次回は、今年の僕のブログを振り返る予定。果たして年内に間に合うのだろうか。

 エリザベス・テイラー 『エンジェル』

小谷野敦訳、白水社2007)
(最所篤子訳、ランダムハウス講談社2007)
Elizabeth Taylor Angel  1957〕

強い情念の世界

 僕が思うに、物事にクールで、何事にも執着せず達観して生きていけるような登場人物は、小説にはふさわしくない。主人公が「別にどうだっていいじゃん」とか「なるようになるさ」と割り切れるような性格では、それ自体は格好良いかもしれないけど、読者にとって読みがいのあるストーリーになるとは思えない。他の人からすればどうでもいいようなことであっても、心底からこだわり、粘着質なまでに追及するキャラクターこそが、フィクションとしてはよろしい設定ではないかという気がしている。

 だから、僕は『源氏物語』の六条御息所が、他のきれいなだけのお姫様連中よりもずっときわだってすぐれたキャラだと感じるし(もちろん、みんな多かれ少なかれ光源氏には悩まされるのだけれども)、落語『真景累ヶ淵』の豊志賀が「七人目まで殺す」とまで書き残すすさまじい情念こそ、この落語を名作たらしめている一因ではないかと思う。

 最近のイギリス小説でいえば、フェイ・ウェルドンの『魔女と呼ばれて(The Life and Loves of a She-Devil)』(1983)がこの傾向を顕著に見せている作品の一例。自分のもとから離れていく夫を見返してやろうと、主人公のルースは徹底した自己改造を進めていく。激しい嫉妬心と、相手や世の中を見返してやりたいという強い執着心。男性キャラクターがこのような心情にとらわれた場合、なぜか行動を起こさず、お酒に走ったり、自殺したりしてしまうものが多いような気がする。これは「男はクールに成功すべきだ」みたいな世間の既成観念のせいだろう。男がネチネチと嫉妬にとらわれて苦しみ、努力するなんてちょっとどうなのだろうか、男らしいといえるのかどうか…という否定的な見方のせいだ。(だからこそ、敢えてこういうキャラクターの小説を成功させることができるなら、本当は画期的なのだろうけど。)

 というわけで、嫉妬心やら執着心にとらわれる情念的キャラクターは女性の設定であることが多いような気がするが、こういう心情にとらわれたときの女性登場人物の振る舞いかたは、時代によって当然異なってくる。女性の立場が世間的にまだそれほど認められていなかった時代の作品、たとえばジェイン・オースティンの『マンスフィールド・パーク』とか、シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』の主人公たちは、『魔女と呼ばれて』のルースとは全く異なる振る舞いかたをする。『マンスフィールド・パーク』のファニー・プライスは、ひたすら耐える。「おしん」のように(たとえが古い)耐えて耐えて耐え忍ぶ。いずれは自分の時代が来ると信じて。『ジェーン・エア』のタイトルと同名の主人公は、かなり反抗的で生意気だけど、具体的なアクションはあまり起こさない。やっぱりなんだかんだいって、この時期の小説では女性はまだまだ受動的な振る舞いしかできない。ところが、『魔女と呼ばれて』のルースは非常に積極的に行動する。我慢して待っていても自己実現はできないのだ(「運命などというものが本当にあるかのように、身に起こることをただ受け入れる」のではなく「人生とは奪い取るもの」なのだとルースは語る*1)。そしてこういう女性を許容する社会が、この二十世紀後半には成立していたということでもある。

 知られざる名作家エリザベス・テイラーの『エンジェル』(1957)でもまた、嫉妬心と見返してやりたいという強い気持ちにとらわれた女性が登場する。主人公の少女エンジェル(アンジェリカの愛称)が嫉妬し見返そうとするのは、男ではなくて、社会全般というところがユニークなのだけれど、低い社会的出自の彼女は小説を書くことによって、経済的・社会的成功を得ようと夢見る。そして、自らの能力と努力でそれを実現してしまう。ただひたすら待ったり、耐え忍んだりするのではなく、行動と才覚で成功を手にするというストーリーはなかなか現代的で、この小説はそういう面でも十分評価されていい。結局のところ、エンジェルは成功するだけではなくて、やがて時代の変化とともに没落してしまうのだけれど、読んでみるとわかるが、べつにこの展開は彼女の積極的行動を否定しているわけではない。むしろ小説としてはこのような顛末のおかげで、栄枯盛衰というか、諸行無常というか、なんとも味わい深い印象を残すことになる。

ユーモアと現実

 では『エンジェル』が真面目な小説かといえば、まあ、真面目なのだろうけど、きっと作者エリザベス・テイラーはけっこう楽しみながら書いたのではないかと想像できるくらい、かなりユーモアに富んだ小説でもある。なんといっても、主人公エンジェルのキャラクターがとても奇矯でおかしい。貧しい家の出身の彼女は、公爵とか伯爵夫人とかが頻出する小説を勝手に想像して書き上げてしまうのだが、なにせ自分で経験したことがないことを想像するわけだから、折々に登場人物がおかしな間違いを犯してしまう(たとえば、シャンペンを栓抜きで開けるとか)。エンジェルが創作するこうした『レディ・イラニア』などの作品は、結局、無知な少女の夢物語ということになっている。でも、この「豪胆で誇張に満ちていた」小説が大衆の間で爆発的な人気を得て、見事彼女は流行作家の地位を手に入れる。

 エンジェル自身は、自分のことを一流文学の大作家だと思っている。現実を直視しない、このような彼女の勘違いぶりもおかしい。エリザベス・テイラーの表現だと、こんな具合で楽しめる:

まだエンジェルには崇拝者たちからかなりの数の手紙が届く。毎朝、エンジェルの本が人生の転機になったとか、心を動かされたとか、辛いときのなぐさめになったとかいう人々から手紙が何通かは舞い込んだ。エンジェルはこういう手紙に何度も目をとおし、必ず返事を書く。どことなく恵みをたれる女王然とした手紙は、のたくるような筆跡で、すみれ色のインクで書かれている。エンジェルはそうした手紙の行く先を想像する。受け取った相手は雷に打たれたようになり、感謝と驚きで倒れ伏すだろう。そして手紙は人々の間で回し読みされ、一家の誇りとなり、子々孫々まで伝えられていくのだ。時折、それとは違う種類の手紙もあった。聖職者たちがエンジェルの考え方に異議を申し立ててくるのだ。若い人を堕落させないでいただきたい、彼らはそう言ってエンジェルを断罪した。こういう手紙を受け取ると、自分にはそういう力があるのだと感じ、うきうきと手紙を読んだ。坊さんたちを刺激するのはもっともだけど、あたしは子供のための本を書いているのではないのだ。そして花が咲く季節を間違っているとか、オリオン座は八月の夜空には現れないとか、ギリシアの神々を取り違えているとかいう、あら探しと批判ばかり並べた手紙は、評論家のしわざだということにされた。あいつらのあたしに対する陰謀の一つ、というわけだ。(最所訳、p.318-9)

 いっぽう、この小説はいったん成功して夢を現実にした主人公が、逆にこんどは、自分の思いどおりにならない現実に次々と直面していく物語でもある。憧れ描いていたお屋敷「パラダイス・ハウス」は、実際には寂れた館になってしまっていたし、エスメとの新婚生活も決してうまくいかなかった。もちろんエンジェルは持ち前の強気な性格なので、こうした現実を受容するなんてことは決してない。自分の思いどおりに記憶や考えを変更してしまう。僕個人としては、作者テイラーがエンジェルに対して、ただ単に成功や栄華を与えるだけではなく、むしろ次々と現実問題に直面させて主人公を困惑させているところが興味深いと思った。エンジェルが書き上げる本は非現実的な夢物語なのに対して、テイラーは二度の世界大戦という実際の歴史をもふまえた、現実重視のストーリーを進めている。『エンジェル』がイギリスの小説らしい、地に足のついたリアリティーとユーモアという枠組みがある一方で、その小説の内部では、強烈なキャラクターと夢見心地の本が登場するという、相反するものの組み合わせがおもしろい。

お屋敷小説

 主人公のエンジェルはまだ小説を書き始める前の学校時代、「パラダイス・ハウス」に住むことを夢見ていた。その後、この邸宅に住む住人は没落し、お屋敷は荒れるままになっていたが、大金持ちになったエンジェルがこの家を買い取り、きれいに修理して、ついに実際に住むことになる。再び人が暮らすことになったパラダイス・ハウス。ところが、エンジェルの小説が売れなくなり、またエンジェル自身も執筆をしなくなってしまったため、エンジェルの財政は火の車、さらに、世の中も第二次世界大戦の窮乏期を迎え、せっかくのこのお屋敷も、またほころびが目立つようになってしまう。こんなパラダイス・ハウスを中心に語られるストーリー展開を考えると、『エンジェル』もまた、いわゆる「お屋敷小説」なのだなあと思う。

 「お屋敷小説」というのは、僕が勝手に考えた用語なので適当に受け流してもらえればいいのだけれど、いわゆるイギリスの邸宅を物語の中心にすえた小説のこと。その建物が実は小説の陰の主役になっている。イーヴリン・ウォーの『一握の塵』とか『ブライヅヘッドふたたび』、カズオ・イシグロの『日の名残り』、E.M.フォースターの『ハワーズ・エンド』など、「家は城」というお国柄だけあってこの手の小説はいろいろある。ある一軒の邸宅と、そこに住む人々の栄枯盛衰の物語。イギリス小説が好きなら、『エンジェル』をこういう角度から楽しんでも良いと思う。そして二十世紀ということでいえば、こういうお屋敷が衰退し、歴史の表舞台から消え去っていくことが常に物語られる。『エンジェル』でいえば、エンジェルの死後、晩年の彼女を時々訪問していたクライヴはパラダイス・ハウスをこのように考える。時代はもう第二次世界大戦後を迎えている。

彼(クライヴ)は片田舎でときどき見かける荒れ果てた家々のことを思った。黒ずみ、焼き焦げているものもあり、ただ見捨てられたものもある。これまでそれを気味の悪い、呪われた場所のように思っていた。しかし、パラダイスハウスは、もうずいぶん昔から見捨てられてきたのだ。ノラが去れば、誰も莫大な負担を抱えてこんな廃墟を引き受けるものはいまい。家は谷に飲み込まれていくだろう。木々の枝が四方から包みこみ、覆い隠していく。戸外のものたちが家の中にしのびこんでくる。まず、蔦が隙間から入り込み、そろそろと割れた窓や崩れかけた石に這いのぼる。こうもりがガラスの落ちた半円形の明かり取りから入ってきて、ホールの天井にぶらさがる。壁にはえたきのこが風変わりな飾りになるだろう。柔らかなクモの巣がよろい戸を覆う。そして最後には、あの緑の谷の、強靭な植物たちがこの家を埋め尽くすだろう。(最所訳、p.433-4)

エンジェルの壮大な夢の結果であるパラダイス・ハウスは、彼女の壮絶な(荒唐無稽な?)著作同様に、このようにして人々の眼前から消え去っていく。

*1:『魔女と呼ばれて』集英社文庫p.388-9